傷の治りを試す、とカイムは『声』で言った。
 何故凍傷が忽然と消え、焼かれた痕のみが残っているのか、手掛かりを探したいと告げていた。
 それ故カイムは、キャロが届けた薬に全く手を付けていなかった。無理矢理返してしまったが、
気付かれてはいないだろうとドラゴンは思っている。心配そうにしていたものの、治療それ自体を
していることは信じきっているように見えた。事実を知った時の反応が予想できているだけあり、
このまま隠し通せればそれに越したことはない。
 だが朝が過ぎ昼が去り夕が行き、辺りに黄昏が滲み出してからも腕に異変は見られなかった。
 他者の魔導と己のそれでは肉体に与えるものが異なるのか。はたまた受け止める肉体そのものの
問題なのか……恐らく後者だと竜は考えている。彼の親友の剣が放った氷雪は少なくとも、全身を
凍てつかせるだけの威力を秘めていた。
 それだけの大魔法の痕跡が、これ程の短期間で消え失せる筈はない。かねてから保持していた魔
法への高い抵抗力の他に、己のものでない魔力、それに付随する事象を退ける何かが、彼の身に起
こっているのだろう。
 そのカイムは竜に寄り添い、先程から眠りに就いている。
 昨日逆上から森を焼いたはいいが、彼はあまり広域に炎を放った経験がない。体に慣れない魔法
の行使はさしものカイムとて一定の負荷がかかったらしく、朝キャロが来た時以外の、全ての時間
を休息にあてていた。精神の磨耗に肉体の疲労が重なっていたのか。覚醒していた時に受信した思
念からは混濁の色が薄れていたがしかし、霧がかかったように希薄なそれであった。
 しかし彼の閉ざされた口の中で生まれる恐怖を孕んだ喘ぎを、竜は確りと聞き取っていた。
 本人に確かめれば否定するかもしれない。しかし男の身に起きた不可思議な変化は、確実に彼の
心に一筋の暗い影を落としていた。如何なる敵を前にしても絶望こそすれ、毛ほどの恐れをも抱か
なかった戦鬼が、己の中に巣食う型の無い何者かに慄いていた。今、目の前で静かに寝息を立てて
いるこの男は、それを自覚しているのだろうか。

 ――何れにせよ、儘ならぬものだ。人間の心とは。

 ふたつ続けて、男を起こさぬ程度に深い息をした。
 狂戦士、巨人、そして飛竜や歯の生えた鬼子……次々と迫り来る敵はついにカイムの生命こそ奪
えなかったが、人間が当たり前に持つ脆い部分を、彼から根こそぎ奪い取ってしまったのだろう。
 鍛え上げた混じり物の無い鋼ほど、折れやすいものもないというのに。苦痛は訴えればいい。恐
ろしいなら寄り添えば良いものを――かつて人智を超えた敵を前に、恐れ戦いた己のように。
 赤い空の下で戦ったあの時よりかは、彼の精神が安定しているのは確かだ。
 己が常に傍らにいたという事実が、そこに与えた影響も小さくは無かろう。ドラゴンはそう自負
していたし、それは彼女にとって、ある種喜びでもあった。
 しかし結局のところ、自分はやはり、どう足掻こうと人間ではないのだ。人の本質を理解してい
ても、人間と同じように彼に接してやることはできない。竜として、人として認め合う彼らにとっ
て、それは禁忌でもあるのだから。
 己だけでは、この者の心に安寧はくれてやれぬ。他の何者かが、人間が必要だ。竜はそう悟って
いた。そうして思い浮かぶのは、あの魔導師たちの顔。
 だが果たして、混沌の世界を知らぬあの者たちに、カイムが心を開くことはあるのか?
 と、その時であった。
 ドラゴンが気付いて、空に向けて首をもたげる。傍らのカイムも察知したのか、眠りから覚めて
半覚醒の状態にある。
 仄暗い黄金色の上空から、何かが近づいてくる。
 恐るべき速さで。
 竜は首を傾げた。これ程の速度、己の翼にも迫るほどの勢いがあるにも関わらず、害悪を為さん
とする気配がまるで感じられない。
 何よりこれが敵なら、追う魔導師たちが居ないのはおかしい。
 と、そこまで考えて、竜はその答えの全てを悟った。気配の持ち主から放たれた思念の波が、今
ドラゴンの目の前に居る男の名を、叫ぶように呼んだのだ。
 声の感触から該当する者を割り出して、ドラゴンはしゅう、と溜め息を吐いた。

