意識が崩れだしていた。
 目を開くことができない。てのひらに触れているはずの大地の感触が曖昧だ。
 五感が完全に狂っているのだと、カイムは僅かに残された思考の片隅で知る。普段は鋭敏に機能
しているだけあって、調和を崩した時の影響は果てしなく大きかった。
 瞼の中の暗闇に、黒く巨大な壁が浮かび上がる幻を彼は見た。
 そのところどころから、虫が食うように赤い絵の具が染み出して、じわじわと広がっていく。
 水気を失った血液特有の、どす黒い赤。その一色に染まった壁が、どこまでも高く聳えていた。
 毒々しい紅が高くから見下ろし、地平の果てまでも取り囲むのだ。

「慣れないことをするからだ」

 頭上からドラゴンが声をかけたものの、それがカイムの耳に届いているかどうかは疑わしいとこ
ろだった。わざわざ「声」を飛ばさずとも、契約の相手であるドラゴンは彼の思念や感情のおおよ
そを読み取れる。彼の思考はまだ、深い酩酊の中にあった。まともに動けるようになるまではいま
少し時間がかかろう。
 一言で済ませてしまうならそれは、魔力の制御に失敗した反動だった。
 絶対的な天空の覇者たるドラゴンと比べて、カイムたち人間の体はあまりに脆い。それでも彼が
ドラゴンと肩を並べて戦えたのは、「契約」による力のほかに、その脆弱さを魔力によって補強し
ていたからだ。体内の魔力に急激な乱れがあれば、このように大きく崩れることもある。

「その、すみません……こうなるなんて思っていなくて……」
「こやつに咎がある。出来ぬと知れた時に止めておけばよかったのだ」
「でも、そもそも私が言い出したことで……」
「何処だ? 己の力を御しきれぬのが原因ではないか」

 ドラゴンは気にも留めていない様子だが、それでもなのはは申し訳なさそうに謝り続けた。カイ
ムが深刻な不調に陥っている原因、それは確かに言う通り、カイム自身にもいくらかの責任はあろ
う。しかしそのきっかけとなったのはあくまでも自分だと思っていた。
 ――ミッドチルダの魔法、練習してみませんか?
 そうカイムに持ちかけたのがこの日の朝。これを聞き入れた彼がドラゴンを介して意志を伝え、
今はこうして森の中。
 バリアジャケットが作れないなら、ミッド式の魔法障壁だけでも。生身の魔法防御力が高いとは
いえ、特別な防御手段を持たないカイムへの、それはせめてもの気遣いであった。もしシールドが
使えたら、今回のように火傷を負うこともなかったかも知れない。
 しかし現実はそう上手くいかない。シールドを張る前段階として、魔力を体外に放出することか
らはじめたのであるが、それすらできなかった。しばらく試し続けて近くでヴィータやフェイトか
ら同様の訓練を受け続けている新人たちをよそに、一番最初に根を上げるという情けない結末に至
っている。

「ほらっ! 集中、集中! よそ見しない!」

 新人たちにとってもこの事態は意外だったようで、訓練中にもかかわらずちらりちらりと目が向
けられている。しかし今は訓練の真っただ中であり、教練の間は全身全霊を傾けるべきだ。注意が
散漫になるようなことがあれば、今のように喝が飛ぶ。教え子たちは一瞬ぎくりと硬直してから、
再び訓練に没頭しはじめた。その様子をみていたドラゴンが、珍しく言葉で詫びた。

「悪いことをしたな。おぬしも、他にすべきことは多かろうに」
「でも、どうしてでしょう? 以前見た限りだと、魔力の制御はあんなに上手だったのに」

 なのははそう言い、不思議そうに首を傾げた。彼らが魔力を極限まで抑え、気配を殺す術を身に
つけていることをなのはは知っている。カイムにミッド式の魔法を持ちかけたのは、彼ならばひょ
っとしてという期待もあったからだ。武器から数多くの魔法を自在に引き出しす彼が、ミッドチル
ダの魔法についても才能があったとして、それは何ら不思議なことではなかった。

