カイムは帝都に攻め入るまでの長い道程で、多くの国を渡り様々なものを目にしてきた。
 国を追われてからしばらくは、帝国に抵抗する連合の国々を流浪したものである。しかし一言に連合国と
いっても、土地柄によってその内実はずいぶん異なっていた、とドラゴンは聞いており知っていた。傭兵の身分で
息つく間もない生活を送っていたことを差し引いても、そういった経緯のために、彼の見識は狭くはないと彼女は
思っていた。
 それゆえ、カイムからやや明瞭に、驚きのそれと取れる思念が飛んできたのは、少々意外なことだった。
 現在彼は、キャロたちが寝泊まりする職員寮の一室を訪れている。ドラゴンは建物の外に体を横たえ、それを
待っているところだ。
 中で何を見せられたのかは、続く彼の声によっておおよそ明らかになった。彼自身の経験したそれとの、
生活水準の大きな差を目にしてのことだった。この世界の文明は、カイムやドラゴンの知るそれよりもはるかに
発達している。かつて彼は六課のオフィスに立ち入った事はあったが、実際の生活の場を目にするのはこれが
初めてだった。
 発端ははやてからの提案で、森を出てこの世界の社会生活に慣れはどうかと問われたのがきっかけだ。
はやてはカイムに対して、彼が日常生活で問題を起こすことはないと判断を下していたし、裏で何らかの犯罪に
かかわっている可能性も極めて薄いと分析していた。とはいえ、それも念のためである。そういったことの以前に、
彼は善悪関係なく絶望的なまでに人づきあいが悪かった。
 カイムが断らないのを見てとると、教練の合間で空き時間があったヴィータが、善は急げとばかりに中の案内を
買って出た。その時のヴィータの表情をドラゴンは目にしており、どこか遊び心を含んだ、楽しそうな気配を
していたと記憶している。今思い出してみれば、きっと驚く、という確信があったのだろう。悪辣なフェアリーの
それとは違う、どこか茶目っけのあるそのときの表情を、ドラゴンはそう嫌いではなかった。

「悪くないそうだ」

 二人が建物の外に出てきてから、代弁したカイムの「声」はそのようなものであった。彼の顔色は入る前と
全く変わっておらず、竜が把握する限りでは、「声」におよそ不快感というものがなかった。部屋の中では
ヴィータにとって十分な反応が観察されたらしく、こちらはなかなか満足そうな表情をしていた。
 しかしながら、カイムはやはり、その部屋の利用について明確な意志を示すことはなかった。

「使いたいなら、遠慮なく言えよ。誰にでもいいからな」
「他に使う者はおらぬのか?」
「心配ないって。今この時期に言いだすヤツはいないし、まだいくつか空いてるし」
「……あまり金の持ち合わせはないぞ」
「そこはほら、持ちつ持たれつってやつでさ。ここ最近は、エリオもちょくちょく世話になってるし」

 やはり彼にとっては、ドラゴンと寝食を共にする方が、自分の生活より優先されるのだろう。ヴィータは、
それでもいいと思った。決めるのはカイムだ。この一件にはすべて、「彼が望むなら」という言葉が前提として
存在する。
 今回の提案は、金銭を受け取ろうとしないカイムへの、謝礼という意味も含まれていた。
 本来その意味で、カイムにはミッドチルダの魔法が無償で紹介されていた。しかしこれは思ったほど成果を
得られず、また念のため今後も続けることにはなっているが、期待するほどの効果は得られなさそうだと、
これまでの結果から何となく想像がついている。そのため結局は別の形で、ということになっていたのである。
 カイムの存在はエリオにとってもそうだが、彼女たちにとっても非常にありがたいものだった。ヴィータも
なのはも、槍の扱いには精通していなかった。
 今朝はヴィータが同行して、早朝カイムのもとを訪れたエリオの様子を見ていた。幼い少年に見取らせていた
カイムの槍の軌跡はやはり、いわゆる達人のそれだとヴィータは確信していた。閃きのような斬撃に、力を一点に
集約した重い突き――同じ水準のものは提供できまい、と百戦錬磨の彼女に直感させる種の、精練な技巧だった。

