帝国領の境から遠く離れた、泥のように曇る空の下に、女神の城は静かにたたずんでいる。
 上空から見れば明らかだが、堀と砦の他にはさしたる防衛の準備を持たない平城だ。大きな戦いを、そもそも想定していないという理由があった。この城はたったひとりの女のために建つ城であり、そして彼女を狙う人間などこの世にはいない、はずなのだ。本来なら。
 己を捕えていた帝国軍の空中兵器を焼き滅ぼし、いささか溜飲が下がった竜は、背中に乗っている男の指差す通りに、首を大きく振って加速し滑空する。
 砂の一粒ほどだった人間たちのすがたが、みるみるうちに砂利に、石になって近づいてくる。やがて低空へ近づいたのを見計らった男は、目を憎しみでぎらつかせ、待ちきれないとばかりに飛び下りていった。
 地表に降り立った男に気づいた帝国兵士が次々と斬りかかった。初太刀をくぐった男の長剣が閃き、冑を着けた首が飛ぶ。周囲の者を無造作に振った一撃の下に叩き伏せながら、彼はそのまま城へ向かって、真っ直ぐに駆けはじめた。
(これほど分かりやすい道しるべもあるまい)
 地上を見おろす竜の眼下に、いつのまにやら赤黒く道ができていた。城門前をあっという間に血の海へと変えた彼は、今度は城をぐるりと囲む帝国の軍勢を、長剣一本でなぎ倒しはじめている。駆けた場所には点々と、やはり同じように、血の汚れが染みを作っていた。
 己と契約を交わした青年は、連合国側の優秀な戦士であった。
 瀕死の重傷を負ったまま4、50ほどの兵士を斬り捨てるのを目の当たりにした竜は、もうそのことに気づいていたものの。城の防御にあたる兵が彼に向ける、期待と敬意に満ちた表情から、そのことを改めて確認する。
 「契約」とは、人間と魔物が心臓を交換する儀式だ。魔物は長い寿命の大半を、儚く短命な人間と、命を共有するという形で失う。人間はその身の一部を、代償として捧げ損なう。それて引き換えに、契約を交わした者は、互いが超常の能力を得ることができる。
 次々と敵を斬り飛ばす彼は、如何様な代償を支払ったのか。生意気にも地上から矢を射かける弓兵に近づき、尾で薙ぎ払いながらそんなことを竜は思う。未だ平然と戦い続けている様子を見る限り、とりあえず腕力や脚力を失ったということだけはなさそうだが。見た限りは何も変わった様子は見られないだけに、多少なりとも気になるところではある。

(もうここは落城するな……)

 しかし契約の力をもってしても、集団すべての優劣を覆すには至らなかった。
 連合国から見た戦局は非常に思わしくない。高くから城の周辺を一望し、竜は覆し難い劣勢を確信していた。城壁に向かって無数の兵士が歩を進める様はあたかも蟻の群れが餌に集るように見える。餌、という印象は状況に相応しく、守る兵士の列も乱れ、城壁の所々で散発的な抵抗が起きるにとどまっていた。避けようもなく、敗北が迫っている。
 そのうちに地上から宙へと跳躍し、低空に控える竜の背に青年が戻ってきた。
 帝国軍の兵士はほぼすべてが八人一組の小隊を組む。その群れに果敢に斬り込んだ彼も、周囲を多数にかこまれて手こずっていたようだ。

「やれやれ。世話が焼けるな」

 真一文字に唇を閉じる男に向かって、ドラゴンは牙の間に灼熱を作りながら言う。

「きりがなかろう。まとめて灰にしてくれようぞ」

 しかし彼は竜の言葉に、聞く耳を持たなかった。今度は先ほどとは離れた地点に、再び空中から飛び降りた。少しでも竜の背に手を触れていたくないらしい。
 そういえば契約を交わす直前、瀕死の自分に止めをさそうと剣を振り上げていた竜は思い出す。あのときの男の目のなかは、激しい憎しみが渦巻いていた。帝国軍にか竜に向けてか、あるいはその両方か。いずれにせよ私怨の類いだろう。低位の飛竜などは帝国の軍門に下り、連合国を相手に侵略と暴虐の限りを尽くしていると風の便りに聞いていた。気高い竜に契約を迫ったあの男も、その被害者なのかもしれない。所詮低俗な人間どうしの争いだと、高潔な赤き竜は気にも留めていなかったけれども。
 文字通りやり場のなくなった火炎を、竜は戯れに真下に吐いた。
 地表にあった小隊が弾けるように吹き飛び、血と焦げた肉が散る。生意気にも矢を射かけた雑兵に向けて尾を振ると、地面にぱっと紅い花が咲いた。脆いものだ。本当に呆気なく、簡単に人は死ぬ。そのような取るに足らない存在に何ゆえ契約を許したか、ドラゴンは未だにその理由を見つけられずにいた。生きる意志とやらをあの男は問うたが、そんなものにしがみついた訳ではなかった。気高く高位な竜は、命より種の誇りを選ぶのだから。
 ほんの数分前のことを思い返してみる。カイム自身も深手を負い、脅して決断を迫ったときのこと。あのとき彼から感じた激情は、高潔な竜からしても厭わしいものではなかった。ただそれだけで、他になにもない。
 要するに、その程度だった。今にしてみれば、単なる気まぐれと変わらないようにも思える。随分と下らない真似をしたように感じられた。今さらそのことに、文句を言う気はなかったけれども。
 考えの片手間に、愚かにも抵抗しようとする敵兵を食い殺していく。そのうち、城壁をぐるりと血で染めた男が、いつの間にか城門に戻っていた。城壁越しに見おろすと、城門の内側に帝国兵の姿がたしかに見える。このぶんでは城の中にも居るだろう。急がなければ。こうしている間にも「女神」の近くに迫っているかもしれない。