「おぬしらの真似事をするだけの才はあるまい。残念ながらな」

 常に単身で戦い続けたことが、逆に彼にとって仇となっていたのかも知れない。魔力そのものを
外に出す、それは言い換えてしまうと無駄につながる。それ故に身体が拒絶した。ドラゴンはその
ように結論づけ、なのはもそれを聞くと納得したような顔になった。
 戦場に出るたびに圧倒的多数の敵を相手にしてきたのだから、それは当然と言えば当然の帰結だ
った。力の無駄遣いはともすると死に直結する。加えて彼にとって、魔力とは炎を作り雷を呼ぶた
めのもの。言ってしまえば、それ以上の意味はない。放出は浪費に等しかった。

「融通がきけば良いものを」

 常に数の面で劣勢に立ち続けたことが、意外なところで仇となっていた。死なないこと、いつま
でも戦い続けることだけに主眼を置き続けた結果、肉体もそれに適した方向へ極端に特化してしま
っていたのかもしれない。
 時間を食ったことに詫びを入れていると、カイムが僅かに身じろぎをした。具合はまだ悪いらし
い。そういえばこの青年は、今のように体調を崩した姿を見せたことがなかった。精神的に病んで
こそいたものの、肉体は今まで健康そのものだった。
 それをこうまでして、未知の力にまで手を伸ばしたのは何故だろう。かつての敵の現出に、この
男にも焦燥があったのだろうか。心の中に真っ直ぐに下りてくる、悪い予感のようなものがあるの
だろうか。それとも命を決して奪うことがないという、特異な力にカイムは惹かれていたのかもし
れない。羽虫が灯火に集まるように。

「……エリオは右に避ける癖があるね。キャロはもう少し、リズムを意識してみようか」

 その場所から少し離れて、新人たちの今日の訓練は行われている。フェイトのアドバイスに元気
よく返事をして、子供たちは再び動き始めた。
 養い親の手がさっと上がると、そこここに浮遊する球体から弾丸が飛び出した。訓練用の疑似弾
丸だが当たれば痛い。右に左に飛び回り、これを丁寧に回避していく。体力を鍛え、魔力による身
体能力の強化を練習する基本的な訓練だ。
 汗を流す子供たちを見て、フェイトは正直に言って下を巻く思いだった。
 動作の所々にやや粗はあるものの、久しぶりに訓練を担当した彼らの動きは、入隊時と比較して
かなり良くなっていた。見た目に劇的な変化はないが、魔力の使い方、その制御能が確実に向上し
ている。体力も高い。より難しい内容の訓練に対応する下地が、着々と出来上がりつつあるといっ
た感じだった。
 間近でこの成長を知る機会に恵まれなかったのは悔やまれるが、今日たまたま時間が空いていて、
彼らの面倒を見ることができて良かったと思う。

「……うん。じゃあ、少し休もうか」

 ヴィータの打ち出す弾丸を狙って射撃訓練をしていたティアナ、同じくこれを防ぐシールドを持
続的に張り続けていたスバルも、今ちょうど小休止に入ったところだ。フェイトは木陰に置いてお
いたバッグからスポーツ飲料のボトルを取って渡す。

「ありがとうございますっ」
「二人とも、上達したね。動きが良くなってるよ」

 エリオとキャロは顔を見合わせて、にっこりと笑った。嬉しくなって、フェイトも思わず頬を緩
める。昨日、書類仕事を片っ端から処理しておいてよかった。大変だったが、見返りは大きかった。

「フェイトさん、すみません。忙しいのに、時間を取らせちゃって」

 その考えを読んだわけではないだろうが、キャロが申し訳なさそうにそんなことを口にする。フ
ェイトは首を横に振って、大丈夫だよと優しく答えた。

「無理しないでくださいね」
「無茶苦茶するとああなる、っていういい例がいるしな」

 エリオが心配そうに言うのに対し、歩いてきたヴィータが言葉を続けた。地べたに座っていた三
人が顔を上げると、ヴィータは顎をしゃくって見せる。首の動きに合わせて、赤い髪が揺れた。
 示した方向には待機中のフリードリヒがぱたぱたと飛んでいて、ドラゴンとなのはが何やら話を
している。その足元の木にもたれかかって、未だに復活しないままのカイムも座り込んでいた。

「どうしたんですか? さっき急に、ぐらついたと思ったら膝をついて……」
「こっちの魔法と相性が悪かったらしーぞ。魔力を制御し損ねたみたいだ」
「……わたし、ちょっと見てきますっ」