「『破邪切り』だったっけ?」

 口にしながら、ヴィータはその時見た槍の動きを頭の中に思い描いた。同じものを見て目を輝かせていた
エリオと、幹を絶たれて森の中を滑り落ちる、朽ちた巨木が脳裏によみがえる。
 その日の朝エリオの前で、一度だけ披露した技が、確かそんな名前だった。名はやはり初めて聞くものだったが、
気力を研ぎ澄ませ一撃の破壊力を徹底的に高めたその様は、やや武骨な名にも相応しいようにヴィータには
思えた。たまに見取り稽古のようなことをしているということは知っていた。しかしなるほど、エリオが足繁く
通うのも無理はない、というのが感想である。

「ああいう、技らしい技もあったんだな」
「斬ることには違うまい」

 それでも、珍しいものを見たという思いはドラゴンにもあった。
 理由は定かではないものの、父の形見の剣でさえ、その銘をまだ誰にも明かしたことのない男である。あるいは
本人ですら知らないことだったのかもしれないが、それを除いても彼の剣は、名や型を持たない奔放なものだと
ドラゴンは記憶していた。そんなことを、尾に腰かける男を見ながら思った。

「まぁあの部屋使わなくても、飯とかならいつでも……って、そういえばお前たち、何食べて生活してんだ?」
「食用の草や、あとは獣の肉だな。兎がよく獲れる狩場があってな」
「ふーん。で、お前は?」
「我は何も口にしておらぬな」
「えっ……そ、それで大丈夫なのか!?」
「人間と同じ尺度で竜を語ってもらっては困るな」

 ドラゴンの言うのによれば、竜族はいかなる試練にも耐えることができるのだとか。食が断たれたところで、
息絶えるような脆い生き物ではないとのことだった。ならフリードリヒはどうなのだと思うヴィータだったが、
検証のきかない話だと思って、すぐに考えることを放棄した。まさかキャロにフリードリヒを一年間食事抜きに
せよと命令するわけにもいかない。

「スバルとかエリオに聞かせてやりたいわ」
「年の大食らいだそうだな。本当か?」

 ドラゴンの問いかけに、ヴィータはうなずいた。カイムが普段どれだけ食べるのかは知らないが、確実にそれを
上回るという確信はあった。
 それでいてよくもまあ、この体が動くものだ。そんなことを思いつつ、ヴィータは竜の岩のような体に腰かける
カイムを見上げた。長年戦っているうちに、体が無駄なエネルギーの消耗を避けるように変化していったのかも
しれない。彼の普段の無感情と無関心も、そんな部分から来ているのかも、とヴィータは想像した。それも
彼が、数々の武器に熟練するのと引き換えに、失ってきたものなのかもしれないと思った。

「あ……カイム。もしかしてお前、もしかしたらさ」

 ふと、ヴィータは躊躇いがちに口を開いた。
 しかしその後に言葉が続かず、ややあって諦めたように、ふうと息を吐きだしてしまう。

「いや、まぁ、さすがにないか。忘れてくれ」
「どうしたというのだ。言いたいことがあるならはっきり申せ」

 同じ内容をカイムの思念が問う前に、ドラゴンは自らの意志でそう命じた。
 どこか有無を言わせないような声色に、ヴィータは逡巡してから、やや小さな声で答えた。

「ちらっと思っただけだ。あたしと似た武器使ってたら、面白かったなって」

 何度かカイムと会うエリオを目にするうちに、ヴィータも何となくほだされていたのかもしれない。それとも
若さにあてられていた、と言うべきか。
 自分と同じ武器を、互角の力量で扱う相手がいたとしたら。そんなことをここ最近、ヴィータはちらちらと
考えるようになっていた。
 しかしヴィータは、口にしたあと、馬鹿なことを言ったとばかりに背を向けてしまった。
 ハンマー型のデバイスなんぞはっきり言って少数派、頭に「ド」がつくくらいのマイナーもいいところ。
 闘いの得物としても、やはり剣やら槍やらの方が主流に違いない。そんな考えが胸中にあった。

