翌日の朝。空は晴れで、海原には軟風が吹いていた。訓練スペースの位置する人工の平地に、潮
の香りが穏やかに運ばれている。休息するにはもってこいの陽気だった。実際この日の昼、休憩中
にうっかり睡眠をとりすぎたヴァイスが、シグナムにずるずると引きずられているのを事務員の何
人かが目撃している。
 しかし午前中は休養が与えられているにもかかわらず、新人たちの姿はすべて訓練スペースの中
にある。
 早起きの理由はみな共通である。カイムたちがこの時間、この場所を使うと聞いてのことだった。
バーチャルシステムの調整が目的であるのだが、相手はガジェット・ドローンでなく、新たに現れ
たシャドウやガーゴイルである。これからまた相対するかもしれない敵と、その対処を熟知してい
る者の手合わせだ。単純な興味以上のものを感じてしまうのは無理もなかった。新人たちは皆とて
も素直で、真面目で、勤勉なのだ。
 たまには教練を一切忘れて……となのはは思ったが、見学したいと言いやる気に満ちた目を向け
られれば、それを無下になどできはしなかった。体を動かすわけではないのだし、それに同じ立場
にあったなら、彼女もきっとそう頼みこんでいたと思うから。
 今回の件は、カイムに会うのに良い機であり口実だ。フォワードの四人はキャロを除いて、彼と
顔を合わせる機会があまりに少ない。ともに戦う時に行き違わないためにも、しっかりと関係を築
いておくべきだというのは、新人たちにもわかっていた。

「本当に、もう、いいんですか? 傷の方……」

 キャロが言ってから、ああ、と竜は応えた。いじらしいことだと思う。

「薬は良く効いたぞ。この通り、傷は消えた。痕跡もない」

 ドラゴンの言葉を裏付けるように、カイムは外套を肩から外した。背に負っていた剣や槍を落と
し、服の袖をまくって見せる。引きしめられた腕からは包帯が取れており、痕も見られない。すっ
かり治癒したのが見てとれた。よかった、とキャロは嬉しそうにこぼした。

「じゃあ、いいかな。今日午前中の説明ですけど……」

 その後、なのはが、これから行う調整――すなわち、ある意味腕試しを受けて立つこと。その詳
細と注意事項、開始ポイントなどの具体的な説明に入る。
 順番は先にシャドウ、後がガーゴイルとなった。
 仮想フィールドは廃ビルの林立する廃墟。障害物は多いが道幅の広い場所があり、戦場の広さは
戦う者の使い方次第というわけだ。

「手出しはせぬ。お主がやれ」

 そんな説明が終わると、そのように言い残して、ドラゴンは羽ばたき舞い上がった。以前低空か
ら地上戦もこなすと言っていたドラゴンであるが、手を出す気は今のところないらしい。カイムか
ら何かあるようなら、思念を飛ばして済ませるつもりなのだろう。
 システムチェック兼デモンストレーションとわかっている以上、その程度で血気に逸りはしない、
と言っていたのをなのはは思い出した。深い真紅の巨体は風に乗り、あっという間に空高くへ遠ざ
かっていく。高度を得てから旋回するのを見て、特に目的のある飛行ではないように感じた。機動
六課に協力するにあたってその規定にも従い、自由に空を飛ぶことを控えていた赤き竜。男の方よ
りむしろ、こちらの方に鬱憤がたまっていくのは道理であった。

「フリードも行きたい?」
「きゅる!」

 肩の上でもぞもぞと動くのを感じてキャロが問うと、小さなフリードリヒは嬉しそうに言った。
なのはに確認を取って封印を解き、本来の巨体を取り戻すと、赤き竜の後を追う。しばらくすると
追い付き、二頭そろって遥か高くを自由に飛びはじめた。白が赤の軌道を追いかける形になる。道
筋がまったく同じであるところをみると。見よう見まねで上達しようとしているようだった。
 それを見送ってから、カイムのみをその場に残し、訓練場全体を見下ろせる、バーチャルシステ
ムで作った廃ビルの上へと移動をはじめる。歩いていくメンバーの中にはなのはや新人たちの他に、
ヴォルケンリッターの面々もまばらに見えた。
 新人たちの休養に伴い、教導が無くなったヴィータはフリーである。シグナムもこの日は外勤が
なく、はやての手伝いをしていたザフィーラはたまたま時間が空いていた。医務室のシャマルのみ
機械の納入があって姿がない。ついでに言えばはやてとリインもその検分に行ってしまったから、
はからずも八神家の中で、前衛および中衛に位置する者たちが出揃った形になっていた。偶然であ
るが都合はよい。