「行くのか?」

 城の外から、力を貸すことはできない。
 竜が投げかけた言葉の裏にそんな意味を理解して、男は携えた剣の切っ先を振って見せた。
 愚鈍というわけでもないようだ。

「ならば我は、おぬしの帰りを待つとしようぞ。おぬしの――」

 竜ははたと、そこで言葉を止めてから、

「おぬし、名は何という」

 唐突に契約を迫られた成り行きで、まだ名を聞いてもいなかった。
 終始無言を保っていた男が、名を告げるため、ようやく口を開く。

「……?」

 しかし奇妙なことに、唇が動いただけであった。
 異変に気づいた男が喉に手を当て、繰り返し息を吐き出す。首の内側からは、何度やっても、空気がひゅうひゅうと通るだけだ。

「契約の代償であろう。声を失ったか……減らず口はあって百害。契約の代償としては軽いものよ」

 声はやや拍子の抜けた口調であった。城周辺の光景が、その言葉を確かに裏付けている。たったひとりでたちまちのうちに血染めに変えた大地と、赤く化粧された城壁を見れば明らかであった。人間には過ぎた力だ。引き換えに肉声を失ったとて、とても分相応とは言い難い。
 竜の心に、男の思考が流れ込んできた。城内に侵入した帝国軍に向けたどろどろとした感情。声を失ったことはもはやどうでもいいことのようだった。
 そのなかに少しだけ、わずかな期待のようなものがうかがえた。不意に、「フリアエ、」と唇だけが動く。

「女神は城の最上階だ。時間の猶予はないぞ、カイム」

 思念のなかにあった名を呼ぶ。聞いた男はそのまま踵を返し、城の中へと向かっていった。
 契約の力があれば、単独でも城攻めにかかる帝国兵程度に遅れはとるまい。心配すべきは憎しみにとらわれて殺しまくり、時間とともに事態が悪化ししてしまうことくらいか。いずれにせよ残された竜は待つしかない。いまだに城周辺に残る帝国兵の残党を見つけて、戯れに相手をしてやることにした。口のなかにたっぷりと炎をためて、赤き竜は女神の城の上空をゆったりと旋回しはじめた。
 城まわりだけでも、群がる帝国兵はまだ数がある。さきほど周辺を一掃したのに、いったい何処からこれほどの人間が湧いてくるのか。答えを見つけるよりもはやく、竜は赤い炎を吐き出す。天に弓を引いていた不届き物が、赤い目に竜の姿を焼き付けたまま、うめく間もなく消し炭と化した。






□   □   □




 フリアエの住む女神の城の奥深くに、カイムはまだ一度も立ち入ったことがない。神聖なその城は通常いかなる理由であれ、神官でない者が足を踏み入れることが許されない場所だった。それがたとえ女神の兄であろうと、かつて将来を誓いあった元許嫁であろうとも。
 女神とはそういうものだ。妹の体に「おしるし」が顕れたあの日、彼女はカイムの妹ではなく、神の生ける贄となった。親友が身辺の警護にあたることを許されたのは彼自身の強い希望と、帝国軍の侵略という非常事態があったからに過ぎない。

「女神は、おぬしの妹か」

 流れ出るカイムの思考を読み取ったドラゴンが、やや驚いた調子の「声」を放つ。
 先ほどからこの赤い竜は、カイムの思念を勝手に読んでいる節があった。そういうものかと気にも留めていなかった彼も、頭の中に直接声が聞こえたのには反応した。城外にいて届かないはずの竜の声に、走りながら虚空を振り返る。

「離れていても、契約者と我々とは『声』を通わすことができる」

 「声」とは思念による通信のようなもの。
 魔物と心臓を交換する儀式の、いわばおまけだ。肉声を持たないおぬしにはちょうどよかろう。城外に残る帝国の雑兵を蹴散らしながら、饒舌なドラゴンはそんなことをつらつらと思念で語った。

