帝国兵を軽々と斬り捨て、女神の部屋の周囲を一掃した後。肉声と引き換えに人外の者との契約を結んだ彼を、静謐な女神フリアエと護衛の剣士イウヴァルトはやはり驚きの表情で見つめた。
 兄が、幼なじみが秘法中の秘法ともいうべき儀式を執行した、その事実もさることながら。その相手が高潔な竜という事実は驚愕に値するものであった。下位の存在たる人間と、好き好んで寿命を共有する魔物は少ない。ましてや全生物の頂点に立つ、気高い竜を相手になどと。まるで神話のようだ、と現実離れした話にイウヴァルトは目を丸くする。
 それでも儀式の代償に、カイムは自分の言葉を永遠に失った。契約と同時に舌に刻まれた、どこか刺々しい紋章を見せて首を横に振った彼に、元許嫁どうしののふたりは居た堪れない表情を見せた。

「兄さん……」

 女神として地上から隔離されたかつての妹が、痛ましくも静やかな声で呼ぶ。決して相まみえることのできなかったはずの兄と元婚約者を前に、長らく幽閉されてきた彼女は何を思い、思ってきたのだろう。この世に祈る神もすがるものも何一つないのと信じるカイムにとって、妹が負う女神の責務とやらはまったく無意味な、何も生まない、ひどく理不尽な枷に過ぎなかった。
 それでも久方ぶりに見る妹の顔は、確かにかつての面影を宿していて。傍らに立つイウヴァルト――フリアエに惜しみ無い愛を注ぐ元婚約者も、三人顔を付き合わせた幼なじみの再会に、戦場とはいえどこか気を良くしているふうであった。

「……時間がないな。ここも、もう安全じゃない」

 超常の能力を持つカイムに遅れて、階下に漂う不穏な空気をイウヴァルトが敏感に察して言った。大軍の一部を蹴散らしたとはいえ、城に潜む敵を全て始末した訳ではない。
 城外ではまだ、少なくない数の連合兵士が決死の抵抗を続けている。圧倒的な兵力差を前に、ここまでよく持ったものだ。彼らに報いるためにも、悠長に再会を喜んでいる時間はない。
 どこか儚げな雰囲気をした優しい気性の青年は、やがて意を決したように口を開いた。長い付き合いの剣士に向かって、ひとつの提案を告げる。

「カイム。俺はフリアエを、エルフの里に連れていこうと思う」







□   □   □




 「女神」は同じ時期に、地上にたったひとり現れる。
 その責務を宿命づけられた女性は、時が来ると身体の一部、主に下腹部に「オシルシ」が自然と顕れる。女神の役を課せられた者は終わることのない苦痛に苛まれるが、その存在は世界に秩序と、調和とをもたらすと言われている。世界を保つ封印は大地に3つ、女神にひとつ。これらの崩壊は地上のすべてに、避け得ぬ破滅をもたらすと伝えられている。一度女神に選ばれた人間は任を生涯解かれることはなく、逃れる術は死しかない。
 幾年か前に「オシルシ」が顕れたことで、フリアエは死す自由を奪われた。女神の保護という名目で長らく幽閉されてきた彼女は、昔にくらべて感情の多くを、心の中に押し込めているようだった。女神の城にまで及んだ帝国の侵略行為が、ひとときとはいえ彼女にある程度の自由をもたらしたのは、まさしく皮肉と言う以外にない。当事者たるフリアエ本人も、そのことを感じているのだろうか。テントを張って休息する最中、行動を共にするのは久しぶりねと兄に囁いた声色は、単に昔を思い出しただけではないようだった。――ほのかに、うっすらと、陰を落としているような。

「エルフの里は永世中立だ。帝国軍もやすやすと手は出せないはずさ」

 フリアエの身を守りつつ、落城寸前の女神の城を脱出したカイムたちは、そんなイウヴァルトの強い説得と誘いに乗り、静かな森の奥深く、エルフの集落を目指している。
 エルフ。耳長の長命種。彼らは人目を避けるというより、自然との調和を重んじるとの理由から、緑豊かな土地を好んで住む傾向にある。
 やや内向きの気質から、積極的に他種族と交わるものこそ少ないものの。世界の秩序を司る女神を無下に扱うことだけはないはず。永世中立を謳う村だから交渉も難航するかもしれないが、しかし一度匿ってしまえばこちらのもの。さしもの帝国も、おいそれと攻めこむ訳にはいかない、はずだ。
 協力を求めるイウヴァルトの言葉の裏には強い決意が窺えた。フリアエが女神に、世界中あまねく人びとの希望になる以前から、彼女はイウヴァルトにとっての支えであり、希望であり続けている。永遠に触れ得ぬ存在となった女と再会を果たした奇妙な巡り合わせに、己のすべてを賭して守り抜く、と意志を強く持ったらしい。
 男は黙して、竜は語らず、誘いに従った。
 連合兵の生き残りを連れて脱出し、ひとまず追っ手の届かない場所まで無事にたどり着いた。警戒を維持しつつ、人目を避けてキャンプを設営する。
 エルフの里まではまだ何日もかかる。しかし戦の気配からようやく離れたことで、わずかながらも休息を得られたのは幸福と言えた。

「あなたが、兄さんの……?」

 砂塵にまみれながら戦線を離脱する最中、女神フリアエが見上げた表情を、ドラゴンは木陰に身を横たえながら思い出した。外界のすべてから切り離されてきた彼女は、どこか幼く、そして儚い。少なくとも、人間を愚かと断じ一顧だにしないドラゴンですら、ひとひらの哀れみを禁じ得ぬほどには。
 それでも。緋色の竜の割れた瞳を見上げたとき、細い身に走った強張りをドラゴンは見逃さなかった。
 カイムの竜を見る目が異様なまでの憎しみに彩られているのと、おそらく無関係ではないのだろうと竜は察する。過去に何があったかは知る由もなく、積極的に知ろうとも思わなかったが。次々と生まれては瞬く間に死んでいく人間の事情に、さしたる興味はなかった。

(単なる兄と妹、というわけでもないようだが)

 ふとしたとき女神が兄へと向けた視線に、竜が見つけた名伏しがたい感情。
 それが嗄れた声で語られることも、当分のあいだは、ない。

「聴いてくれるか?」

 少しでも女神を慰めようと言うのだろうか。気を張りつつも、イウヴァルトがハープを手に取ってフリアエに微笑みかけた。
 女神が蚊の鳴くような声で答えると、縦張りの弦がゆっくりと音を奏ではじめた。「いつもの歌だが」やがて青年の喉が震え、美しく唄を揺る。
 希望を求める旅を前に、イウヴァルトの歌は優しく響く。死を振り撒くためだけに、神の使徒の心臓を求めた男も、身じろぎひとつすることなく耳を傾けた。
 それが彼の聞く、友の最後の歌になるとも知らずにいた。



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