「テスタロッサの姿が見えないが……?」

 ふと左右を見て、背後を振り返り、シグナムが意外そうにそう言った。当然来るだろうと思って
いたらしく、たった今気付いたという様子だ。廃ビル内の階段を上り終えて、ちょうどヴィータが
それに答える。

「外回りだってよ。タイミング悪いな」
「そうか。残念だ……」
「大丈夫だよ、記録は取ってあるから」

 モニターの展開をはじめたなのはが、そう言って振り返る。対してしかし、シグナムは首を横に
振った。

「その場で聞きたかった。色々とな。映像と実物とでは、やはり違う」

 なるほど、と言って、なのはは正面に向き直った。
 見上げながら聞くエリオは、そういうものなのか、と思う。訓練と現場では緊張感のケタが違う
ことを思い出す。何となく得心したような気にはなった。

(よかった、のかも)

 そして同時に、ほっと安堵の息をはいた。この場に来るにあたって彼には、とある一つの懸念が
あった。
 もともと行動が噛み合わなかったこともあるが、エリオはかれこれ一週間以上カイムを見ていな
い。それは同時に、彼とフェイトが同じ場にいるところを、見たことがないのと同義であった。娘
に手を出されたと勘違いしたフェイトが、大泣きに泣いて怒ったあの日から、である。
 あの後、事態にどう収拾がついたかを彼は知らない。キャロをなんとか泣き止ませた後、ティア
ナが事情を説明したらしく(スバルはティアナに「余計にややこしくなりそう」と言われたため、
ぷんすか怒りながら口をつぐんでいた)結果理解は得られ、フェイトも落ち着きを取り戻したこと
を後から聞いたのは安心だ。
 しかし結局、少なくともその時のフェイトの中では、カイムの印象は回復しなかったみたいだと
ティアナは言う。一旦マイナスの果てに突き抜けてしまったものは、どうあがいてもゼロやプラス
にはならなかったのだと。
 カイムはキャロが泣き止むのを見届けて、取り乱してすみませんでしたと彼女が言うのを聞くと、
とっくに失せてしまっていた。だからフェイトとは何もなく、その時しこりが残ったことになる。
時間が経った今なら……とエリオは思うが、確証は一つもなかった。
 事情を知る、隣に立つキャロを見た。表情がやや安堵に緩んでいる。

「キャロ。フェイトさん、もしかして……」
「……うん。あれからフェイトさん、一回も会ってないって。ちょっと怒ってるようにも……」

 問うまでもなく、同じことを考えていたらしい。エリオにとっては槍の先輩、キャロにとっては
竜の先輩。出来ることなら母親代わりのフェイトと仲良くなって欲しかったが、その道程には大き
な壁がそびえているのかもしれないと子供たちは思った。

「では、はじめます。準備はいいですか?」

 そんなことを思っていたエリオとキャロが、なのはの言葉で現実に引き戻される。あわててモニ
ターを見ると、カイムがちょうど剣を抜き放った。無言だが明確な答えであった。いつものように
表情のままであるが、首が縦に小さく振れたようにも見えた。
 なのはがそれを見て取った直後、カイムの眼前に肉なき武者、シャドウの幻が作り出される。
数は三。幻のはずの漆黒の甲冑が、身じろぎに合わせてぎしりと呻いていた。

『障壁も、本物に似せてあります。完全に再現はできなくて、他のもので代用したんですけど』

 対魔法シールドはAMFで……などと、完全に実物と同じにできなかったことを残念そうになの
はは告げた。プログラムしたシャーリーが、珍しく心底悔しそうにしていたのだとも。
 しかしカイムにとっては、それでも十分に驚嘆に値した。
 だらりと剣を握るそれらは確かに、ホテルアグスタに現れたものとも、過去戦ったものとも一致
している。判断材料は任務での三体と、ドラゴンが代弁した特徴だけ。なのに出来は予想以上に精
巧だ。この世界が持つ技術には驚くばかりだが、どうやら技術を扱う人間の方にも、相当の知力が
蓄えられていると知れた。

