ティアナは手を止めて、握っていたペンを机の奥に放った。机の上に敷いた紙は、自分の描いた文
字やら線やらがのたくっていてもう見れたものではない。くしゃりと両手で丸めてしまい、机から横
へぽんと投げ捨てた。そうしてから新たに紙を取り出し、こめかみに手を当てながら考え、そしてお
もむろに書きはじめる。
先ほどからずっとその繰り返しだ。机の横にあるゴミ箱はもう、捨てつづけた「失敗作」でいっぱ
いになりかけていて、その周りにもくしゃくしゃに丸められた紙が何個か転がっている。
机の上に目をやると、アナログ表示の時計の時刻は7時半を指していた。朝食までもう少しの時間
があることを確認してから、再び思考の海の中へダイブしていく。
気がつくと頬杖をついた左手の指先が、耳の後ろをとんとんと叩いていた。無意識の仕草だが、ま
るで無意味という訳でもなかった。うまくアイデアがまとまらない今、何らかの刺激を脳が欲してい
る。しかしそれでも考えを紙面にまとめることができない。ふう、と大きく息を吐き出した。
――結局のところ、やっぱりまず、話を聞いてみるのが一番よね。
昨晩のうちに読破した、幻影魔法に関する教本。開けたままになっていたそれに一瞥をくれてから、
椅子の背もたれに体を預けて、うんと大きく伸びをする。
同じ姿勢を長く続けていたからか、体の各部に妙な解放感がある。ぎゅっと瞼を閉じてそれを味わ
ってから、首を上に向けたまま、弛緩とともに目を開けた。
「やっほ、ティア!」
突然逆さまに映った、ついさっきまで寝ていたはずのルームメイトの顔に、反射的に手を出してし
まったのはまったくの不覚であった。頑丈なつくりをしているさすがのスバルも、不意打ちでもらっ
てしまっただけあってかなり痛がっている。
「ひっ、ひどいよティアっ。わたし……わたし、何も悪いことしてないのに……!」
「ああああもう。悪かった。悪かったわよ」
まったくもう、面倒くさい、などと心の中ではぶつくさ文句を言いながらも、自分が原因であるこ
とは分かっているため、素直に謝るティアナ。スバルの額から痛みが引くまでそれは続いた。痕にな
っていないかスバルは鏡を覗きに行き、ティアナは床に放ってある本を拾って本棚に立て直す。思い
がけないハプニングのためか、もう思索にふけるような気分は失せてしまっていた。
「何書いてたの? その紙……あと、この本も」
少ししてから声がして、背後を振り返る。広げっぱなしで放置していた本をスバルが読んでいた。
取り上げて同じく棚に戻し、書きかけの紙を手にとって眺める。
「手持ちの魔法の理論を確認して、応用の方法を探ってた。それだけよ」
「フェイクシルエットとか?」
スバルが先程まで見ていたのは、ちょうどその分野の記述があるページだった。射撃の方もね、と
ティアナは答える。早朝から取り組んでいたのはこれであった。魔法・魔術の理論の組み立ての確認
と整理、そしてそれらの再構成。
特に以前から戦闘の補助として使っている、幻覚・幻術の類の魔法。チームを組んでの集団戦にお
いては細かい連携が難しいため、メインに使用する機会はあまりなかった魔法である。それをもっと
実戦に取り込むことはできないか。そう考えた結果が、ゴミ箱の中の紙屑だ。いきなり手持ちの魔法
を増やそうとしても、よほど適性に恵まれない限りはなかなか効果を上げることが難しい。正しく扱
えるかという不安が常に付きまとい、迷いと疑念を生み出すからだ。こと危険な任務においてはその
考えが致命的な隙を生み、思わぬ事故につながることもある。
今までの自分を超える、何かを手に入れたい。そう思いはしたものの、まだ訓練中という自分の立
