ヴァイス・グランセニックは一度だけ、竜騎士カイムに煙草を勧めてみた事がある。
 勧めると言っても、僅かに興味が向くのを察して差し出してみただけであるが。自身もひっきり
なしに吸っているという訳ではなかったが、たまたまその時は口にくわえていたのだった。どうや
ら紫煙は彼の舌には馴染まなかったらしく、吸ったのは結局その一度きりであった。
 直ぐに口から離してしまったので、受け取り携帯用の小さな灰皿に押し込んだのだった。放って
おくと燃え尽きるまでそのままで居そうに思えたからだ。彼の傍にいた赤き竜から、妙なものを渡
してくれるなと苦言を呈されたのを覚えている。
 昼食に誘ったこともあった。
 とはいえやはり、手早く済ませようと買ってきたパンを分けてみただけのことだが。こちらの方
は割と好評のようで、少なくとも吐き出したり突っ返されることはなかった。
 繰り返すうちに反応を見てみたくなって、気がつけば辛いものから甘いものまで色々と持って行
ったものである。やはり応答には一定の虚脱感を伴っていたし、それと分かる仕草がないのは残念
だった。収穫は後輩・アルトから大物扱いされたことくらいのものか。
 新人たちの教練中、その姿を訓練スペースからやや距離を置いた高台から見守るのがヴァイスの
習慣である。すべてはその間に、同じ場所にいる彼にしたことだ。
 興味が無かったわけではないが、自発的な行動だったわけでもなかった。
 先日のホテルアグスタで行われた、オークション会場の警護任務。その映像を見たほとんど全て
の人間に当てはまることだが、少なからず圧倒され心が凍る思いをしたものである。
 ヴァイスの価値観もまた、その例には漏れなかった。「彼」には任務前などは何事もなければと
思っていたが、その願いが見事に斬って捨てられた形になった。姿を見れば言い知れぬ不安を呼び
起こされ、以前に輪をかけて近寄りがたい印象を抱くようになってしまっていた。
 それがいつからか、彼と接触を試みるようになった。
 契機はいくつかある。一つはシグナムの存在だ。一度どこかで剣をと思っていたシグナムには、
例の警護任務を終えてから心境の変化が訪れたらしい。以前は二人で話をすれば、すぐにでも彼と
模擬戦をとしきりに言っていた。それがぴたりと止まってしまったのだ。
 任務開始の直前に模擬戦の約束は取り付けたようだが、それを実行に移していいのか悩んでいる
し、純粋に彼の心境を案じてもいると聞いた。直接顔を合わせる機会に恵まれない自分に代わり、
様子を見ていてほしいとそれとなく頼まれたのだ。
 心配しているという一点についてはヴァイスも同じであったため、快く了承した。少しするとそ
れが部隊長の八神はやてにも届き、同じことを重ねて頼まれてもいる。彼からの反応が少なすぎる
ため、彼女たちに報せる内容はあまりに乏しいままであるが。それでも自分が気付いたちょっとし
たことを伝えてみると、ふんふんと興味ありげに頷いていた。少しずつかも知れないが様子を見て、
出来ることなら理解に努めよう、ということであろう。

「何かあったんですかい?」

 苛烈激烈なる教練に新人たちが食らいつく、いつもと変わらぬ午後。
 カイムは返事が出来ないと知れているので、視線は竜に向けたまま。しかし言葉はどちらにも向
けて問いかけてみた。何がだ、と竜が肉声を返した。

「いや。最近よくここに来るでしょう」

 以前であれば森にこもりきりで、滅多なことでは姿を見せなかったものが。
 言う通りどういう訳か、新人の教練や隊長格の模擬戦などを訪れることがよくあるのだ。
 そもそもヴァイスが先述のようなアクションを起こせたのは、ひとえにそれがあったからだ。隊
長格ほど多忙でないとはいえ、彼とて決して暇を持て余しているというわけでもない。時間が空け
ば新人たちの踏ん張りを見に来もするが。