「無駄口を叩いている暇はない。女神の近くにも、帝国の軍勢が迫っておるようだ」

 実に鬱陶しそうにかぶりを振って、カイムは石造りの通路を風のように走り抜ける。
 城の内部はいくつかの小部屋に分かれていて、それぞれを細い通路がつないでいる。その至るところに、既に帝国兵が配置されていた。剣を抜き払い、次々と斬りかかってくる。彼にとっては忌まわしい、血のように赤いあの瞳に、狂信的な澱んだ光をたたえながら。
 ぎり、と歯をくいしめる。剣で受け止め、跳躍して飛び越えながら、女神フリアエのいるであろう最上階へ向かう階段を探す。蟻のように群れをなす敵兵にかかわずらっている時間はなかった。こうしている間にも少しずつ危機は迫っている。
 分厚い石の壁に仕切られた狭い部屋や、とくに細い通路などでは、襲いかかる帝国兵の数も限られている。壁沿いに歩を進めれば、警戒する意識を片側だけに絞ることができる。カイムの速度を追いきれないのだろうか、小隊の切れ目を縫うようにじぐざぐに走ると、目標を失った雑兵の剣が面白いようにふらふらと空を切る。
 それでも出鱈目な剣のいくつかは、カイムの皮膚を裂き血をにじませる。どれも深くはないものの、如何せんその数が多い。狭い通路で攻撃を避け続けるのは容易ではないのだ。焼けるような痛みを感じながらそれでも走り続けていると、いくつ目かの小部屋で階段を見つけて迷わず駆け上がる。
 二階の中央部は吹き抜けになっていた。女神の居場所に近づくにつれ部屋は少なく、小さくなっていく。代わりに長い通路が多くなった。ほぼ一本道なのは有難いことだが、剣が体をかすめる回数が次第に増えていく。

「こんな所でくたばってくれるな。おぬしには生きる義務がある」

 頭のなかに直接届く竜の言葉を、振り切るように足を速めた。城の中は静かで薄暗く、頭の中だけのしわがれた竜の声が、よく響いて感じるのが鬱陶しく腹立たしい。
 三階に上がる階段を見つけたが、先にあるのはただの小部屋だった。業物らしき槍が壁に立て掛けてあるだけだ。何かに使えるかと手に取りすぐさま引き返す。背後で異様な気配が漂ってきたものの、女神がいないこの部屋にはいかばかりの用もない。

「こちらが正解のようだな」

 カイムの感触をドラゴンが代弁した。いったん二階に降りて別の階段を上がると、一際大きな広間があり、そこには帝国軍の兵が隊をなして集結していた。
 今度は部屋が広い分、カイムにとっても動きやすい。逸る気持ちを押さえて剣の雨をくぐり抜け、広間の奥に到達する。
 先につながる通路の前に、3人の巨兵が大剣をかかえて陣取っていた。
 立ちふさがる命知らずを助走をつけた一撃で払いのけ、蹴り倒して奥に向かう。細い通路の終わりには硬い鉄の扉があった。しかしながら、押しても引いてもびくともしない。鍵がかけられていたのだ。
 苛立ちのあまり扉を蹴りつけるカイムの背後から、ちゃりちゃりと音が聞こえる。振り返ると先ほど吹き飛ばした巨兵が、狭い通路をゆっくりと向かってくる。腰に鍵の束を携えて。
 そこか。
 突き出された大剣を払いのければ、眼前には無防備な胴だけがある。死ぬように。死に至るように。手にした長剣を引き絞り、鎧ごと背中まで貫く。潰れる肉の感触に背筋が避けようもなく粟立つ。にぃぃ、と唇が自然と歪んだ。
 彼の心を波立てる感情は、赤い竜もまた契約によりわかち合うものだった。
 憎しみの炎に身を焦がしつつ、この男は本当に愉しそうに人を斬る。
 愚かだで救い難く度し難い。竜の知る人間の本性に彼もまた、違うところは何一つなかった。
 例外などない。

(実に、人間よ!)

 カイムは狭い通路にその身をさらして巨身の兵を誘き寄せ、ひとりずつ順番に斬り殺していった。物言わぬ死体を無造作に足で転がし、腰にある鍵束を見つけて剥ぎ取る。帝国兵の死体と血で染まった通路を抜け、急ぎ扉の錠にあわせる。奪った鍵のうちのひとつが、かちりと音を立てた。黒光りのする鉄の扉が、ものものしい音を立てて口を開けた。

「カイム!」

 その姿を見つけて、女神の警護にあたっていた男が名を叫ぶ。奥には女神、懐かしいフリアエの姿も見えた。追い詰めていた帝国兵が振り返る。かなり際どい状況だったようだ。
 幾年振りかの懐かしい顔ぶれに、ざらついたカイムの心が刹那、温かな気配を見せるのをドラゴンは感じた。己の復讐を果たすことしか頭にないと思われるこの男も、人並みの感情だけは持ち合わせていたようだった。
 しかし邂逅も束の間。ずらりと剣を携えてにじり寄る兵士の群れを前に、カイムもまた得物を構え直す。柔らかくなった心が、再びどす黒いものに飲み込まれていく。妹と友の命を脅かす者に、手心を加える理由は何一つとして見当たらない。
 見付けることができない。

「死ね。死ね。しね。シネ。この場所に入ル者全てシネ」

 抑揚のないうわ言のような言葉を帝国兵の一人がつぶやいた。哀れな贄に向かって、カイムは唇を三日月にゆがめた。







― ― ―

女神の城-上空-城内
◇Dragon result
ATK7 185kill 6475exp  第一形態 
◇Caim result
total:408kill 7506exp  カイムの剣 Lv.2



 目次へ