『良い』

 天から思念が届いた。ドラゴンによる代弁だ。
 カイムは斜めに剣を構えた。
 受ける、という意志読み取って、なのはは幻影を拘束から解放する。弾かれたように、一体が動
いた。
 横薙ぎに剣が瞬いた。
 使い込んだ愛剣で受ける。質量が手のひらにずしりと伝わる。膂力は十分、踏み込みも深い。後
方に跳躍して距離をおく。二体目が詰めてきている。
 着地は束の間、今度は右側に身を投げた。踏んだばかりだった立ち位置を、光弾が唸りを上げて
通りすぎていく。開始位置のままの三体目が、微動だにせず魔力を練っていた。ふたつ、みっつめ
の追撃が飛んだ。さらに後方へ間合いを取った。

『えげつがない。徒党を組ませるかよ』

 空高くを旋回する竜は地を見下ろして、かか、とわらった。
 彼らの知る魔物の多くは知恵を持たないし、シャドウもその例外ではない。
 囲んで狙うくらいのものは見たことがあるが、役目を決めて戦うことはしないのだ。その点、こ
の「つくりもの」は本物よりたちが悪いと言えた。調整が必要ないではないか。駆け出しの新人た
ちには、十分過ぎる出来映えであろうが。

(えげつが、って……)
(確かに……)

 不覚にも納得してしまう新人たちだった。ガジェット・ドローンとは明らかに挙動が違い、どう
見ても動きに連携が見られた。システム調整にしては、相手にするのに骨が折れそうだ。カイムも
大変だろう、と労をねぎらう空気が流れる。

「ひっ、ひどいこと言わないで下さい! 最悪を想定してるだけですっ!」

 そんな少年少女たちの不穏な気配を察知して、慌てたなのはは必死に弁解を試みた。竜は取り合
わずに、からからと愉しげな思念だけが飛んでくるばかりだ。実際、だから悪いとは言ってはいな
い。言葉とは面白いものである。

『そら。よく見よ』

 言われて総員、視線を戻す。カイムの手の中に長剣は無く、立ち位置のすぐそばの地面に突き刺
さっていた。代わりに掲げたるは闇色の剣。短剣というよりもはやナイフと言うべき刃の切っ先に、
集束する魔力が輝きをこぼしていた。
 次の瞬間、雷が落ちた。
 何の比喩でもなく、言葉の意味そのままの光の柱が鎧を貫いた。ただの稲光ではない。剣を媒体
として呼び出された、この世のものならぬ邪悪なそれだ。一条の光の束が、轟音とともに最後尾の
一体を直撃した。
 新人たちには見覚えのある魔法――トールクロウ。初めてカイムを探しに出かけた、あの森で半
ば戯れに彼が放ったものであった。ただ威力はその時の比ではない。
 閃光が細やかな粒となって消えた直後、シャドウの鎧には目に見えて大きな損傷が見られた。と
ころどころ鎧の塗りが剥げ、金属の光沢が露わになっている。漆黒の中でその部分だけが、陽光を
受けて白く輝いていた。良く作りこまれている。離れたティアナはモニターで見ながら思った。
 その一体は行動不能とまではいかないものの、機動力は奪われる。そこに次いで、電光が去った
地面に暗黒の魔法陣が広がった。情け容赦なく体力を奪う、死の紋様だ。もはやその場に釘づけと
なったのを見届け、カイムは地に突き立てた剣を抜いた。