(本当に、幼い割に聡い娘だ)

 果たして竜が思った通りフリードリヒの背に乗ってきたキャロは、しかし予想に反して妙に目が
据わっていた。
 翼を解放されたフリードリヒの、荒く息を吐き出す首を撫でている。しかしそれもそこそこに、
白竜に再び封印を施すと、ドラゴンとカイムを正面に見つめる。
 右手に例の銀色の薬入れを持ち、左にバリアジャケットの裾を握りしめ、真っ直ぐに歩いてきた。

「これ」

 珍しく憮然としたような、それでいて悲しそうな声で言い、手にあるケースの蓋を開けるのだ。

「見てください」
「どうした」
「全然、減ってません」
「ああ」

 御座なりに返事をする竜はそれで、少女がどうして現状に気付いたのか理解した。
 わざと中身を減らしておくというような、そういった小細工を施してはいなかった。本来それを
するべきカイムは……どうせ忘れていたのであろう。対人関係に策を弄する男でないのは分かって
いた。或いは単に忘れていたのかもしれないが。何れにせよ、そういったことに気を回さないこと
は確かだ。

「……どうしてですか」

 と、ドラゴンではなくカイムを見て言う。
 普段の少女らしくもなく、というより彼女から初めて向けられる、射抜くような視線。男の気配
が僅かに揺れるのが、竜の脳の裡を過った。

「『必要』だ、と。傷について確かめたい事があったそうだ」

 ドラゴンが代弁して言うや否や。
 キャロはさっと蒼白になって、カイムの包帯の巻かれた腕の、衣の裾を小さな手に握りしめた。
 ばさっと肩に向けて捲り、慌てながら白い包帯を巻き取っていく。一連の作業に対してカイムは
抵抗を示さなかった。示すことができなかったという方が正しいか。
 やがて現れた、火傷を負った赤い皮膚の存在に、はっきりそれと分かる安堵の息を吐く。

「…………い」

 そうして、呟くように言うのである。
 あまりに小さい声だった故に聞き取れず、竜と男が動けないままでいると、

「来てくださいっ」

と俯いたまま言ってカイムの、怪我を免れた手のひらを握って引っ張り、元来た道を逆方向に歩き
はじめた。
 相手が相手であり、しかも彼女らしからぬ強引さがある。何より目が据わっている。
 それが伝わってきただけに振り払うことも抵抗することもせず、カイムは引かれるままに後を歩
きはじめた。さすがに空気を読んだといったところか、困惑故に動けなかったという点もあるのか。
 取り残されたドラゴンが言う。

「……頑な娘だな。存外にも」
「きゅる?」

 フリードリヒの返答はやや間の抜けたものだった。





 ――あの場所からカイムの手を引いて歩き、森を抜け隊舎前に到着する頃には、黄昏を飲み込み
闇が辺りに滲み出ていた。
 そのまま彼を強引に連れて、屋上へと続く階段を上る。途中でエリオがぎょっとした表情でキャ
ロとキャロに連れられるカイムを見ていた。しかし何もアクションを見せなかったところからする
と、なす術なしというのが彼の気持ちだったのだろう。キャロは気づいていなかったがカイムはそ
れを見ていて、しかし何もできなかった。
 手が眼下に森も海も見渡せて、フリードリヒを遊ばせてやれる屋上は、隊舎内でキャロが好きな
場所だった。ベンチもあって寛げるうえ、何より時折吹く風が心地よい。
 置き去りにした赤き竜はやはりキャロたちに追い付き追い越して、空気を読んだのか近寄り難い
のかやや距離を置いている。対してフリードリヒはキャロの肩の上だ。こちらは離れる気はないらしい。
 どういう訳かカイムは素直に従って移動していたが、その真意はキャロの知るところではない。
 彼の考えがどうこう、というのがキャロの頭になかった……といった方が正しいかもしれない。
 彼女にとって傷とは治すもの以外の何物でもないのだ。
 鳥獣使役の訓練の際、膿んだ傷口は何度も見てきた。その悲惨さは熟知している。

「上着、脱いでください」

 カイムをベンチに座らせて、自分は例の軟膏の入ったケースを開けながら言い放つ。
 極僅かではあるものの、たじろぐような気配がした。内容についてでなく、少女らしからぬ態度
そのものに対してなのだが、そんなことは今のキャロには知ったこっちゃない。