場と状況を考えると、白紙から何かを作り上げることは難しいし危険だ。その上で戦力面での更なる
飛躍を考えるならば、馴れた魔法を極限まで煮詰めて、誰にも負けないくらいに練度を高めるのがい
いだろう。
そういう方針を考えてみて、そして対象となったのが幻影と射撃の魔法だったのである。しかし考
えれば考えるほど、各魔法の長所以上に欠点が見えてくるような気がしてくるのだ。そうやっている
うちにいつの間にか、どんどん深みにはまってしまっていた。半ばやりきれない思いで手にした紙面
を見つめる。書き始めたばかりだった紙にまだ文字はあまり多くなく、残っているインクの跡は少な
かった。
「うまくいきそう?」
「そんなに簡単にいったら苦労しないわよ」
両手でくしゃりと丸めてゴミ箱に放ったのは、縁にあたって脇に外れた。そっか、と言いながら、
スバルが拾って入れ直す。
相方は新たな取り組みをはじめていたらしい。そう分かれば気になって仕方ない。そう思って問う
たのだが、そうそう簡単にはいかないらしかった。ゴミ箱を埋め尽くす紙屑の山がそれをよく表して
いる。そんな様子を見ていると、スバルにも俄然やる気がわいてきた。
「……よっし。わたしも、今日の訓練頑張ろっと!」
と張り切って言ったのと同時に、その立ち位置のあたりから、くぅと小さな音が出た。
スバルの腹の虫だった。
「頑張る前にエネルギー切れてどうするのよ」
「あ、あはは……その、ティア、朝ごはん食べに行こう!」
「いいけど。ところでさっきの、本当に痕になってないでしょうね」
痛かったら言いなさい。もう痛くないから大丈夫だよ。などと話しながら身支度をして、先にティ
アナが部屋を出る。
「個人訓練のとき、なのはさんに相談してみたら? 今日はチーム戦だけど……」
「そのつもりよ。でも今日にしたって、何かの折に話せるかも知れないでしょう? だから、今朝の
うちにまとめようとしたの。結果はこんなんだったけど」
「うまく行くといいね。何かヒントもらえたりとか」
そうね。と答えるその背をみつめて、スバルが追いかけてドアを出る。机の上の時計は午前7時を
示している。隣には写真立てが伏せられていて、秒針が時を刻むのを静かに聞いていた。
その日は午前中に事務の仕事を済ませた後、午後は新人四人での集団戦の訓練が行われた。ティア
ナたちが後からシャリオに聞いたところよると、昼まではシミュレータを動かすソフトウェアの調整
をしていたらしい。出現させるターゲットの数が増えてもいいように、とのことだった。増えないに
越したことはないけれど、なるほど確かに必要になるかもしれなかった。
そういう訳だから、ティアナがなのはに個人的に相談に行くチャンスは、その日の間にはなさそう
であった。言ってしまえば個人的な用事である。よもやそのために、訓練全体を止めてしまうわけに
はいかない。
しかしその代わり、意外なものをティアナは目にしていた。訓練の内容としては変わったようなも
のはなかったのだが、それを見守る面子の組み合わせが、少々珍しいというか奇妙であった。
カイムとヴィータ、そしてフェイト。
障害物としてそびえる廃ビルの屋上から小休止の合間合間にちらちらと見ているのだが、巨体ゆえ
か単に興味がなかったのか、ドラゴンの姿はそこにはなかった。見える影はその三人だけで、そのう
ちヴィータはカイムに向かって、しきりに何かを話しているらしい。フェイトはそれを少し離れて見
ている感じだった。
「ポジションごとの立ち回りと、私たちが使える魔法の確認と。あとは、みんなの動きをお手本にし
ながら、初歩の講義をいろいろと、だね」
スバルが訓練開始前、なのはに尋ねてみたところによれば、どうやらそういうことだった。次の任