『幼子に引っ張り出されるのよ』
「おさな……ああ」

 口に出してから少し考える。思いが至って頷くと、

『薬を用意したから傷を見せろ、と』
「心配してましたしね。で、その傷の具合は?」

 カイムは黙ったままで、右肘から先を曲げて外套から出した。ガーゼと包帯は取れていないもの
の、頻繁に薬を塗ったのが良かったのだろう。負傷から一週間以上が過ぎた今ではずいぶん治癒が
進み、もう皮膚からは赤みが消えていた。包帯を外すまでそれほど時間は必要でないだろう。

『悪くはない』

 事もなげにドラゴンは言ったがその実、声色には何とも言い表わせぬ調子があった。傷の治りが
良いのは喜ばしいことだが、傷の様子から己の身に起きた異変を探る、というカイムの意図は果た
せなかった。
 そうとは知らないながらも、竜の様子には若干の違和感を覚え、しかし考えても分かりはしない
か、とヴァイスはそう割り切ることにした。事実を聞くまで、カイムの年齢すら完全に身誤ってい
たことを思い出す。
 疲弊したとも取れる希薄な応答も、映像で見た横顔に浮かぶ笑みの邪悪さも。どれもが記憶に残
ってしまっていたためか、完全に外見で年齢を判断していた。四、五年は上だろうと思い込んでい
て、同い年だと知ったときはかなりの衝撃を受けたものだ。
 それに先だってキャロから聞かされた時は半信半疑であったのだが。なのはに尋ねてみて、事実
を告げられた時の自分はきっと大層な間抜け面だっただろうと彼は思った。

「……と。また預かってますよ」

 思い出して渡したのは、箱に入った軟膏だった。キャロからの預かりの品だ。訓練で無理だから
と頼まれたのだった。
 契機のふたつめ、それがキャロだ。
 任務が終わった翌日、いやその次の日であったと記憶している。その日のフォワードたちはみっ
ちりと教練が詰まっていて、自分もヘリの整備関係で忙しく動き回っていた時だ。
 だからキャロに会ったのは、彼女が隊舎に戻る途中のことだったのだろう。陽も傾いた頃になっ
て、逆にオフィス方向に向かっていたヴァイスは偶然、連れ立って歩く新人たちと路上にてすれ違
った。呼び止められた時はすわ愛の告白か、はっはっはまだ早い。とでも言って笑いを取ろうかと
思ったが、向けられた顔があまりに真剣な表情をしていたため思いとどまったのである。
 そして告げられたのが、カイムをよく見ておいてほしいという頼み。
 どことなく切迫した雰囲気をしていた。出てきた名前と頼みの内容に驚いた自分に向けた、切実
な視線が何とも忘れられない。結局二つ返事をしてしまってから、後になってティアナに事情を聞
いてみたものだ。
 そうしてヴァイスなりに分析した結果は、カイムが心配だという、それだけのこと。
 ただ、それだけのことなのだろう。
 いかなるしがらみにも縛られず、ただ純粋に思いやることができる関係は、ヴァイスにとっては
少々羨ましくあったけれども。

「またか」

 とドラゴンは如何にも胡散臭そうに言ったが、言葉の中にはいくらかの謝意が籠っているように
も感じられた。
 受け取ったカイムの横顔は相も変わらぬ無表情であったが、その目は訓練の様子を映し出すモニ
ターを、つぶさに追いかけているようだった。
 森に隠れ、殻に籠るのを止めた。
 僅かな時間ながらこの者たちを見ていたヴァイスは今、現状をそのように捉えてもよいのだろう
かと思い始めていた。
 そして彼らを知る、他の機動六課の魔導師たちも。