「使っていた時期はあるな」

 しかしドラゴンは、さも当然とばかりに澱みなく言いきった。
 それは見事なまでの即答だった。

「き、聞いてないぞ、そんなの一言も!」

 ヴィータは弾かれたように振り返り、掴みかからんばかりの勢いでそう憤慨した。

「一度も訊かれなかったからだ」

 しかしそのように言われると、ぐうの音も出なかった。反応を愉しんでいるのだろう。代弁するドラゴンの声に、
そんなような響きを聴きとることができた。
 先ほど部屋を案内した時、隣に立つカイムの様子を同じような気分で見ていた自分をヴィータは思い出した。
ガスの設備などを見たときの反応を観察していたのだが、これはその意趣返しか、とも思えてきた。

「とはいえ、今は得物の持ち合わせは無いがな」
「あ、そうか。前見せてもらったのの中には、そういや入ってなかったっけ。あれで全部か?」
「あと一振りだけ残っておる。そのうち見せることになろう」
「そっか、わかった……あーあ、まったく。知ってたら前の試合の時だって、あたしと似たのを用意したのに」

 あれが試合であったのか、という言葉をドラゴンは飲み込んだ。そうして付け加えたカイムが魔法を使えない、
という指摘に対して、それなら自分も離れずに戦っていたと返した。
 さらに再戦ならばいつでも受けよう、とドラゴンがカイムに代わって伝えた。
 ヴィータはそれを嬉しく思い、滅多にない強敵に心躍らせたが、しかしぐっとこらえ、カイム側の先約を理由に
遠慮した。
 シグナムは今日も外回りの仕事で時間がとれず、今朝も励ましてきたばかりだ。普段はそういう素振りが
なかなか見られないヴィータだが、これでいて見かけより仲間思いなのであった。





 カイムはその翌日も、ヴィータに案内されたのと同じ部屋に足を運んできた。
 表情ひとつ変えないので分かりにくいが、意外と気に入ったのかも知れないと彼女は見ていた。拒絶の意思は
明確に見せるくせに、反対については驚くほど反応がない男である。あきらかに否定的ではないととれる応答は、
ヴィータが知る限りこれが初めてだった。ひょっとしたら以前にもあったかもしれないと思うが、あまりにも
頻度が低いため記憶の彼方に消えてしまっている。
 結局彼は、武具や防具などの荷物をその部屋に置いておくことにしたようだった。ドラゴンと離れることを
嫌った結果だとヴィータは受け止め、同時にこちらの方がいいのだろうと半ば納得した。彼が望むなら、生活に
ついての希望はできるだけかなえられるべきだ。
 草原に眠り森に座りを、いつまでも続けさせたいとは思わない。今回の件が、そのきっかけになりさえすればいいと
思っていた。はやてはそう言っていたし、また家族である守護騎士たちも考えは同じだと頷いていた。ただ戦う
だけでは壊れてしまう。しかし同時に、ただ生きるだけでは枯れてしまうのだ。

『『恩に着る』と』

 この時ドラゴンは傍らには居らず、ちょうど近くの低空で羽ばたいていて、肉声ではなく思念が届いた。昨日
持ちつ持たれつと言っておいたにもかかわらず、男の思考はそのようなものだったらしい。きっと、多分に、礼儀
としての意味も含まれているのだろう。
 それにしても随分、打てば響くようになったものだ。
 そのように思いながら、ヴィータはふと目を自分の頭上に向け、隣に立つカイムの横顔を見上げた。子供の
ような体型のヴィータと、伸長180センチを超すカイムでは大きな隔たりがあった。
 相変わらず、表情からは何も読み取ることができなかった。まだ慣れていないのだろうか、まるで靄や霧が
かかっているように不鮮明な印象を受ける。
 そもそもドラゴンの話では、「声」で伝えられる思念でさえ、感情はやや不透明なものだということだった。
結局のところ例外なのは、喜怒哀楽のうち喜と怒くらいのもの。それすらもどこか常軌を逸した要素をはらんで
いて、要するに戦いの中でしか見られないものだった。
 しかし視線に気付いたのか、カイムはわずかに首を動かした。
 そういった応答を見せるのは珍しいことだ。感情は読めずとも、そこに意識があるのだと感じ取れた。
 以前ならば見ることのできなかった仕草だ、とヴィータは思った。彼の心境に、何らかの変化があったのかも
しれない。
 カイムが変化していくとしたら、それは彼女にとっても興味深いことだった。それがかつての彼自身を呼び
起こすことになるのなら、好ましくさえあるとヴィータは思った。心を病んでしまう以前の彼が、どんな人間
だったのか。彼女はこのごろそれを見てみたいと、しきりに思うようになっていたのである。