 キャロがそう言い残して立ち上がったところで、フェイトはあっ、と声を上げた。

「? フェイトさん、どうしたんですか?」
「う、ううん。何でもないよっ」

 目が若干泳ぎ気味のフェイトだったが、キャロにその胸の内を知る術は無い。何かあるのだろう
かと首を傾げながらも、結局とてとて歩いて行ってしまった。
 休憩が終わればまた訓練の続きだ。この場にはまだエリオが残っているものの、フェイトはまだ
キャロとも一緒に話していたかった。
 そう口に出すことができれば簡単だったのだが、心配そうなキャロを見ると、彼女を引きとめる
のがはばかられた。結局フェイトにできたことは、悔しそうな視線をカイムに向けることだけだっ
た。それについてもカイムが気付くことは無かったので、要するに何もできなかったのと変わらな
い。カイムは普段からして他人の目や様々な物事に無関心なうえ、そうでなかったとしても今は、
フェイトの悔しそうな視線に気付けるほどの精神的余裕が彼には無かった。

「気になったんだけど、あいつと何かあったか?」

 ただ近くで見ていた者は別である。エリオはなのはたちの方を向いていて気がつかなかったが、
その横に立つヴィータはフェイトの様子をつぶさに見ていた。
 そうして目にしたフェイトの様子からは、彼女が今まで人に向けたものとしては、今までかつて
見たことのない種類の感情が感じられた。何かあったに違いないとヴィータは察していた。その問
いかけを聞いたエリオも見上げて、フェイトはしどろもどろに弁解を試みる。

「べっ、べつに。な、何でもないよ?」

 視線が泳いでいる様子といい喋り方といい、明らかに嘘が下手だった。これでも時空管理局執務
官が務まるのだから世の中はわからない、と何気に失礼なことをヴィータは思う。公私の使い分け
ができれば確かに問題はないのだろうが、普段がこの調子では。

(子煩悩、ってとこか)

 大方キャロを取られて、やきもちでも焼いているのだろう。
 そのようにヴィータは推測したが、これがズバリ正解だった。ヴィータの推察力がずば抜けてい
たのではなく、付き合いのある人間にとってはそれ程わかりやすいのだ。上手く誤魔化した、など
とフェイトは思ったが明らかな勘違いだ。むしろ筒抜け、丸裸。

「前線どうしで不仲ってのは良くねーぞ」
「……ふ、不仲とか、そんなのじゃ……」

 そしてぎくりとした様子で、珍しく意地を張った。助言したヴィータには事情が飲み込めず、や
れやれといった様子で肩をすくめた。
 ここまで来るとエリオにも、何の話だったか把握できる。不仲なのは間違いなくカイムとフェイ
トのことだ。カイムは事実認識が出来ていないか、あるいは気にも留めていない可能性があるが。
 そうなるに至った経緯をある程度知っているエリオは、どうしたらどうすればと思い悩むのだっ
た。本格的な槍の使い方を見せてくれ、何だかんだで上達を助けてくれたカイムと、親代わりのフ
ェイトには仲良くなって欲しいのが本音だ。しかしその思いと裏腹にこの二人の関係は、少なくと
もフェイトにとっては、決して良いものではなくなってきている。
「まあ昼には回復するらしいし、アイツも大丈夫だろ。よかったな、午後は予定通りみたいで」
「え? あ……えっ?」
「……あれ、聞き違いか。槍で打ち込み相手になってもらうんじゃなかったか?」
「あっ、はい! そうです! なのはさんが昨日、話をつけてくださって!」

 思わず嬉しそうにエリオが答えたのを見て、フェイトは驚いたように目を見開いた。はっとエリ
オが気付いた時にはもう、またも悔しそうな顔をしてあさっての方向を見ていた。先程キャロが歩
いていった向きで、視線の先にいるのも同じ男。
 前回渡しそびれたプレゼントも渡したのだが、それでもフェイトのカイムに対する感情は改善さ
れていないようだった。この一件について何ができるか、どうすればいいのか、エリオにはもう皆
目見当もつかなかった。





「これ、稽古用の得物です! ストラーダの原型というか試作品で昔わたしが作ったんですけど、
 デバイスの機能は抜いてありますし刃も覆ってありますから、稽古にはもってこいですよ!」