務がいつになるかはまだ分からないが、とりあえずそれに先んじて、ミッドチルダの魔導師とその戦
い方に理解を深めてもらうことにしたらしい。
「お、お手本……ですか」
「そんなに心配しなくて大丈夫だよ。基礎技術のレベルは、皆すっごく上がってるんだよ?」
そんななのはの言葉を受けてもなお、皆なんとなく不安そうにしていた。顔には出さないがティア
ナも同じだ。確かに以前より上達はしているとは思うが、なのはたちに比べればまだ訓練中の、いわ
ば見習い魔導師。平気平気と言うのだが、本当に「教材」にしても大丈夫なのだろうか。
「ほらっ、エリオ! 足が止まってる!」
「はっ、はい!」
「ティアナ、援護おそいよ! 意識を敵の進路に集中して!」
「っ……はぁぁっ!」
しかし始まってしまうと、動いている間はそんなことを考えるゆとりはない。最近新人たちにもレ
ベルアップが認められてきたのか、訓練の内容は以前よりも徐々に体力を使うものになってきていた。
上昇していると自覚する体力で必死に食らいついているものの、ギャラリーを気にする余裕はなくな
っている。
訓練中に設定されるシチュエーションや目標には日によって様々なものがあるが、その日は主に追
撃戦の形式が選択された。要するに敵がどんどん逃げていく訳だから、基本的に追う側としても足を
止められない訳である。
追いかけたり回り込んだり、時には進路をふさいだりと、攻撃以外のアクションが数えきれないく
らいに多い。さらに討ちもらせば文句無しにターゲットロスト。作戦失敗という結果に直結するのだ
から、必然的にミスも許されない。おまけにその日は陽射しもそれなりに強かった。精密に当て、着
実に追い込み、そして確実に仕留める。肉体的にも精神的にも厳しい戦い、その繰り返しの一時間半
だった。
「じゃあ今から、三十分間は休憩にしようか。飲み物用意してあるから、屋上に……行、ける?」
「はっ、は、ひ。大、じょぶです」
縦横無尽に走り回ったスバルが無理をして答える。他の面々も消耗が激しかったため、移動は息を
整えてからになった。二、三分ほどでわずかに回復し、クールダウンがてら階段を上る。廃墟の中は
コンクリート製の設定になっていた。人数分の足音が周囲の壁に反響して、こつ、こつ、と幾重にも
かさなって聞こえる。
「ホントにお手本になったのかなぁ……」
隣のティアナに向けて、スバルは不安そうに話しかける。ティアナも考えは同じだった。カイムに
ミッドチルダの魔法技術が乏しい以上、全く参考にならないということはないはずなのだが。それで
も決して、手放しの称賛が出来るレベルではないのだ。他者からの評価を気にする性分のティアナに
とっては、スバル以上に気がかりだ。
「立ち回りの確認にはよかったと思うけどな。スバルは今日の動き、ちょっと控えめじゃなかった?」
「あ……そ、そうでした?」
「うん。後で映像を見せるけど、突出がだいぶ少なかった。他の皆も、その時確認しようね」
しかしそんな風になのはが言うものだから、何とはなしに安心したような気分になる。そしてそう
こうしているうちに階段を上りきり、ドアを抜けると屋上が開けていた。
ドアの方を向いて待ち構えていたのはヴィータだ。手を振って呼びかける足下には、冷たい飲み物
がたっぷり入った大容量のウォーターボックスが置いてあった。今すぐ駆け出したくなる衝動をなん
とか抑えるのだが、だんだん足早になって行く。そうしているうちになのはを追い越し、いつしか後
ろに置き去りにしていたのには、まったく気付いていなかった。
「お疲れ。今日のは割と良かったんじゃねーか?」
「あ、やっぱり? 意外と違うものなんだね。びっくりしたよ」