「早くしてください!」

 早く治療しなければ、という焦燥に駆られて言う。応じて、ようやく彼は己の衣服に手をかけた。
 いつも身に纏っている外套の紐の結び目を解き、上着に手をのばす。
 赤い空を共に駆けた鋼の胸当てが無いため割合と簡単だが、銀の帷子などは常に着込んでいるた
め少々時間がかかる。その間にキャロはカイムの傍らに巻いた包帯を、持参していたガーゼを置き、
右の指に半透明の膏薬をすくい取る。
 果たして目の前に現れた上半身、その肌は、やはり表面に幾つかの傷跡をに走らせていた。
 腕の火傷の下だけでも、明らかに切ったそれとわかる痕が見える範囲に三つはある。うち大きめ
の二つには、左右に色違いの肌が点を打っている……縫った痕だ。引き締まった筋肉の鎧の上には
他にも、かつて皮が削げていたであろう部分や矢が貫通した痕跡がそこここにあった。
 しかしキャロは眉ひとつ動かさず、声すら上げずに彼の手を取った。
 そこに、離れて立つドラゴンの肉声が届く。

「驚かぬのだな」

 驚きませんとも。
 傷なんて自分も訓練中に作ったことはあるし、故郷を追い出され旅をする中で幾度となく付けた。
 血まみれの動物だって何度も見たことがある。
 だから今さら傷だらけの人間の体を見たところで、何ら驚いたり怖がったりすることはなかった。
戦う内に傷が出来るのは至極当然のことだし、ドラゴンと心臓を交換したという過去もある。激し
い戦闘の中に身を置いていたことも聞いていた。
 何もかも、以前からもう察しがついていたことだ。そんなことくらいで叫ばないし泣かない。

「怯えるかと思ったが」
「古傷くらいで驚きません。安っぽいドラマや映画じゃないんですから」

 言うようになったな。
 という竜の科白を聞きながら、キャロは薬を取った指を、まずは彼の左腕に近付けて告げる。

「沁みます」

 腕の表面に大きく乗せ、後から薄く塗り拡げていった。
 言った通りやはり少々沁みたらしく、指が肌に触れた瞬間はぴくりと動く。しかしその後は大人
しくされるがままで、両腕を少女の手に委ねていた。
 赤き竜は言葉には出さず、心の中にわずかな驚きを持ってその光景を見詰めた。
 ドラゴン自身は例外として、容易く他者に身を委ねるような男ではなかったはずだ。
 竜とて契約を交わした直後は、カイムは内心に絶対の壁を打ち立て拒絶の意志を隠さなかった。
ドラゴンに打ち解け信を交えるようになった後でも、彼のそのような人間としての性質はさして変
わっているとは思えない。
 相手が幼い少女とはいえ出会って間もない相手に、されるがまま治療を任せるような男であった
だろうか。この少女の健気さに、彼の心を揺り動かす何かがあったのか。それとも、

(お主、それほどにまで弱っているのか……?)

 つらつらと答えの出ぬ問いを竜が心の中で繰り返している間にも、治療は着々として進んでいる。
 左腕にはもう既にまんべんなく薬が塗布されており、キャロが手に取っている右の腕も残る部分
は僅かしかなかった。
 その地肌にも細い指が薬を擦りこんで広げ、終わると少女は傍らにあったガーゼを、薬の付いて
いない左手で持ち上げた。幾つかを用いてかなり広めの患部の全てにあてがい、上から包帯を巻い
ていく。
 それまでの間、つまりは治療行為が続いている時間、彼らは全くの無言であった。
 キャロは治療に集中していて、カイムはその様を、やや虚ろないつもの目で見つめていて。

「ふう」

 と、包帯を巻き終えたキャロは一つ深い息を吐いた。
 これでようやく安心、きちんと処置は行った。あとは経過を見てシャマル先生の診療を受ければ
大丈夫だと思う。自分の気持ちも少し落ち着いたような気がする。
 落ち着くと初めて、周りがよく見えてきた。
 薬入れから全く中身が減っていないと分かった瞬間、弾かれたようにフリードリヒの背に乗って
から、もう結構時間が経っているらしいと暗がりの空を見て知る。今の治療にもある程度の手間が
かかった。
 時計を見るともう夕方というより夜だ。太陽は既に沈んでいて、深い藍色の闇が天空の果てまで
続いていた。時たまこの場所を訪れるとき、髪を優しく揺らす風も今はない。温度を失いはじめた
空気が、ただ静かにたゆたっているばかりであった。