『おぬしらの全てが、得物を持つのではないのだろう?』

 初見の魔法であったため、目を奪われていた先達たち。投げかけられた声にはすぐさま応答する
ことができず、5、6秒が過ぎてから、一番先に戻ってきたヴィータが答えた。

「あっ、わ、悪い。そうだな。ティアナとなのはと、キャロはそうだ。うん」
『一の矢で仕留めよ。二の矢三の矢は届かぬやもしれん、だそうだ』

 障壁の切り替えを言っているのだろう。要は初撃に全力を注がなくてはならない。もたもたして
いると、そのうち魔法が完全に効かなくなるのだ。

「確かにそうだな。バリアが変わると、相性もグンと変わるのか」
『一手で倒すに越したことはない。魔法が通らずとも、相手にする方法はいくらでもあるがな』
「何?」

 シグナムがどういうことか、と問いかけるよりも早く、その答えはカイムが見せた。彼がしたこ
とは単純で、かつ意外であった。人の頭蓋骨よりも大きく、重い瓦礫を持ち上げて、向かってくる
甲冑たちに投げつけたのだ。
 ただしその後方から、追いかけるように火炎を放って。
 剣を片手に突っ込んでくる、二体のシャドウのわずか手前。炎の塊が瓦礫の面をとらえると、火
球の炸裂でそれが爆ぜた。ひとつの瓦礫の固まりはいくつもの石の凶器に姿を変え、さらに刹那の
内に爆発的な加速を得る。
 切り払おうと振られたシャドウの剣は虚しく空を切り、横殴りの石の雨がカウンターの要領で叩
きつけられた。礫の鋭角が鎧の表明を強かに打ち付け、質量のある塊が次々と装甲を削った。
 抑えていることを考慮しても、それが敵にとって致命傷になる攻撃だとは考えにくい。しかし発
想が凄かった。魔法が通じない相手に対しても守勢に回ることなく、魔法を利用して迎撃を取りに
行くとは。
 対策を熟知している……というよりも、戦い方そのものが並の熟練のそれではなかった。えげつ
ないのはどちらの方だ。悪質な老獪さを備えたそれは、どこからどう見ても齢二十四の人間が持つ
発想ではない。

「巧い……」

 不意にシグナムがこぼした呟きは、エリオだけが聞いていた。戦いの熱をもてあましているよう
な、うずうずとした声だった。

「どうですか?」
『少々攻めの気が強いそうだが、上出来であろう。本物と見紛うようだ』

 攻撃力、防御力、いずれも実物と遜色ない。障壁は再現できなかったと言っているが、さしたる
問題はないだろう。
 それでも気になるのなら、無効とする攻撃が命中する直前、その瞬間だけ姿が消えるようにして
しまえばいい。
 そうドラゴンが助言すると、それは盲点だったとなのはは驚いた。絶対に当たらないと絶対に効
かないとは、表面的には同じことである。

『望むなら、得物を持ちかえようか』

 不意に、ドラゴンの声色が変わった。特定の人間に向けられているのがわかる。カイムは地面に
撃った火球で目眩ましをした後、シャドウから距離を置いていた。

『例えば、そうさな。槍はどうだ?』

 エリオはどきりとした。願ってもない申し出だ。思えば今まで、カイムが槍を持つと知っていて
も、何かを相手にしてそれを振るところは見たことがなかった。是も非もない。絶対見たい。

「おっ、お願いします!」
「待て、もう少し後だ。後にしてくれ。頼む!」
「う……副隊長でも、ダメです。譲れませんっ」

 どうやらライトニング分隊に内部抗争が勃発したようだった。しかも内容はテレビのチャンネル
争いそのものだ。シグナムまでもが微笑ましく見える。ティアナやスバルはキャロと顔を見合せて、
思わず苦笑するのだった。





 その後カイムが剣に槍に使い回し、ようやく順番が回ってきたドラゴンはあっという間にガーゴ
イルの群れを蹴散らした。
 放つ光弾も尾で叩いた感触も、本物に限りなく近いとのことだ。それだけを確かめると、レイブ
レスと大魔法の連発で一息に吹き飛ばした。
 試運転にしては、大盤振る舞いにもほどがある。久々に長々と空を飛べたことで、赤き竜はだい
ぶ機嫌が良かったらしい。地に降り、封印を施されたフリードリヒが尊敬の眼差しを向けるのも、
彼女らしい尊大さで受け止めていた。
 予定は早めに終了して、昼を前にその場は解散となった。
 新人たちは午後の訓練が控えているが、それまで中途半端に時間が余っている。キャロは早速と
ばかりにとてとてと駆け寄って、一緒に昼食はどうかと誘いをかけていた。

「その、あの、久しぶりですし、積もる話とかっ」

 キャロそれ割と墓穴掘ってる、多分話すこと積もってないよ。
 という突っ込みはさておいて、なのははその光景に微笑んだ。
 なんとなく想像ができていた。キャロがこうまでカイムに構うのはもしかしたら、彼を温かな光
の中へ導こうとしているのかもしれない。傷を時間が治すのを待つのではなく、人の優しさによっ
て癒そうとしているのだろう。キャロの意図と気持ちを、そう理解することができた。エリオもキ
ャロも、過去フェイトにそうやって救われてきたからだ。
 しかし相手は手強い。何と言ってもあのカイムである。人付き合いは最悪と言っても差し支えな
いし、オフィスにはまだ一度しか足を踏み入れていない。またこのまま森へ引っ込むつもりだった
ため、当惑した様子であった。
 スバルやエリオも――こちらはキャロの援護や楽しそうという気持ちの他に、何か魔法の一つや
二つ見せてくれるかもという期待もあったが――キャロと並んで誘いをかけた。しかし流石と言う
べきかやはりと言うべきか、それでも首を縦に振る気配はない。
 ここまではよくある光景、不思議なところは何一つない。
 しかし、残念そうにしているキャロたちに対して、思いがけないところから助け船が出た。