 先述のとおり、カイムが己の炎で腕を焼いてから――ホテルアグスタでの警護任務が終わってか
ら、一週間を超える時間が経過している。
 その間、今までガジェットの出現報告は無く、機動六課に舞い込む仕事はどれも事務的なものや、
隊長・副隊長格一人が出張れば済む簡単なものに終始していた。
 前者について戦闘員は門外漢、という訳ではないが、そちらにはより処理に長けた人員が居る。
後者は教導に参加しないシグナムやフェイトが対応にあたっていた。つまり新人たちと、教練に携
わるなのは、ヴィータはほぼフリーであり、連日みっちりと訓練に明け暮れることができた。
 正直に言えば、なのはにとってはありがたかった。アグスタでの任務を経た今、敵の新たなデー
タは山のように発生している。ガジェット・ドローンについては目新しい情報は得られなかったが
しかし、空中でライトニング分隊と交戦したガーゴイル、スターズ分隊と文字通り剣を交えたシャ
ドウ、これらについては既存のデータが皆無であった。今後も出現する可能性を考慮にて、教練の
メニューを急ピッチで組み立て直さなければならない。
 その対策を講じる際、「敵」と同郷の者であるドラゴンの知恵は、なのはをずいぶんと助けてく
れた。ガーゴイルは特別な障壁をもたず密集して出現する傾向にあり、なのはの砲撃やフリードリ
ヒの拡散するブレスといった範囲攻撃が効く。シャドウの障壁は対魔法・対衝撃が切り替わるので、
こちらもそれに合わせて戦術を変更する必要がある。
 いずれも戦闘で得られたデータのみから推測はできていたが、事実確認をはじめとする細部の詰
めにはやはり竜の言葉が助けとなった。もともと彼ら自身の世界に居た敵であったため、対処法や
行動パターンについては嫌と言うほど熟知している。
 おかげで訓練スペースでの任務シミュレーションに、それら異形の敵が撃破対象として加わるの
にさほど時間はかからなかった。これになのは独自の考察を加えて、新人フォワードの訓練には小
さくない変化がもたらされ、内容としては実に密なものとなっていた。

「訓練に参加してみませんか?」

 ほぼ火傷が完治したカイムに向かって、なのははその日、そう提案した。
 ある昼下がり。新人たちがささやかな休憩時間を楽しんでいる時間帯、なのはは訓練スペースを
臨む高台に足を運んでいた。ヴァイスはいつものようにその場で昼食をとっており、カイムも彼に
渡されたパンをかじっているところだった。
 ドラゴンが長い首をもたげ、カイムは顔色一つ変えず目を向けた。ヴァイスは口を出さず、興味
深そうに成り行きを見守るばかりだ。交信ができないカイムに代わってドラゴンが口を開く。

「剣は間に合っているが」

 ミッドの魔法を講習するものと聞こえたようだ。あるいは教導を受けるのにデバイスが必要と思
われていたのかもしれない。あながち間違いという訳ではなく、実際に訓練中の行動などの記録は
新人たち個人のデバイスに書き込まれている。

「いえ。実は、シミュレータに入れたデータのチェックをお願いしたかったんです。それを兼ねて」
「?」

 ドラゴンは首をかしげた。機械系統の単語にはあまり馴染みが無いらしい。

「『敵』の強さの設定、ってことでしょう?」

 と、傍観していたヴァイスが繋いでくれたのに頷いて、

「ちょうどいいか、見てもらいたくて」
「あの幻のことか。幼子どもが毎日せっせと追い回している」
「はい。シャドウの腕力とか、ガーゴイルの飛行速度とか。四人とも、戦術が固まってきましたし」

 ドラゴンから口頭で伝えてもらった情報もかなり有用なものではあったし、先の任務で得た情報
にそれらを加えただけでも、ある程度のシュミレートを行うことはできた。
 ただ、戦法そのものを練っている間はこれで十分だったのだが、実際にそれを運用するとなると
シミュレーションそれ自体についても細かな調整が必要だ。幾度となく斬り結んだ相手であるのな
ら、やはり一度戦闘を行って感触を確かめてもらいたい、となのはは思っていた。