「本当にどうしようもない悪人だったら、とっくにあたしたちがぶっ潰してると思うんだ」

 やや物騒な言葉だが、ヴィータはその日、昼食で同席したフェイトにそんな心境を語った。

「それはわかったけど……な、なんで、私に言うの?」
「何となく」
「何となくって」
「あとはまぁ、あたしと同じじゃないかと思ったから。最近話してるところは見ないけど、気にしてるんだろ?」

 なにしろ秘蔵っ子がふたり、積極的に関わろうとしているのである。
 これで気にならないのなら愛が足りない、というのがヴィータの持論というか主張だった。そしてそれは、
まさしく正解だった。

「それは……」

 言いよどんだ後は「そうだけど」が続く、と聞いている側には簡単に読めた。否定しているわけではないのだ。
 加えて、はやてに仲直りしておけと言われたもののまだ話もできておらず、その切っ掛けさえ見つけられずにいた
フェイトである。
 話の種という意味で、彼について知りたいという考えはあった。それに知るだけならば、本人を前にぎくしゃく
したりせずに済むからだ。

「……と、ところで、どうしてヴィータがそれを持ってるの?」

 しかし次に言うべき言葉を見失い、迷った結果、フェイトは話題そのものを変えてしまうことにした。
 ちょうどいいことに、テーブルにはフェイトたちの背丈よりも大きな剣が、古びた布きれに巻かれて立てかけ
られていた。カイムの鉄塊だろう、とはすぐにわかった。柄の部分に見覚えがあったからだ。

「刃こぼれしてるから、直してやることになったんだ。調べてもいいって言うし」
「刃こぼれ……ホテルアグスタで?」
「じゃなくて。もうずっと前から、傷だらけだったってさ」

 二、三年使い込んでもこうはならない。そうヴィータが言ったとき、ろくに手入れしてる暇が無かったと
ドラゴンは語っていた。ひとりで各地を転戦していた時期はともかく、ドラゴンと出会ってからは闘いは激化の
一途をたどったらしい、「帝国」本拠地に近付いていくにつれて、しだいに眠れる時間もなくなっていったとの
ことだった。傷を癒ので精いっぱいで、武器の手入れに避ける時間もなかったそうだ。

「だからさ。あたしたちとあいつって、結構似てると思うんだ」

 はやてと出会う前だったらな、とヴィータはさらに付け加えた。
 もちろん「帝国」と戦ったことはないし、一つ目の巨人に空中戦を挑んだことがあるわけでもない。ただ、
理不尽な状況に投げ出され、心を失いつつ切り抜けたというのは、少なくとも彼女に、ヴォルケンリッターに
とって共感できることではあった。
 そしてそれは、目の前のフェイトにとっても同じだ。
 話を聞いているうちに、今の彼に対する気まずい思いを抜きにして、彼を哀れだと心から思った。

(哀れでない人間などいるものかよ?)

 ただカイムに対するその思いは、本人はいざ知らず、少なくともドラゴンにとっては快くないだろう。
 こんなことを言って、フンと鼻を鳴らすかもしれない、とフェイトはなんとなく想像した。そんな仕草が
ありありと思い浮かんできて、少しだけ気分が軽くなったような気がした。
 自信に満ちていて厳格で、かつ礼を失さないドラゴンの高潔さを、フェイトは好ましく思っていた。そんな
存在にキャロやエリオが好感を持つことは、正直に言って喜ばしくさえあった。
 その竜が全幅の信頼をおく人間が、骨の髄まで極悪人であるはずがない。話だってきっと聞いてくれるはずだ。
そんなふうに思えてきて、同時にからまっていた糸が少しゆるんだように感じた。