「陣形の切り替えが早かった。カイム、お前また見学しに来いよ。いい影響みたいだ」
解説ならいくらでもするからさ、と言って、ヴィータはカイムの腰のあたりをとんとんと叩いた。
それまでそっぽを向いていたカイムは少しだけ視線を向けて、そうしてから再びあさっての方向へそ
らした。気乗りがしないわけではないらしい。
本当に不快なことであれば、睨みつけるなり黙って立ち去るなりする。という、彼について述べた
言葉をドラゴンから聞いたことがあった。そういう手がかりが集まってきたためか、最近なのはたち
にも少しずつ、彼の行動が示す意思や心の動きを、何となく読み取れるようにはなりつつある。
「……あれ? 今、名前で……」
ふと気がついて、なのはは自分も冷たいスポーツドリンクを飲みつつ、ヴィータに向かって尋ねて
いた。ヴィータがカイムを名前で呼ぶのを、そういえば聞いたことがなかったのだ。ああ、とヴィー
タは答え、腕を胸の前で組んでみせてから言った。
「相方から声が飛んできてさ。何度も『お前』って言ってたからケチつけられた」
「そっか。いやその、何だか不思議な感じがして」
「呼び捨てが? なのはもほとんど同じじゃねーか」
そういえば、とはっとするなのはだった。時折忘れそうになるのだが、なのはよりもはるかに長生
きなヴィータである。
「でもあの竜には負けるけどな。一万歳ってミイラだろ普通」
「あはは……じゃあ、私は今のデータ、映像使ってまとめてくるね。制御ポイントに行ってくるよ」
「今のうちに、気づいたこと話しとくか?」
「あ。じゃあその、フォーメーションの切り替えのところをお願い!」
ヴィータは、了解、と答えてから、お前も飲むか、とカイムにコップを渡していた。新人たちにも
飲み物が行き渡っていて、皆生き返った心地で座り込んだり話し合ったりしている。それを見届けて
から、なのははドアに向かって歩き始めた。過去のデータとの比較をしたい、映像データをシャーリ
ーに送ってもらわないと、などと考えながら。
しかしこの場を後にしようとしたなのはの足は、三歩歩いたところでピタリと止まる。
振り向いた先にはフェイトがいた。そこまではいいのだか、ただその格好が妙だった。今なのは
に見られて下げた手は、たった今までは何かを求めるように伸ばされていた。その方を見てみると、
先にはカイムの背中がある。
「……フェイトちゃん?」
「あっ……え、と……」
なのはが言葉と視線で問いかけたのだが、フェイトはいずれについても明確に答えなかった。しど
ろもどろになっているというか、言葉が出てこないというか。
「昨日今日と、あんなに話したのに……」
「そっ、それは、その」
少しの間おろおろとした様子で戸惑ったフェイトは、結局逃げるようにその場から、屋上のドアか
ら出ていってしまった。その背中を見送りながら、なのははやれやれと息を吐く。
「何かあったのか?」
「え? どうして?」
「いやその。さっきから、ずっとヘンだったからさ」
その横から、ヴィータが尋ねてきた。訓練中もどうやら、少々様子がおかしかったらしい。あいつ
はまるっきり無視してたけど、と付け加える。そのカイムがいつの間にかその場から離れていて、エ
リオに何事かを話しかけられているのを確認してから、続ける。
「何かその、あれは嫌いというか、それとはまた別な感じで気にしてたっていうか」
「とにかく、何かヘンだったんだよ」と、考えながらまとめる。ヴィータにはそれ以上の表現が思
い付かなかった。しかしなのはには要点が伝わったらしい。小さく頷いてみせ、逆にこう問い返す。
「じゃあ、話しかけたりはしなかったんだ。後ろでまごまごしてた感じで」
「え? ああ、そうだけど。どうしてだ?」