 と説明してシャリオがカイムに一振りの槍を手渡すのを、またそれを見上げて待つエリオを、シ
グナムはフェイトとはまた別の意味で恨めしそうに見つめていた。
 打ち込みの稽古をすると知ったのはつい先程のことだが、これがなんとも羨ましい気がした。練
習とはいえ、自分の手持ちの技や腕前がこの男にどれだけ通じるか、腕試しができる滅多にない機
会だ。
 自分との手合わせの約束は。もしかしたら忘れていやしないか。
 と尋ねたい衝動に駆られはするのだが、それを口にするのは大人気ないとシグナムも分かってい
た。結局彼女にでき
たのは、黙ってじっと見ていることだけ。もどかしいばかりである。

「ってか、わりーな。わざわざ届けてくれて」
「ちょうどよかったんですよ。訓練スペースに行くついででしたから」

 午後の訓練スペースではスバルとティアナがバーチャルシステムを用いた実戦訓練を、その上空
ではキャロとフリードリヒがドラゴンを相手に空中戦の練習を、それぞれ行うことになっていた。
 シャリオはというと、バーチャルシステムの細かい設定があるため呼ばれていたのである。槍を
渡しに来たのはちょっとした寄り道だった。カイムが受け取ると、すぐにぱたぱたと走っていく。
今度何かおごってやろ、という心の声はヴィータ個人の思いやりだった。

「テスタロッサも何か、約束でも取り付けていたのか」

 少し離れた位置から同じ光景を見ているフェイトの表情に、自分のそれと似た感情の匂いを感じ
て、シグナムは隣のヴィータに尋ねていた。ヴィータは首を横に振った。実際の理由はまったく違
う。

「事情は知らないけど、何かアイツに……対抗意識? あんま好きくないみたい」
「本当か?」
「ああ。午前中ちょっと見たけど、何かすごい分かりやすかった」

 なのはに教えといた方がいいか。と、ヴィータはその時の様子を思い出しながらつぶやく。ルー
ムメイトなのだから、普段の仕草の中に何か気付くことがあるかもしれない。今のところ(バレバ
レなのはさておき)知らぬ存ぜぬで通しているが、なのはが直接訊けば何か言うかもしれない。
 それにしても、あのテスタロッサが。そんなことを呟きながら、シグナムは腕を組んで前を見た。
 渡された得物を軽く振って重量を確かめているカイムの横で、エリオがやる気満々といった様子
で張り切っていた。カイムの体調を気遣う思いはあったが、そちらは様子を見る限りは大丈夫だ。
こうして予定通り相手をしてくれることになったのは、なのはが大丈夫と判断した証拠でもある。
 こういう立ち合いには、頼めばまた付き合ってもらえるかもしれない。だがそう何度も手を煩わ
せるのはエリオには憚られた。つまり今回は滅多にないチャンス。自然と意識も高まり、同時に気
分がわくわくと高揚していった。

「はぁぁっ!」

 ヴィータが手を上げ、合図を送ってからの第一閃は、そんな裂帛の気合が乗った突きであった。
 槍の穂で受けたが、その後もふたつ、みっつと突いてくる。身長差の関係でかなり下方からの攻
撃だが、対処のしようがないというほどでもない。矮小で醜く、徒党を組んで人を襲う、ゴブリン
と呼ばれる魔物とは何度も戦った。逆に巨大なものも幾度となく屠ってきたから、そういったこと
で不利な戦いを強いられることは少ない。
 非殺傷設定の魔力の刃が股下に潜り込むのを、打ち下ろしで出鼻をくじいた。本来ならば後退な
り横っ飛びなりして回避するのだが、訓練の付き合いである今回はそういう訳にもいかない。カイ
ムが所持する草原の竜騎槍、ほぼ突き専用のランスとは違い、ストラーダには「斬る」動作がある。
続けざまに突きを見せられた直後の刃を立てての攻めは、狙っていたのかいなかったのか。
 次々と繰り出されるエリオの槍は、彼の年齢を加味すればなおのこと、称賛に値した。受けた槍
にずしりと伝わる筋力。卓越した技能。どれをとっても水準が高く、小柄ゆえの身軽さが攻めに拍
車をかけてもいる。
 ゴブリン程度では比較にもなるまい。手に軽く痺れが残るほど力のある一撃に、カイムはそのよ
うに評価を改める。低級中級の魔物であれば、囲まれたとしてもそれほどの苦も無く切り抜けられ
よう。一定以上の力があれば、危機と相対したときにも自然と体は動くものだとカイムは知ってい
た。よほどの恐怖がないならという条件が前提にあるけれども。
 技を受けながらのカイムの評定は、そこで終了した。それまで守勢に徹していたところから、転
じて自ら攻撃に打って出る。
 カイムは得物を大上段に振り上げた。急な挙動にぎくりとするエリオだったが、それでも目の前
の隙を見逃すほど甘くはない。両脇ががら空きになっているのを見て、すかさず胴を抜きにかかる。
 しかしはっと気が付いて、エリオは咄嗟に槍を構え直した。次の瞬間、前触れなく振り上げた前
蹴りでエリオの体が水平に舞った。フェイトが思わず小さな悲鳴を上げるのをカイムは聞いた。フ
ェイトが午前中、回避に重きを置いた訓練をしているのはカイムも見ている。その甲斐があったの
だろう、一瞬の判断にしてはなかなか良い動きをしていた。最近の彼女の行動は、カイムからして
みればよく分からないことが多いのだが、少なくとものの教え方は上手いようだ。
 エリオは飛ばされながらも地面を蹴ってバランスを取り、体勢を立て直してから着地する。そう
してその後も、次々と技を繰り出していった。カイムの両手に支えられた槍は、エリオの攻撃にも
びくともしない。鉛を叩いているような感触に、エリオは成人男性と子供の地力の差をしだいに思
い知っていた。しかしそれでも、悔しくはない。それを考えても仕方がないのだと、エリオは子供
ながらに理解していた。ただ今持っているものを、全力で吐き出すだけだ。そう自分に言って聞か
せ、何度も何度もカイムに挑みかかっていった。