 フェイトが職員寮の屋上でドラゴンとカイムに会ったのは、それから数日後のことだった。
 カイムはまだ例の部屋で眠ったことはないものの、その頃には以前より森の浅いところに行動の拠点を
移しはじめていた。装備の置き場が変わったのだから、これは当然の成り行きと言える。
 そうしてそのうち、寮の屋上でドラゴンとともに眠る姿が見られるようになっていた。部屋を使うことと、
ドラゴンの傍らにいること。結果的にはこれらが折衷した形だ。寮の部屋に住まう新人たちも、この変化には
少なからず驚いたようだったが、それも一時のこと。今は問題もなく受け入れられている。
 他の住人たちもそれは同じであり、今のところいさかいが生じる気配はなさそうであった。彼が言葉を
話すことができないという、同情に値する事実はすでに知られていたし、加えて先の戦闘で見せた狂気は、
今のところ記録に残っておらず知られていない、ということも大きかった。はやてはヴィータやシグナムから
その事情を聞いていたが、職員に害を及ぼすことはないという点ではカイムの理性を信用していたのである。

(ホンマにどうしようもない人やったら、とっくにシグナムがたたっ斬っとるしなぁ)

 そんなふうにはやては語っていたが、奇しくもそれはヴィータと同じ言い回しであった。
 長く家族として過ごす間に、お互い考えることが分かっているのか。屋上への階段を上るうちにそんなことを
思い出して、ドアを前にする頃には、フェイトの気持ちは少しだけ落ち着いていた。たくさんの緊張とわずかな
不安で、やや胸の中が詰まりそうになっていたところだ。人間何がきっかけで気分が変わるか分からない、と
認識を新たにする。

「機嫌が良いようだな?」

 扉を開けたフェイトに向かって、しわがれた声が第一声としてかけられた。
 戦いの外では変化に乏しいカイムのそれを見てきただけあって、ドラゴンは人間の感情の機微には聡いほうだ。
前置きも何もないのは、事前に思念で訪問が伝えられており、そのとき同時に挨拶も済ませてあったからである。

「い、いえ。何でもないです」

 長い首をもたげて見下ろすのに対して、フェイトはぱたぱたと手を振った。

「まあいい。して、何の用向きだ? おぬしが来るとは珍しいな」
「あ、はい……その」

 フェイトは視線をさまよわせてから、ドラゴンの傍らに座しているカイムをとらえた。彼の瞳は相変わらず、
どこか茫洋とした印象を感じさせた。闘いの最中に見せた、ギラつく炎のような眼光が嘘か幻のようだった。
 伏せがちだったその目がゆっくりと向けられる。幕が張ったような不明瞭さのなかにも、たしかな意識の気配が
感じられた。それが自分に向かっているのを認識し、フェイトの身体がわずかに強張った。思い返してみれば、
彼とここまで向かい合って意思のやりとりを試みたことはなかったかもしれない。

「……謝りたくて」
「話が見えぬわ。最初から説明せよ」

 この竜は言葉を飾ったり選んだりするよりも、単刀直入なそれを好む性質だった。そんなことを思い出しながら、
フェイトはあわてて話を始めた。
 ただ一言に説明するといっても、今日までカイムとの関係がぎくしゃくしていた(少なくともフェイトの態度が
そうなっていた)要因は、それ自体が幾重にもこじれてしまっていて言葉少なではまとまらない。
 結局のところ、ひとつひとつ整理して語るより他に手はなかった。説明は怪我の手当ての時の勘違いに
はじまり、そこから引き続いたハプニングに言及した。

(は、恥ずかしいっ……)

 フェイトからすれば、脱兎の如く逃げ出したくなることしきりである。ドラゴンは黙ったまま耳を傾けていて、
またカイムが何らかの思念を発している様子もない。フェイトにはそれらが逆に辛かった。特にカイムの視線は
まるで拷問だった。巨木のような竜の尾に腰かけたまま、視線をフェイトに注ぎ続けている。まるで晒し者だ、
とフェイトは内心で思い、同時にひどく赤面するのを感じていた。

「気にしていないそうだぞ」

 はたして、話を終えたときの返答はそのようなものだった。特に不快を被ったことも、気分を害したことも
なかった、とドラゴンは続ける。ひとまずフェイトとしては安堵するところであり、ようやく解放された、と
ばかりに息を吐き出した。

「『どうでもよかった』という方が正しいか」

 しかし、ドラゴンが無情に言い換えるのを聞いて、フェイトはひどく脱力した。今まで自分が話した内容が、
まさに完全な独り相撲だったのだから。真っ直ぐに見詰めていたカイムを確認すると、すでに彼は視線を切って
いた。カイムの目に自分は入っておらず、今は興味も持たれていないようだった。