「え、と……あ。私、もう行かないと。続きは、戻ってからでいい?」
首をかしげながらも、了解の一言を口にしたヴィータをその場に残して立ち去った。フェイトが抜
けたのと同じドアから階段に出て、かつかつと下りていく。その足音を自分で聞きながら、なのはは
今朝の出来事を思い出していた。
「どうしよう……」
惑うようなフェイトのつぶやきを、なのはは制服に袖をとおしながら聞いていた。その日の朝は爽
やかな陽気に包まれたものであったが、対してフェイトのそれはすっきりしない口調だ。
「仲直りすればいいだけだと思うんだけどな」
昨夜から聞かされている話である。なのはも当初は一緒になって色々と考えたものであるが、どれ
もこれもフェイトの中では納得のいく解答にはなっていなかった。結局残ったのはそれしかないよと
諭すように、なのははフェイトに言い聞かせる。
「だから、それが……」
「話してみなよ、簡単だと思うよ?」
ヴィータから情報を受け取り、それをフェイトに確認したのが発端だった。相手がなのはだったこ
と大きかったのだろう。十年来の親友に、割と隠すことなく打ち明けはじめたはいいが――奇妙な馴
染みの無さだった。よもやフェイトから、男性との不仲について相談される日がやって来るとは。そ
れでいて色事の類とは全く無関係ときたものだから、話を聞くなのはは何とも不思議な気分だ。
カイムとの、フェイトによるほぼ一方的な、仲違いの話である。
昨日部屋に戻ったなのはがまず、今目の前でまごついているルームメイトから、どうしようどうし
ようと相談されたのがこれだった。人間好きも嫌いもある、と当初のなのはは思っていたのであるが、
フェイトの話はなのはの想像とはやや違った色合いを示していた。
「もう怒ってません、勘違いしてごめんなさい。って、素直に言ってみたら?」
意外なことにフェイトはもう、カイムに抱いていた誤解を解いていた。自分の勘違いだった事実を
しっかり整理して受け入れたのだという。
発端となった騒動(よほど嫌なのだろうか、さすがにその詳細を話してはくれなかったが)があっ
てから、もう五日ほどが経過しているから、そうあり得ない話でもなかった。フェイト本人が話すの
によると、誤解からくる憤り、警戒や疑念などといった感情のわだかまりは、もう既に解いた。解い
たはずだと言うのである。
それなのに何故、まだ解決したことにならないのか。フェイトからその話を聞いたなのはが、真っ
先に尋ねたのがそれだ。なのはも喧嘩をしたことはある。原因が消えたのなら仲直りしてしまえばい
い、ということも知っていた。
なぜそれができないかというと。
「やっ……やだ……」
簡単に言うならば、引っ込みがつかなくなったらしいのだ。
「フェイトちゃんって、変なところで意地っ張りだよね」
「そっ、そんなことは」
現状を鑑みて、そんなことは無いとは言い切れないフェイト。そのまごつく様子を見ながら、なの
はは昔を思い出した。なのはが知る限り、子供だったあの頃から、喧嘩やいがみ合いなどとは無縁の少
女だった。魔導師として戦うほかは、誰に対しても穏やかだった。
そうであっただけに、今、一人の男に抱いた感情は、なかなか引っ込められないのだろう。思えば
なのはも、フェイトと争ったのは十年前の一度きりだ。ジュエルシードを巡って戦った、十年前が最
初で最後だ。そしてそれさえも、個人的な感情に原因があったわけではない。こうしたすっきりしな
い感情を抱くのは、きっとフェイトにとっては初めてのことなのだ。
つまり、なのはには、どうすることもできない訳で。話を聞いてこそいるものの、本人にしか解決
できない訳で。
「っていう感じなんだけど、はやてちゃん」