「そこまで! 少し時間あけるぞ」

 その日も陽は高かった。森の中にあって木々が開かれたその場所にも強い光が降り注いでいる。
 打ち込み始めてから、気がつけばそこそこ時間が経っていた。カイムも攻勢に回ることはあった
ものの、打ち込んでいたのは主にエリオの方。その疲労は通常よりもかなり早く、休息が必要な頃
合いだった。ヴィータが手を叩いて合図をすると、二人の手がぴたりと止まる。ありがとうござい
ます、と切れた声で言ったエリオは、その場にぺたりと腰を下ろしてしまった。
 そこにすかさずフェイトが駆け寄った。エリオの隣にしゃがみこみ、冷たく濡らしたタオルと飲
み物を手渡す。この時点で特別なアクションを見せていないようにヴィータは思ったが、カイムの
位置からだと背中越しにちらちらと窺っているのが見える。
 明らかに警戒されていた。一方カイムは当事者でこそあったものの、彼女の心情まで察すること
まではできない。感じるものは不可解さしかなかった。双方行き違いである。

「ほらよ。お前のぶん」

 ヴィータは無造作にボトル缶を放る。突っ返されるかとも思ったが、カイムは特に何事もなく
受けとった。それなりには付き合いの時間もあるからな、と一人納得することにした。そうしてか
ら尋ねる。

「お前から見て、どうだった? いい攻めに見えたけど」

 返答として、小さいながらもカイムは頷いた。はあはあと荒い息をするエリオの顔が、それを見
て汗だくの笑顔になる。こうしてまともに反応があることは珍しいし、誉められるのも初めてだ。
フェイトに優しくしてもらうのとはまた違った、嬉しいような気持ちがわいてくる。
 ただそんな少年をよそに、カイムは彼らから視線を外した。何か思考するような素振りを見せる
と、ややあってドラゴンから、その意思を代弁して思念が届く。

『石突は使わぬのか?』

 やはりそこに刃があるためか、エリオは穂の部分しか使っていなかった。威力は確かに高いのだ
ろうが、槍の使い方はそれだけではない、とカイムは言う。逆の端を振り上げてフェイントに使っ
たり、意表をついて柄を横向きに押したり等、できることはまだまだあるのだ。そんな講釈に、エ
リオは頷きながら耳を傾けていた。ガジェット相手ではなかなか使いにくいかもしれないが、人間
が相手だとただ槍を振るだけでは確かに不足である。

『蜘蛛の糸はまだ切れそうにないが、刃筋はなかなか良いそうだぞ……ぬ』
「どうしたんですか?」
『フリードリヒめ。なかなかどうして強い炎を吐きよる……いや、これは娘の方か?』