「行くがいい」

 完全に虚をついた、ドラゴンの肉声。キャロら誘っていた新人たちはもちろんのこと、聞いてい
たなのはたちも耳を疑った。カイムの視線からさえも、少々の意外さが読み取れるほどだった。
 口の利けないカイムに対し、一人で行けと言うのと同義であったからだ。

「いっ……いいんですか……?」
『我は構わん』

 それが読み取れたからこそ、キャロは尋ねた。信じられないといった声色だった。いざとなれば
ドラゴンを経由して念話を伝えることはできるが、それでも竜と竜騎士は常にお互いが傍らにいた。
 だが彼女は、それでもなお、半身を少女に任せようと思った。
 なのはが感じたことはまた、このドラゴンもおおよそ察していたのだ。己以外の何者かと、強固
な絆を持ってほしかった。契約で結ばれるのではない、人間との真っ当なつながりが、カイムにと
って必要だと竜は考えた。
 そしてさすがのカイムも、竜にまで言われては頷かざるを得なかった。
 キャロはぱあっと明るい表情を見せて、喜びをあらわにした。よかったね、とスバルがぽんぽん
肩を叩く。こくこくと頷くその様子は、珍しく年相応の幼さが表れていた。

「お? なんだ。もう終わったのか」

 と言いながら、ヴァイスがふらりと現れたのはそんな時だった。集まっていたメンバーもそろそ
ろオフィスに戻ろうとする頃合いである。
 ごめんもう終わっちゃったんだ、となのはが申し訳なさそうに言った。いえたまたまヒマだった
だけですから、とややあわてて手を振る。実際それほどまで気になって
いた訳ではなく、時間ができたから見に行ってみるか、という程度のものであった。

「……シグナム姐さんが死にそうな顔してますけど。なにかありました?」
「それが……」

 なのはの背後に立つシグナムからは、活気と生気がまるで失せていた。
 先程ついに辛抱たまらなくなって午後の時間を使って、模擬戦の約束を実行に移そうとしたのだ
が、

「午後は外回りだったんじゃねーのか?」

というヴィータ言葉によって絶望の淵に叩き落とされたのだ。カイムに怨めしそうな視線を向けた
りもしていたが、こればっかりは彼に責任はない。シグナムにできるのはただ、己の不運を嘆くこ
とだけだった。

「ヴァイスさん、あの、ありがとうございました。無理にお願いしちゃって……」

 そんなシグナムの事情を聞き、不憫そうに目を向けていたら、下の方からキャロの声がした。
 身に覚えが無く、はて、と首をかしげそうになるヴァイスだったが、よく考えるとひとつ心当た
りがある。時間があったら、カイムに気を配ってくれと頼んできたことを言っているのだろう。
 やった本人も、彼の心の動きを予想するのをちょっとだけ楽しんでいた。キャロがきっかけだと
いうことは意識から外れていた。どういたしまして、と言いながら、ヴァイスはひらひらと手を振
った。

「ヴァイスさんもどうですか? 皆でお昼ご飯にしようと思うんですけど。カイムさんも一緒に」
「おっ、賑やかでいいな。俺も行くよ」

 エリオの誘いにおどけた調子で応える裏で、ヴァイスは多少なりとも驚いていた。カイムはそ
ういった状況に進んで自らを置く人間ではない。大方キャロやエリオが押しきったか、ドラゴンの
鶴の一声か。はたまた数にものを言わせて通したのかもしれない。
 まあいずれにせよ、彼にとっても悪いことではなかろう。何より単純に、野次馬根性に火が点い
た。ヴァイスはすんなりと同席を願い出た。昼から後は特に約束事はない。いつも通りヘリ関係の
仕事があるだけなので、外勤の予定もなかったのである。
 そうして少しすると、オフィスへの道を連れだって引き返しはじめた。昼食まではまだ早いが、
歩いているうちに時間も経つ。
 ショックを引きずっていたシグナムと、それを慰めようとしているなのは、傍観していたヴィー
タの三人はなおもその場にとどまる。データの整理はそれほど多量ではないものの、やるべきこと
は少なくない。新人たち用のバーチャルシステムの設定変更とシャーリーへの試運転結果の転送、
部隊長への報告などが残っていた。カイムたちが、特にドラゴンが手早く終わらせてくれたお陰で、
昼までまだ少し時間があるのは、なのはたちにとって幸いであった。
 竜もまた、森に引き返さず、彼女たちと一緒に訓練場に残ることにしたらしい。
 ミッドチルダにまだ姿を現していない、ドラゴンたちの世界の魔物について、なのはがまだ話を
聞きたいらしい。今後の出現があり得ると踏んで、訓練相手にできないかと考えたのだ。
 もちろん実際に教練の場に投入されるのはもっと後だろうが、あらかじめバーチャルシステムの
プログラミングをしておいて損はないだろう。シャーリーも結構乗り気だったらしく、ドラゴンも
快く協力に応じていた。