なのははおもむろに視線を外し、あらぬ方向を見つめた。そしてフェイトの目の前で、半ば助けを
求めるような声の調子で、ここにはいないもう一人の幼なじみの名前を呼んだ。えっ、と思わずフェ
イトが声を上げた。
『話に聞いたのと同じやねー。本当やったんか』
ぱっ、とウィンドウが開き、突然はやての顔が映された。驚きの表情を浮かべるフェイト。徐々に
それは何かを悟ったようなものに変わり、そしてややあってから、諦めたように口を開く。
「ぜ、ぜんぶ、聞いてたんだ」
「シグナムからな。あと、昨日なのはちゃんに話しとったぶん。音声データ、垂れ流しやってん」
ごめんね、いい考えも浮かばなかったから、となのはは申し訳なさそうに言う。フェイトはかっと
顔が熱くなるのを感じた。洗いざらい聞かれてしまったことよりも、それに全く気が付かずに話続け
ていたことが恥ずかしい。
「ま、時間をおいて話しかけるのが一番やな。それと、もうヘンな目で見たらあかんよー」
「…………」
結局、できることはそれしかないのだ。何もフェイトが危害を加えたわけではないのである。
しかしそれが本当にできるか、とフェイトは思ったし、なのはたちもそう考えた。気持ちに整理が
ついていても、どうしても妙なことを考えてしまうというか、ぎこちない対応になってしまうのは、
フェイトにもなのはたちにも目に見えていた。
「返事しぃ!」
「はっ、はい!」
その返事を見届けてから、はやての映ったウインドウが消える。しかし答えはしたものの、フェイ
トにはもうカイムの目の前で、うまく立ち回れる自信がまったくなかった。
「ど……どうしよう、なのは……」
「私に言われてもわからないよ……」
振り出しに戻る。そんな言葉が、ふとなのはの脳裏をよぎった。
「いろいろあるんだよ、フェイトちゃんにも」
データの整理を終えて戻り、ヴィータが再び問うてくるのに答える。映像をパネルに展開している
と、半ば釈然としない口調で「そうなのか」と返してきた。今晩あたりはやてに聞いてみることにな
るだろうと思い、それに任せることにする。自分より余程うまく説明してくれるだろう。根拠はない
がそんな気がしたのだ。
当のフェイトは、まだ戻らない。午後のある時間からは確かに外回りの予定が入ってはいたが、そ
れにしたってまだ時間があるものを。嫌だったのか怖かったのかどうなのかはわからないが、戻って
きてまたカイムと顔を合わせるのを避けたかったのだろう。それなら教練の間に、さっさと話してし
まったらよかったのにとなのはは思う。
「…………」
「あっ、いえ、何でもないですよ?」
無意識にカイムに目を向けていたらしく、いつの間にか見つめあう形になってしまっていた。その
視線が訝しげなものだったため、当たり障りのないようになのはは誤魔化す。これがはやて辺りであ
ったなら追及は免れなかっただろうが、今回は相手が相手だっただけに助かった。興味を失ったよう
にそっぽを向いたのはカイムである。そもそもこの男には、興味の対象があまりにも少ない。
それにしても、となのはは思う。 妙なことになったものである。奇妙な巡り合わせで出会ったこ
の男が、フェイトから普段見せない種の反応や感情を引き出すとは。それ自体はフェイトにとって、
すべてがプラスに働いているかと問われれば疑問であるが、それでもカイムが彼女に、ある一定の影
響を与えていることは確かだ。
その男は誰からも視線をそらして、廃墟の屋上から遠い天空を見上げていた。ドラゴンと通信をし
ているのかもしれない。自分たちはどう思われているのだろうかと、ふとなのはは知りたくなった。
自分たちに出会ってから、彼の心に、何らかの変化はあったのだろうか?