「手の内が見たいか?」
「そっ、そういう意図も無いわけじゃないんですけどっ」

 ドラゴンが浅く笑い、なのはは慌てて説明した。そういった目的も確かにあったし、現に部隊長
のはやてはしきりに気にしている様子もあった。組織に関わる以上、どうしても明らかにしなけれ
ばならない部分はある。だがしかし、相手より優位に立とうなどといった打算めいた思惑が働いた
訳ではない。
 新人たちの、ひいては自分たち隊長格の面々にとって、いい刺激になるかもしれないと考えてい
たのだ。フォワードの皆を含め、部隊内の魔導師はそれぞれ自分の戦闘スタイルを身につけている
が、ひょっとしたらカイムたちの立ち回りをヒントに新たな戦術を思いついたり、咄嗟の事態に思
わぬ閃きが得られるかも知れない。
 教練に参加してもらうことで、戦闘時の連携を取りやすくしたいという考えもある。ドラゴンに
ついては明らかに空戦向きであり、かつ身体のサイズの点から考えて、フリードリヒ以外と連携が
取りにくいことがわかっているのでさておき。多彩な剣技を持ち、射程の長い魔法をも操るカイム
は、魔導師のポジションで言うなら前・中衛にあたる。そうなのはは分析していた。
 デバイス間の補助や強化ができないため、残念ながらキャロとは相性が良くないが、要するに中
衛のティアナとも、前衛のスバルやエリオとも動きを合わせやすいはずなのだ。新人たち四人の間
でも、スバルとティアナ、キャロとエリオのペアの間でも戦い方が定まりつつあるが、こちらにも
もっと幅を持たせられるかも知れなかった。
 そして何より、これは口には出さなかったが、人と接することが、カイム自身のためになるとも
思っていた。
 成長してから出会った次元犯罪者をはじめとする悪意ある人間たちは、皆それぞれが事情を持っ
ていた。悪意を通り越した邪悪な者たちですら、感情や思想を持ち合わせていた。それを伝えるの
が結局のところ、「行動」であり「言葉」であることに間違いはない。
 真っ直ぐ真剣に言葉を交わせば、人間どうしはきっと理解できるものだと、なのはは幼い頃から
信じてきた。話す口を持たないカイムだが、心は荒んでこそいてもあくまで人間のものだ。多くの
人と交わることで、傷ついた心を癒すものを、その中に見出すことができるかもしれない。なのは
はそう考えていた。

「時は」

 ドラゴンは一度、カイムの方に視線だけを向けてから問うた。彼が了解したのだろうとなのはは
判断した。

「明日の午前中はフォワードの皆がお休みなので、その時間で。ちょっと急ですけど」
「そうか」
「はい」
「……よいのか?」
「はい?」

 咄嗟に妙な返事が出て、なのはは言ってしまってからあたふたと動揺した。ドラゴンはじっと見
つめるばかりである。聞き返されるとは思っていなかった。言うことは全部言っているし、これ以
上話すべきことはない、はずだけど。

「もしかして、傷がまだ」
「剣を振るうのに障りはない」
「あ……なら、その、えと……」
「幻を見て血に逸るほど壊れ果ててはおらぬよ。なあ」

 切り出せなかった言葉の先を読まれ、触れるべきでない話題になってしまったことでなのはは言
葉に窮した。しかしそれはあくまで、ドラゴンなりの軽口であったのだろう。聞いたカイムも理解
しているらしく、内容の割にその表情は変わらない。やりにくい、となのはは思った。彼らを相手
にしているとやはり対応に、返答に困ることが多い。
 なのはは知らぬことであるが、ドラゴンには懸念があった。カイムが拒絶され、排斥されるので
はないかという疑念である。カイムが己の中に内包する、危ういまでの激情を白日の下にさらした
今、彼が戦いの場から、魔導師たちから遠ざけられるのではないかという考えがあった。実際カイ
ムが持つ「敵」の情報は竜と共有するところであるし、戦闘力の面から言ってもドラゴンさえいれ
ば問題はさほどない。
 なのはを疑う訳ではない。そもそも人間とはそのような性質を持ち合わせた生き物であるのだと、
ドラゴンはそう思っていたのだ。しかし今目の前で、必死に次の言葉を考えているなのはを見てい
ると、あくまでそれは今まで見てきた人間に限った話であるように思えてきた。一万年の時間が培
った人間に対する予断が、己の内側に深く根を張っていたことを知り、ドラゴンはひとつ鼻息を吐
き出した。