「代わりに、我の言葉にも耳を貸してもらうぞ」
「え? あ、はい。どんな?」

 そんな会話が背後で行われたのは気になるが、わざわざ立ち止って聞き耳を立てるのは失礼だろ
う。そう考えて新人の四人も、ヴァイスも歩みを止めなかった。カイムに至っては、気にしている
素振りを見せることさえなかった。もともと関心を抱く対象が、この男には少なすぎるのだ。





 意外性たっぷりの男が混ざった奇妙な食事会は、オフィス内の食堂にて執り行われることになっ
た。
 多少の奇異の目はあるかもしれないがそれはそれだ。カイムもミッドチルダの金銭を、路銀をク
ロノが換金した(硬貨に貴金属が混ざっていたため、それなりの金額にはなっていた)ため所持し
ている。ただそれ以来一度も使ったことが無く、何気に初めての消費行動であった。以前にもキャ
ロのおすそ分けがあったり、ヴァイスからパンを届けられたりはしていたが、森の中では木の実や
時折現れる獣の肉が主な食事だった。
 人間らしい食事は久し振りであり、カイムも悪い気はしなかった。いつも眉間に力を込めている
のが、よく観察するとわずかに抜けている。ただあまりに些細な変化であったため、誰も気付くこ
とはできなかった。今はまだ、彼の心身の機微を敏感に感じ取れるほど、深く長く付き合いがある
人間は誰もいない。

「じゃあ、先に席をとってきましょっか。この時間なら、結構すいてると思うけど」
「ティア、私のお腹もすいてるよっ」

 建物の入口に到着したティアナは聞いてないと切って捨ててからぱこんと頭をはたいて、馬鹿を
言っている暇があるならさっさと行けとげしげし蹴った。そのまま追いかけ合いになり、奥の方へ
引っこんでいく。

「わたしも、ちょっとロッカールームに行ってきます! 渡したいものがあるんですっ」
「あっ、キャロ。僕も行くよ!」

 同じくこちらのペアもそんな風にして、二人で別の道へと駆け足で行ってしまった。
 新人たちにもある程度、この男と同じ場所に立つことには、まだ緊張があるのだろう。それに慣
れるための今回の食事会であるとも考えられた。しかし男二人がぽつねんと取り残されたことにな
り、カイムはどうかわからないがヴァイスにとっては居心地が良いとは言えない。手持無沙汰と少
々の気マズさで、思わずポケットの入れた煙草の箱に手が伸びそうになるが、オフィス内は禁煙だ
と思い出して引っ込めた。

「あー……」

 カイムは顔を正面に向けたまま、目だけを彼の方に向けていた。明らかに行動を待っている。

「とりあえず、食堂の方へ行きましょっか。席を取っていてくれるらしいし」

 少しの間を置いて、ほんのわずかに、カイムは首を縦に動かした。ヴァイスにとって応答が帰っ
てくるかは、ほとんど一か八かの感が強い。とんだ博打もあったものである。
 そうして、動きだした。機動六課のオフィスビルは縦にも横にも上下にも長いが、当たり前だが
レストランではないので、食堂は入り口を入って目の前にはない。少し歩く必要があった。
 そのため足を進め始めると、案の定廊下ではやはり何人かの同僚とすれ違う。
 カイムは無視か、良くて視線を向けるだけ。ヴァイスは挨拶をしながら、同僚たちの反応を楽し
んだ。彼を見つけると気さくに挨拶で返してくるが、それに伴った人間に気付くと、言葉に一瞬の
硬直が見られるのだ。中には口ぶりに淀みを出さない猛者もいるが、それでも視線からある程度の
動揺や当惑が読み取れた。これを見つけるのがなかなか面白いのだ。人間観察の趣味は無いんだが
と思ったが、楽しいものは楽しいので仕方がない。