 カイムの代弁の片手間にキャロとフリードリヒの相手をしていたドラゴンが、思わぬ攻撃に意表
をつかれたらしい。珍しい、とヴィータが驚く。
 巨大な魔力の波動にさらされた時や、例えば「血の記憶」のような、種としての本能が目覚める
場合。これらの例外を除けば、ドラゴンの知る限り、竜の炎がそうそう容易くその威力を増すこと
はない。となればこの変化は、炎の制御を担当するキャロの上達によるもの。そう帰結する。これ
は見なければと思い、ヴィータは空中にパネルを生成した。
 しかしそこに映ったのは、空中でバランスを崩して慌てるフリードリヒと、その背中にしがみつ
いて必死に宥めているキャロの姿だった。

『何したんだ?』
『風の塊をくれてやったらこの有り様よ。立て直しの遅さは消えていないようだぞ』

 く、く、と笑うドラゴンの声は、幾分か意地の悪さを含んでいた。若造に付け上がらせはしない
ということなのか。フリードリヒも災難だな、とヴィータは思った。

『羽ばたきが乱れただけだ。じきに戻る』
「……フリードリヒがああなるところ、初めてみたかも」
『我からすればまだ子供よ。陸での組み打ちを教えるには。まだ少し早そうだ』
「ドラゴンも地上戦ってあるのか?」
『我の牙は飾りではないぞ?』

 考えても見れば当然だった。竜族の恐ろしさは灼熱の火炎だけではない。鋼のように固く、かつ
鋭い牙と爪。圧倒的な質量を持つ尾に、巨大な楔のような角。さらにその身体能力は他の生物とは
比較にもならない。これらをフルに発揮すれば、などとは考えるのも恐ろしい。フリードリヒにも
それができるようになるかは分からないが、もしそうなったら戦力がさらに上がることが見込めそ
うだ。このドラゴンが仲間でよかった、とヴィータは心から思った。同時に、知性の高い竜は敵に
回してはならないとも。

『しかしいくらか成長は見受けられる。親としても喜ばしかろう?』

 不意に話しかけられたのはフェイトだった。いきなり話の矛先が変わって、気がついたときには
うなずいていた。

『喜びついでに、そこの男と和解でもしたらどうなのだ』

 思わず首を縦に動かしそうになって、フェイトは必死に横に振った。

「やっぱ仲悪いんじゃんか」
「和解が必要な状態ではあるのか」
「あ、いっ、今のはっ」

 フェイトはしどろもどろになって弁解を試みた。意図したのかはわからないが、まんまと引っ掛
かったというか自白した結果になってしまった。そうしてから恨みがましげにカイムを見上げる。
それは単なる逆恨みであった。





 あるべき肉体を失った黒い騎士。魔法攻撃と物理攻撃を交互に遮断する、肉なき鎧。ミッドチル
ダに突然現れたその強敵は、そのままいけば魔導師にとって絶望的な相性の天敵だったであろう。
一定の間とはいえ、何しろ魔法が一切通じないのだから。その時彼らにできるのは耐えるか逃げる
か、ただその二択だけである。はやてやなのはが対策を考える際、同時に空中に出現したガーゴイ
ルよりもこちらを優先したのは当然と言えた。

「あの人に全部任せる訳にもいかんしなぁ」

 昨日一緒に知恵を絞ったはやてが、冗談めかしてそう言っていたのをなのはは思い出す。全くも
ってその通りだ、となのはは思った。カイムだけに押し付けるわけにはいかない。カイム本人から
すれば別にそれで構わないのだが、たとえ面と向かってそう言われても、なのはは首を縦に振らな
かっただろう。負担のかかった任務のしっぺ返しがどのようなものであるか。彼女はそれを、文字
通りその身をもって理解していた。
 なのはが空中から見守っているなか、スバルとティアナの二人によって、仮想敵にシャドウを想
定した戦闘訓練が繰り広げられている。
 鎧から立ち上がる瘴気の炎が、ちょうど色を変えたところだった。不気味な光の揺らめきが、ま
るで意志を持つかのようにさっと輝きを変える。魔法が効くのか効かないのか、視覚的に判断する
唯一の変化。これさえなければ完全に手も脚も出なかっただろう。ある意味でAMF以上、完璧に
近い防御力を誇るシャドウの、それはたったひとつの弱点。魔導師たちの突破口だった。