 訓練スペースに戻ったスバルがカイムに出会ったのは、そういう経緯があったからだ。なのはが
翌日の段取りを説明しているところにばったりと出くわしてしまった。その時にはヴァイスは用事
ができて場を離れており、他にはカイムの言葉を預かるドラゴンが居るだけである。
 この少女、体のサイズの割に大食らいなのだが、食の進みも恐ろしく早い。あくまで食について
は一般人のティアナ、年齢故に食事の量が少ないキャロとほぼ同時に食べ終えるのがいつものペー
スだ。エリオもかなりの健啖家だが、量の面ではさすがに及ばない。
 加えてどちらかというと、生来社交的ではない彼女だ。食事の後も新人仲間たちとテーブルを囲
んだまま談笑を楽しむこともあるが、休憩時間が終わる前に訓練場へ足を運び、腹ごなしに軽く体
を動かすこともあった。時たまティアナも付き合い、キャロやエリオがついてくることもあるには
あったが、基本的に「あれだけ食った後にこうまで動かれるとこっちのお腹まで痛くなってくる」
というのが仲間たちに共通した意見だった。

「……」
「あっ、その、こ、んにちは」

 今日も晴れ渡った空の下、振り向いたカイムにしどろもどろになってしまった。傷はほとんど治
ったとキャロから聞いているが、この場にいるというのは正直予想外だ。
 繰り返すが性根は内向的な少女である。最近は多少マシになってきているが、幼い間はずっと内
気で通っていた。加えてアグスタでの任務の日からこの方、来る日も来る日も訓練に明け暮れてお
り、まともに接する機会がなかったというのも大きい。
 加えて言えば前回の任務で見た姿が目に焼き付いていて、はっきり言うとかなり怖い。

「その……き、傷、って、もう大丈夫なんですか?」
「……」

 スバルはちょっと泣きそうになった。

「明日の午前中、バーチャルシステムの調整を手伝ってくれることになったんだ。実戦形式で」

 なのはから自然と助け舟が出たのは、その辺りの理解があったためである。

「……あっ、ちょ、ちょっと待っててくださいっ」

 するとスバルははっとした顔になって、急に訓練場の外へと駆けて行った。何事かと一同が見つ
めていると、巨大な鉄の塊を手にして戻ってくる。

「その、これ、ずっと返せてなくて……あ、あのとき勝手に使っちゃってて、すみませんでした」

 重たそうに担いできたのは鉄塊の一振りであった。任務では地面に隕石のように投げつけた巨剣
だ。あれから渡しそびれて、そのままになっていたものだ。任務の翌日にカイムが寮を訪れた時も、
フェイトが乱入して以降は何もかもが中途半端になってしまって返せず、結局今まで預かっていた。
 森へ行って返却してしまえばそれまでだったのだが、どうしても実行に移す勇気が湧かなかった。
最近はトレーニングがてら、いつも訓練場まで持って走るのが日課だったのはヒミツだ。
 何を謝ることがあるとドラゴンが言うのに続いて、カイムが柄から受け取る。
 片手で掲げて刃を確かめるのを見て、スバルは舌を巻く思いだった。魔力を使用しているような
気配がない。自分も魔力で肉体を強化すれば振り回すことはできるが、素の状態では持ち運ぶのが
やっとだ。任務の時にも実感したが、竜との「契約」は彼に想像以上の力を与えているらしい。

「鉄で思い出したが、鎧の残骸はどうなったのだ?」

 その様子を見ていて、ふと気がついたように、ドラゴンがなのはに問いかけた。シャドウのこと
だ、と直ぐに察する。

「ホテル前で回収したものは、サンプルとして保管してありますけど……」
「分かることはあったか」
「いえ。何度分析しても、ただの金属としか。シャーリーがデスクで嘆いてました」
「だろうな。あれはただの媒体に過ぎぬ」

 出会って日が浅いとはいえ、任務の前はそれなりに言葉を交わしていた一人と一頭である。何だ
かんだと言いつつも、言葉の調子はある程度の軽やかさがあった。

「……あ」

 となると当然、スバルは隣のカイムとともに置いて行かれることになる。

「その、えと……よく片手で持てますねっ。わたしなんかその、両手で持つのがやっとでっ」

 あまり経験のないスバルはあたりさわりのない話題を振ることくらいしかできなかった。当然の
ように相手からの応答はない。
 僅かにスバルの方向へ目と首が動くあたり、全く無視されているわけではないらしいが同じこと
だ。何とも言えない微妙な空気が周囲を包んだ。感じているのがスバルだけな辺りたちが悪い。
 これではいけないとスバルは思った。
 戦争など、博物館や教科書のレベルでしか知らないけれど、その爪痕が人間の心をいかに苛むか
は想像に難くない。
 剣を振るうときはどんなに怖くても、キャロの言葉によれば、また彼女のなつき具合を考えるに、
根は悪い人ではないはずなのだ。
 家族の存在が傷ついた心をどれほど癒してくれるかは、母が死んだあのとき身をもって知った。
自分は彼の家族ではないけれど、共に戦う仲間ではあるのだ。頑張って話しかけなければ。