「気にしないでやってください。驚いてるだけだと思うんで」

 カイムが気付いているかはわからないが、それでも一応フォローは入れておいた。後日会った同
僚たちに、人を驚かせないでくれと後で言われるのもちょっと困る。

「ん?」

 ふと前触れもなく、曲がり角の前でカイムが立ち止った。
 何かあるのか、と前方を見ても、あるのは壁ばかりである。すぐ横に続く廊下の向こうにも眼を
向けたが、特に変わったものはない。
 不思議に思っていると、カイムは身につけていた外套を外して見せた。

「あ、そうか」

 そうすると、ヴァイスには彼が何を考えているのが理解できた。思わず声に出していた。
 忘れていたことで、その時思い出したのであるが、カイムは、腰や懐にも大小さまざまな得物を
隠し持っていたのだ。腰に差した愛剣を外して見せ、鞘ごと目の前に掲げてこちらをうかがうのを
見ると、その推測は確信に変わった。
 ここは戦場でも訓練場でもない。建物内に入るのに、これでは問題があるのでは、と思いが至っ
たのだろう。エリオが真剣に見つめていた草原の竜騎槍や、もはや剣とは呼べない重量の鉄塊など
は、さすがにドラゴンが預かってはいた。しかしそれでも、オフィス内を歩くには確かに重装備す
ぎる。

「……問題ないんじゃないか?」

 ヴァイスにとっては、そういうことを気にするとは少々意外だった。普段使っていた丁寧な言葉
が思わずくだけてしまう。
 言ってしまってから「いや愛と平和の管理局的にそれはどうなのよ」と思ったけれど、それでい
いような気も確かにした。待機状態とはいえ新人たちもデバイスを持っている。魔法を使う媒体と
いう意味では(カイムがどうやって魔法を使うのかは、六課すべてにとって解けない謎であり続け
ているが)、デバイスと彼の得物は同じである。見た目がかなり物騒であるというだけだし、何よ
りそれを持つカイムは機動六課の協力者で、当たり前だが害意はない。
 カイムは返事を聞いてから、再び剣を背後に回して腰に差した。了解してくれたようである。外
套を羽織りなおし、開いた胸の前に布を重ねる。
 その様子を見ていて、先ほどまでの同僚たちの気持ちがちょっとだけわかった。詳しい数値は知
らないが、カイムはどう見ても180cmを超える長身だ。そのガタイが全身を布で覆って歩いて
くる、その迫力はいかがなものか。そう考えるとさっきまですれ違った仲間たちに、なんだか悪い
ことをしたような気持ちになった。たしかにちょっと怖いかもしれない。

「あ」

 そんな風に考えて少々浮足立っていたものだから、何かに気づいたようなその女性の声が、自分
たちに向けられていると気付くのには少しの時間を要した。
 聞き覚えのある声だ、と思いだすにはさらに間が必要であった。
 声の主が誰かに気がついてから、ようやくはっと目を向けた。同じくカイムもゆっくり振り返る。
来た廊下に、一人の女性が立っていた。
 金髪の美女、フェイト・T・ハラオウンが、困惑の表情でそこにいた。





 フェイトにとって思いもかけない遭遇が果たされていた。
 ヴァイスが表情から読み取ったように、彼女は大いに戸惑っていた。部隊長の執務室に向かう途
中だったその足は、今や完全に止まって動き出せずにいる。考え事をして目を伏せながらあるいて
いたらしく、ふと目を上げたその瞬間には、見覚えのある後ろ姿に驚いて、思わず声をあげてしま
っていた。
 カイムとは予告なしの、約十日振りの再会であった。振り返って目を向けられると、最後に彼の
姿を見たときのことが思い起こされる。
 はっきり言ってあの日、娘に手を出されたと信じたとき、カイムの評価は地におちていた。落ち
るどころか大地を突き抜けて、星の裏側まで貫通したと言ってもいい。二十年近く生きてきて初め
て、特定の個人をはっきり嫌いだと思った瞬間であった。
 しかしなだめようとしたティアナの証言や、立ち直ったキャロ本人の説明によって、自分はなん
とも間抜けな勘違いをしていたということが、時間はかかったが理解できた。
 同時に消えてしまいたくなった。
 新人たちは内緒にしてくれるらしいし、一番のネックだったキャロやエリオも、勘違いですから
と、気にしてないですよと言ってくれたのには心底救われた。あれのせいで白い目で見られるよう
にでもなっていたなら、もうこのさき生きていけなかっただろう。そんな気がする。
 しかしあの時、フェイトはカイムに謝り損ねていた。
 彼が先にどこかへ行ってしまったからなのだが、いずれにせよけじめをつけていないことに変わ
りはない。勘違いして大泣きに泣いて、ここだけの秘密だが鬼だの悪魔だの心の中で罵ったのは自
分なのだ。お詫びを言っておかねばなるまい。ヴァイスが隣にいるのが気になるが、ごめんなさい
の一言で全てを察するようなレアスキルを持ってはいないから問題ない。