「そっ、そんなのずるい……」
「?」

 自分があんなに思い煩っていたのにと、それが無性に悔しくなってきて、思わず口に出てしまった。
 これにはさしものカイムも気づいたが、しかしその後は不可思議そうに視線を向けるばかりだった。それを
見て、フェイトははっと我に返った。先ほどまでより余計に恥ずかしくなって、もうそれ以上言葉を続けられ
なかった。
 この人は、ずるい。
 心のなかで、そんなことを繰り返した。

「言い忘れていたが、カイムも詫びねばならんことがあるそうだ」

 そんな様子で固まってしまったフェイトであるが、ふとその頭上から、ドラゴンがそんなふうに声をかけた。

「えっ……あの、何か?」
「先の闘いでだ。踏みつけたことを言っておる」
「あ……」

 フェイトがそのことを思い出したのは、ドラゴンに言われてからだった。カイムがホテルアグスタから離れて
敵を追いに行った時、少しでも速度を得んがために蹴り石にされたのだった。
 そのときは我を忘れていたらしく、敵のことしか頭の中になかったのだという。特に傷を負ったわけでもないし、
その後の出来事の衝撃が大きかったため、今の今まで頭からすっぱり抜け落ちていたのである。
 カイムに視線をうつすと、さすがの彼もこの時ばかりは、自主的にフェイトの方を見ていた。おぼろげで
掴みどころのないいつもの目をしていたが、それでも意識が自分に向かっていることはわかる。
 自分の時ばっかり、ずるい。
 そんなことを思いつつ、気にしていませんからとフェイトは伝え、そしてふいっと顔をそむけた。

「……仲間を足蹴にしたのは久し振りだったな?」

 そんな様子のフェイトを見ていたドラゴンは、ややあってから、思い出したようにカイムに言った。

「けっ、蹴ってた、って……仲間なのに……?」

 フェイトはドラゴンを見てから、恐る恐るといった様子で問いかけた。
 視線で確認すると、問われたカイムは目を外してドラゴンの方に向け、フェイトからはその横顔がうかがえた。
 煩わしいものを見る目をしている。
 フェイトはカイムの表情に、そんなことを感じ取った。

「理知的な男だ。我の知る人間の中でも、上に位置する理と哲の者だった」

 上からかけられる竜の声色に不思議な響きを感じて、思わず顔を上げた。
 竜が言葉に感情を乗せることは、フェイトの見る限りそう多くはなかった。しかしことのき、かつて聞いた
ことのない印象をフェイトは感じた。しわがれた肉声の奥に、いわく言い難い何らかの情念が含まれている。
高潔で誇り高い竜の心中を、フェイトはわずかに垣間見たような気がした。

「はぁ……あの、それがどうして?」
「己の嗜好に悩んでおってな。口で諭せぬ故、しばしば足が出たのよ」

 話を戻すと、ドラゴンはそのように答えた。
 ここで竜が言った「嗜好」とは、言うまでもなく性的な意味のそれだ。
 しかしそうとは知らないので、フェイトはまず曖昧にうなずいた。そうしてから尋ね返す。

「あの、嗜好って……あっ、あ、ややややっぱりいいです!」

 一度は尋ねたフェイトであるが、竜の目に愉しげな気配が浮かぶのを見てとっさに取りやめた。どう取っても
遊ばれる予感がして、そこから何となく事実を察したからだ。忘れていたことだが、目の前の竜はどこか話好きな
一面がある。それと同じように、人をからかうことも好きだったのだ。
 顔を羞恥に染めつつ、抗議の意志を精一杯にこめて見上げたが、初心な娘だとでも言いたげに笑うばかりだ。
そんな竜の尾に腰かけるカイムに、加勢というか助けを求めて目で訴えてみる。だが結果から言うと、これも用を
なさなかった。視線がほんのわずかに合ったような気がしたものの、結局助け船が出ることはなかった。
 フェイトは恨みがましげにカイムを見続けていた。しかしカイムは竜の口から出た「仲間」という言葉を反芻していて、全く意識が向かないというのが実状であった。



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