「えとあのだからそのですねっ、うー、うー……あうぅ……」

 意気込みだけが空回りするばかりだった。いつからか横で見ていたなのはが、微笑ましげに唇を
緩めた。
 だが、次の瞬間であった。ドラゴンの言葉が割り入ったのは。

「言伝てだ」
「え」

 最初は何を意味するのかわからなかった。
 そのような言葉をかけられることは、きっとこの先もないのだろうと合点していたからだ。

「あれからこの剣を握る機会はあったか、と。そう聞いておる」
「聞いて……えっ?」

 まだ現状を整理できていないスバルの視界、その隅からこつこつと硬い音が聞こえた。
 まさかと思って見ると、カイムが目を向けていた。視線をスバルに真っ直ぐ投げて、片手に持っ
た鉄塊の腹を、もう一度爪の先でとんとんと叩いた。
 普段はどこか茫洋とした、どろりと深い沼のような瞳の色彩。いつも僅かに焦点を外しているそ
れが、今は何故か合っている。意識を向けられている感覚が在った。微かな意志の光が在った。
 話しかけてリアクションをもらうならともかく、逆に違う話題を振られるなどとは想像だにして
いなかった。なのはでさえ驚きの表情を浮かべているのが、目で見ずとも息を飲む音からわかる。
 いまだ混乱から覚めきらぬまま、問いかけの意図さえつかめぬまま、スバルはふるふると首を横
に振った。それを見たカイムは視線を外した。眼光は既に立ち消えていた。彼から受動的な返答で
はない、自発による意思を伝えられたのは、スバルが記憶している限りではこれが初めてだ。いつ
の間にやらからりと乾いていた喉に、一つ空気を吸い込んでから声を発する。

「あっ、あの! あの!」
「我に聞くな」
「あ……カイムさんそのっ! いい今のって! 今のって!」
「……」

 聞き直したが答えはない。当たり前だったと気付いて竜を見るも、長い首は横に動くばかりだ。
 どうしても真意が知りたくなって、その後も粘り強く問いかけてみたけれど、反応という反応は
ついぞ得ることができなかった。いつの間にか呆気に取られていたなのはも加わって、何だ何だの
大合唱。だが男の視線が動くばかりで、竜の口は閉じたまま開かない。

「たまに口を利けばこれだ」

 竜はようやく口を開き、ずらりと並んだ牙を見せた。

「たっ……たまにしか話さないからこうなるんですっ!」

 言い返すなのはの主張はもっともであった。く、か、か、と竜が笑った。
 何のことはない。
 剣を使うことはすなわち鍛練か、戦闘か。何れにせよ普段は限りなく薄い意識が、こと戦闘行為、
あるいはそれに関わる事柄にあってのみ実像を結んだというだけの話だ。
 初めてそういった意識を魔導師たちに向けたのは、「共に戦うもの」という認識が生じたことに
由来する。旅の連れであった契約者たち――中でも比較的真っ当な精神を保っていた、レオナール
とセエレに向けたのと同じ種の意識、それ以上でも以下でもない。竜は己の思考をもって、その事
実を明確に結論づけていた。竜が目の前の娘たちにそのように言わないのは、わざわざ気落ちさせ
ることもあるまいと気を回したからに過ぎない。

「あ。それでね、スバル。後で皆に話すけど、今後訓練で一緒になるかもしれないから」
「へ? あ、はいっ。キャロ、喜びますよっ」

 ただカイムは、問いを投げ掛けた真意だけは、思念で述べることさえもしなかった。
 その点だけはドラゴンでさえ図りかねる思考であり、ある種の不可解さがあったのだけれども。



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