「スバル!」
「うん!」

 魔法が効くようになった途端、相棒の指示に従い、スバルが射線から大きく外れる。
 直後。弾丸のチャージを終えたクロスミラージュの銃口が、次々と火を噴いた。狙う四体の甲冑
それぞれに対し、光の塊が雨のように横殴りに叩き込まれる。装甲が音を上げて削られ、あらぬ形
にひしゃげていく。そのうちに一体がすっと姿を消した。鎧の耐久力を上回る損傷があった場合、
敵影は消滅するように設定されている。
 そうしてまた、纏う色が変わる。すると今度はスバルが前に出て、ティアナは再び力を溜めはじ
めた。先程から行っているのはその反復である。長い間組んでいるだけあって、フォーメーション
の切り替えは迅速かつ的確だ。これを今まで何度も繰り返しているのだが、連携に陰りるような兆
しもまだ見えない。
 魔法が効くならティアナの射撃、効かないならスバルの拳。やっていることの本質はカイムと変
わらないのだが、二人でこれをした時の戦力は飛躍的に上昇する。何しろ片方が敵を押さえていら
れれば、もう一人は出番が来るまでの時間を、まるまる次の攻撃の準備に回せるのだから。体力は
同じでもより強い魔法を使うことができ、裏を返せば同じ攻め方をしていても、力の消費は当然な
がら二分の一。単独で遊撃に近い挙動をするカイムと違い、隊を組む魔導師ならではの特典だった。
 加えてスバルもティアナも、お互いフォローの要る要らないは熟知していた。スバルが押されれ
ばすかさず射撃の援護が、ティアナの方に敵が向かえばウイングロードを使った撹乱が入る。連携
を強化したクロスシフトほどの突破力こそないものの、安定して戦うことができる戦法だった。も
ともと協力しあう技術が高い、この二人だからこそできる波状攻撃。近接攻撃主体の前衛と射撃メ
インの中衛、という組み合わせも功を奏していた。スバルにも射撃魔法、砲撃は使えるのだが、格
闘戦と並行していてはおそらく体力が持つまい。

「いいよ、ティアナ! その調子!」

 再びスバルが退き、ティアナが撃つ。的が大きく動作が素早くないぶん、弾を当てるのにはそれ
ほど困らない。確かに装甲は頑強であるが、それでも無敵という訳ではない。つまり厄介な魔物で
はあるが、決して勝てない相手ではない。そうティアナは結論づけていた。シールドがスイッチす
るタイミングと、それに応じたフォーメーションの切り替え。それさえしっかりできていれば、確
かに対処できない相手ではない。
 なのはが褒めてくれるのを嬉しく思いつつも、神経はただ撃つことだけに集中させる。引き金を
引き、引き、引きながら、感覚が研ぎ澄まされてゆくのをティアナは感じた。敵の位置と、弾丸の
走るべき軌道が、視界にうっすらと浮かび上がっている。そこにひたすら、力の塊を走らせるイメ
ージ。
 完全に削りきるより早く障壁が変化し、同時にシャドウの眼前にスバルが躍り出る。ティアナが
撃ち、装甲が脆くなった部分を、拳で確実に打ち抜いていく。
 時間こそかかるものの、劣勢に回ることなく戦うことができていた。昼からかなりの時間をこの
訓練に費やしているが、今のところは危なげなく捌けている。ホテルアグスタでヴィータとカイム
が苦戦したのは実際のところ、周囲をかこまれて脱出が困難という状況の結果でもあったと、ティ
アナは今ではそう確信していた。
 しかし、カイムはそれを単独で突破した。何もかもを巻き込む嵐のごとく、何者の手も借りずに
全てを吹き飛ばして見せた。
 当初はこの作戦、体力が持つのかという心配があったものの、意外にもスタミナ不足という事態
はやってこなかった。普段相当鍛え込まれているだけあって、まだまだ疲労を感じるには至らない。
体の調子が良い。ティアナはなのはのしごきに感謝した。
 その上で、思う。手に入れたい。自分が今まで持たなかった、決定的に違う何かが欲しい。
 そう思うだけの、手を伸ばすだけの下地はできているはずだ――そう確信していた。強くなって
いるのは周りも同じ。そこからさらに、もう一歩踏み出してみたいと思うのだ。これならば、と思
うものもあった。ティアナは変化を望んでいた。
 危地に立ったカイムとヴィータを前にしたときの焦燥。鉄屑と化したシャドウを前に感じた、あ
の無力感。まるで心の中を隙間風が通り抜けた後のような、虚ろな落胆。
 あんな思いはもう御免だ。その記憶を撃ち抜くように、ティアナは弾丸に魔力を練り込んだ。



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