「……あ」

 そうまで考えて漸く、キャロは平静の己を思い出し、今までの行いを省みて不意に声を出した。
 あまつさえ手に手を取ってずんずかと森を行進し、今まで一度も使ったことのない激しい語気で
彼に言葉をかけ指示を出し――普通の人のレベルから言えばまだ可愛らしいものだが、彼女にとっ
ては十分「荒々しい」の範囲だった――無理矢理と言っていい強引さで接してしまった事実。
 傷の放置を知って居ても立ってもいられなかったとはいえ、普段からして控え目な少女にとって
あまりにもあまりだ。
 別に悪いことをしてしまった訳ではないのだし、心配からきた振る舞いなのだから恥でも何でも
ないと言える。だが少女はそうは受け取れなかった。焦りに焦っていた先ほどまでとは異なる理由
から、顔を青くしたり赤くしたりの変化をさせて、

「ご……ごめんなさい、そ、その……」

と、虫けらのような声で言って俯く。今にも消え入りそうな声とは巧く喩えたもので、鋭敏な竜と
竜騎士の聴覚を持ってやっと聞こえる程度のか細い肉声であった。
 そうしてその後はもう、キャロは声を出すことすらままならなかった。当然の事であるがカイム
は口を利けない。赤白二頭のドラゴンも口を開くことはなく、キャロは気まずい沈黙の中を耐える
ことになった。
 キャロにとっては辛い。
 何が辛いって、カイムとドラゴンの視線が真っ直ぐ自分に集中しているのがわかるのだ。どう思
われているのだろうと考えると後ろ向きな考えしか浮かばない。
 加えてこの完全なる静謐。無音の空間。キャロにとっては正に、永遠にも思える時間であった。
今すぐにでも逃げ出してしまいたい気分だった。
 もう一度謝って、逃げてしまおうか――
 と考えた、その時だった。
 キャロの脳裡に、ひどく乱れた音声が流れた。
 キャロは小さなそれをはじめ、正しく空気を伝わったものだと思った。繰り返すようだが場所は
屋上、閉鎖された空間ではない。何か音があっても不思議ではなかった。
 しかし、そうでないと気付くまでは早かった。今この場には二頭の竜と一人の男、そして自分の
他に何者も居らず、誰も彼も身じろぎひとつしていないのだ。しかも屋上には、今は風ひとつなか
った。音など生まれるはずはない。
 そんなことを考えている間にも、頭の中の雑音は様々に変化をしていた。
 テレビの砂嵐の不快音、雑踏にいるような混雑した音――今までキャロが経験したどれとも違う
その奥に、高低の幅がある何かが在る。まるで何かを隠しているようだとキャロは感じた。そして
それは正しかった。
 視線を上に戻して、彼女は知る。
 俯いて目を閉じたカイムの姿に、全てを悟った。
 雑音の主は彼だった。