「じゃあ、お待たせ。みんな、データのまとめ終わったよ」
しかしそうこうしているうちに、時間が押してきた。次の訓練では今の実習での反省点を活かして
もらわねばならないのだ。今のうちに教え子たちにデータを与え、考える材料を与えなければ。
「ああ、座ったままでいいよ。でもそれぞれで気付いたことは沢山あるから、しっかり聞いててね。
まずは、スバルから……」
とりあえず思考を切り替え、教練の方に集中させる。親指と人差し指をあわせてから開くと、映像
再生用のモニターが生成された。先ほど軽く編集してきたデータを読み込ませて、まずはスバルから
訓練中の自分の動きを確認させていく。
夢中になって動いている間は、動作の全容を把握することは案外難しいものだ。意識と実際の動き
にはどうしてもある程度の差が生じるからである。今までにも何度か行ってきた訓練法ではあるが、
やはりそのギャップが存在することは変わらないらしい。映像を見て大まかには納得した様子を見せ
ながらも、少し首を傾げてみせたり、しまったここは、という表情を見せるポイントが、それぞれに
いくつか見受けられた。
なのはやヴィータがその都度アドバイスをしているが、これを次の時間でどう料理するかは、新人
たち自身の腕にかかっている。助言を受けたものは残りの休みの間で考え、続く教練に備えるであろ
う。評定はそうやって進んでいき、三番目にティアナの番が回ってきた。
「じゃあ次は、ティアナ。全体的によかったよ。でも、ちょっと防御のリソース削ってたね」
「あ、はい。追撃戦でしたし、攻撃の方に回してみたんですけど」
「いいと思うよ。ただし……ここかな。反撃にヒヤッとした場面もあったから、すぐ切り替えられる
ようにはしておこうね」
ウインドウの中には、スバルの脇をかすめていった魔力の弾丸をギリギリのところで迎撃している、
ティアナの姿が映し出されている。このときは事なきを得ていたが、これはティアナの並々ならぬ反
射神経があったからだとも言える。その後の迎撃の正確さと合わせて基礎技能の高さをうかがわせる
一面ではあったが、それでもこういう場面は少ないに越したことはない。
「ティアナ?」
ふとなのはが見ると、ティアナは映像の方から目をそらしていた。口元に手を当てて、何か考え込
むようにうつむいている。
「何か気になることがあったら、言ってほしいな。どうしたの?」
「いえ、大丈夫です。戦術についてなんですけど……もう少しまとまったら、その時に」
「……わかった。じゃあ、待ってるからね」
しかしティアナは、打ち明けるには至らなかった。その内心を憂慮する気持ちが湧きはしたが、テ
ィアナの口調と表情を見て、自分で整理していけることだろうと思いなおす。相談ならいつでもいい
よ、連絡くれたら飛んでいくよと言ってから、次の話題に移っていった。それを受けてか、ティアナ
もこれ以降、その話題について口にすることはなかった。
「……ティアナ、何か考えてんな」
「うん。でも、思いつめてるって感じじゃなかった。少し様子を見てみるよ」
すべての分析が終わってから話しかけてきたヴィータには、まるでこともなげに返してみせる。し
かしその頭の中ではすでに、自分の知る高度な内容の教本や資料のタイトルがすさまじい勢いで巡り
はじめていた。今のティアナのレベルで、無理なく理解できるものはないか。所持する魔法と相性が
よく、糧と出来うる材料はないか。膨大な知識量に支えられた判断で、該当する書物を検出し厳選し
ていく。
それを何となく察して、ならまぁ大丈夫か、とヴィータは思う。するとその肩を、何か硬い石のよ
うなものがたたいた。振り返るとそこにはカイムが立っていて、鞘に収まった剣の柄で、肩の部分を
小突いている。
振り向いた視線を認めると、わずかに首と目のラインを動かした。指し示したのはその背後で、ス
バルと何かを話しているティアナである。カイムが他人を気にするのは珍しいなと思ったが、話題が
戦闘に関係することならそれは例外だということを思い出した。なにかを思いつめたまま戦場に出る
ことは、確かにティアナ自身にとっても周りの人間にとっても危険なことなのだ。
「心配しなくていいぞ。あたしたちでフォローするからさ」
そいつがあたしらの役目だ。と言うと、カイムは興味を失ったように、再びヴィータから視線を外
してみせた。相変わらず何を考えているかよくわからないし、闘っている間は負の感情がむき出しに
なる一面もある。しかし根本的なところには、善人な部分が少なくないのかもしれないとヴィータは
思う。
「って思ったんだけど、どう……あれ。どーしたんだよ」
「その言葉、そっくりそのまま、フェイトちゃんに聞かせてあげてよ……」
訓練からの帰り道で起こったそんなやりとりは、当事者であるヴィータとなのはだけが知ることだ
った。カイム・カールレオンを何か一言で形容するならば、狂人と呼ぶこそ相応しい。そんなドラゴ
ンの言葉を、ヴィータは全てがその通りだとは思っていなかったし、それはなのはも同じであった。