「あの……」

 しかしなかなか、そのごめんなさいが出てこない。カイムは見つめてくるばかりで、ヴァイスも
訝しそうな視線を向けているのだが、どうしても思った言葉が出てこないのである。
 醜態をさらしたことを思い出し、恥ずかしく思ったということもある。しかし彼女はあの時この
男に対して、己の中に初めての感情を経験した。それが見事に尾を引いているらしく、彼女にして
は珍しいことに、妙な意地を張ってしまっていた。

「……そ、その……」

 感情といっても色気のあるそれでは断じてなく、端的に表現すると「大っ嫌い」という種のそれ
である。
 しかも今嫌いなのではなく例の事件の中でだけの、極めて限定的な感情のはずだったのだが、ど
うやらわずかに余燼が残っていたようだった。執務官試験の時から公私をきっちり分けるよう努力
しているフェイトであるが、残念ながら今回の件は完全に私用なのだから張り子の虎だ。何の役に
も立ちはしない。

「あっ、カイムさん」

 彼女らしくもなく、かたくなになってまごついている内に、フェイトが立つ曲がり角の向こうか
ら声がした。
 フェイトが何を言うのかと待っていたヴァイスとカイムの目が、フェイトから一瞬外れる。キャ
ロが来たのが声で分かった。ここにいたんですか、というエリオの声も、同じ向こう側から聞こえ
てくる。

「これ、どうぞ! 私が使ってる傷薬なんですけど、また何かあったら、と思って」
「おお? いいヤツだぞ、これ。どうしたんだ?」
「はじめてお給料が入ったので、それで買っちゃいました!」

 ヴァイスの問いかけに対して嬉しそうにキャロが答えた瞬間、ぴしり、とフェイトが硬直した。
 尋常ならぬ気配を察知してヴァイスが見て、そうして少し考えて、何かを悟ったような顔になる。

「あー……」

 やっちまったとばかりに、思わず天井を仰いだ。
 キャロの手をよく見ると、ピンクの包装が施された箱がある。恐らくはフェイトの分なのだろう。
 初任給でプレゼント。
 ある意味、子を持つ親の最大の夢のひとつである。

「……あ、フェイトさん!」

 ヴァイスの不可解な行動に首をかしげるエリオとキャロだったが、彼が一瞬向けた視線の先に、
何かがあるとエリオは悟った。
 そうして曲がり角の向こうに足を運んでみて、立っていた人物の正体にエリオは驚いた。その言
葉にはキャロもびっくりして、しかしちょうどよかったと言わんばかりに、とてとてと駆けていく。

「あの! フェイトさん、これっ!」
「はじめてお給料が出たので、キャロと二人で……フェイトさん?」

 エリオとキャロはヴァイスの予想通りの出来た子供であったらしく、きちんとフェイトへのプレ
ゼントを用意していたらしい。しかも包装から見るに、首都のかなりいい店のモノだと判断できた。
今それを持っているということは、昼食時に食堂で探して渡すつもりだったのだろう。
 事実子供たちはそのつもりであったし、ふたりは己の口でそのように言った。キャロもエリオも、
フェイトの様子の変化に気がついていなかった。
 時すでに遅し。彼女の頭の中にはもう、その言葉は届いていなかった。
 フェイトは踵をくるりと返した。
 かと思うと、早足でずんずかと歩き去っていく。
 あっという間の出来事である。そして歩く速さも尋常ではなかった。キャロたちが追いかける暇
も無い。呆然と見送り、はっと気がついた時には既に、フェイトの姿は廊下のどこにも見当たらな
かったのである。



 その日の機動六課、昼前のオフィス内で、怒りそうなのか泣きそうなのかよくわからない、珍し
い顔をしたフェイトが廊下を闊歩していたという噂が流れたそうだ。その真相を知る者は少ない。



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