「無駄だ」

 目を見開き、半ば呆然とするキャロの後方から、しわがれた竜の声が届いた。
 相変わらずの、よく通る声だった。

「お主が我に捧げたのは、肉声のみではない……」

 言葉の後に続いた間には、如何ばかりの思いが込められているのか。
 引き続いて、告げる。竜以外に対して直接意思を伝える、全ての通信手段であると。声帯を震わ
せるそれだけではない。精神そのものに語りかける思念も、その例外には漏れていない。
 そうか。
 ドラゴンは今ようやく、一つの謎が解けた気がした。積年の……とまで行かずとも、長い間竜の
心の中にわだかまっていた疑問である。
 何故にこの男は、契約の代償に「声」を失ったのか。
 その者の最も大切なものを奪われる「契約」において、声という代償は軽すぎるのだ。かつての
旅の仲間の契約の代償――世界を写し愛するものを愛でる「視力」、歪んだ心を育てる「時間」、
失った子を再び成す「子宮」といったものと比べれば。
 イウヴァルトの失った「歌」もカイムの「声」と似たようなものだが、あれには一応それとわか
る理由がある。許嫁であるフリアエの向ける愛と絆、卓越した剣の技能、魔術の扱い。親友カイム
に対してあらゆる面でコンプレックスを抱いていた彼にとって唯一、歌のみがこの男に勝る一点で
あったのだろう。
 この件について、カイムの見解は得られていない。しかしそれが真相なのだろうと、赤き竜は想
像し決着させていた。それゆえカイムにも何らかの、「声」を喪失するに値する何らかの理由があ
るはずだ。竜はそれを疑問として、ずっと胸に抱いてきたのだ。その謎に今漸く、ひとつの結論
が導かれた。
 カイムはひとりぼっちだった。
 愛する両親を唐突に奪われ、守るべき国を亡ぼされた。たったひとり残された大切な妹でさえ、
程無くして「女神の責務」を全うすべく連れ去られてしまった。
 奪われ続けたその果てに、彼の前にはもう誰もいなかった。何もかもが手のひらから零れ落ち、
やがて訪れた理不尽な孤独の中で、どれほど深い絶望が彼の心を苛んだのだろう。
 事実竜と出会った時、彼は既に精神に致命的な欠陥を来していた。復讐の名の下に血を啜り肉を
浴び続けた結果、殺人が好きで好きで仕方のない文字通りの狂戦士に成り果てていた。心の奥底に
巣食う憎しみを、最後の生きる拠り所にしていくしかなかったのだろう。たとえそれが、己の身ま
で焼き尽くす灼熱の業火であったのだとしても。
 断ち切られるのだ。他者との繋がりが。
 他の人間と結ばれる絆は、そうして焼け爛れた心を癒す唯一の手段なのだろう。孤独が歪めた人
格は竜とのそれよりも、やはり人間との繋がりに依ってしか購えないのだと竜は思う。
 「声」の喪失はすなわち、人間との絆を喪うことだった。
 契約の代償は確かに、彼の大切なものだった。彼の心を治す、数少ない希望であったのだ。
 たった今投げた思念の波に、カイムはきっとそれを求めたのだろうと竜は思った。己に対して
優しさと健気さを持って接した、たったひとりの少女の中に。
 しかしそんな竜の推察までは、キャロの考えは届かなかった。
 ドラゴンと同じことを感じ、同じことを考えることは、少女には出来なかった。彼の過去のおお
よそは聞いていたが、その精神の源流に至るまでは知らなかったから。
 その代わり彼女の頭に浮かぶのは、全く別の疑問であった。
 この人は今、自分に何を言おうとしたのだろう?
 ……残念ながらキャロは、一連の戦い全てに決着がついた後もなお、その答えを知ることが出来
ていない。ドラゴンは結局何も教えてくれなかったし、カイムがそれを語る口は永遠に閉ざされた
ままなのだから。
 わからないがしかし、この人が初めて自分から意志を伝えようとしてくれたのは確かで。
 その試みがどうしようもない理由から、失敗に終わったということだけは理解できた。
 答えの出ない疑問が渦を巻き、混乱した頭脳は多くを思慮することができなくなっていく。
 錯綜した思考は混乱の果てに、たったひとつの事実へと収束した。
 ああ、この人は本当に、もう二度と――。



 ひゅう、と風が吹きつけて、キャロがいつも身に着けているバリアジャケットの、大きな帽子を
虚空へと浚った。
 それが飛んで行ってしまう前に口に銜えて捕まえ、フリードリヒは空を見上げて気づく。気温が
下がってきたような気配がしていた。治療している間にかなり時間が経っていたらしく、見上げた
天空には藍色の闇がどこまでも続いている。
 夜は舎内で休息を取るものだと知っているフリードリヒは、主にそれを伝えようと、止まり木に
している彼女の肩からその顔を覗き込んだ。そしてその目で見る。
 キャロはカイムの顔を見たまま、小さなその唇を震わせてひたすらに涙をこらえていた。
 口許に手を当てて、あふれ出る何かを抑えていた。
 ――この人はもう、二度と喋ることができないんだ。 
 そう思うとなぜか目の奥が激しく熱を帯びたのだ。
 嗚咽がこぼれ出てくるまで、それほど時間は必要ではなかった。

「……っ」

 今までを振り返れば、決して仲が良かったわけではない。
 ただ少し気にかけていて、そして近くにいただけだった。
 出会ってからこの瞬間に至るまで、こうしてまともに身体に触れる機会すらなかったのに。
 なのにどうしてかなみだがぽろぽろとこぼれた。

「何故おぬしが泣くのだ」

 不思議さや呆れや、慈しみや慰めや後悔といった、筆舌に尽くしがたい感情を込めて竜が言う。
 だがもう、頭の中はぐちゃぐちゃだ。己の心の機微を感じ取るだけの余裕は、今の彼女にはもう
有りはしなかった。
 でもきっと単純なことなんだろうと、何とか残った頭で理解はした。
 ただここに在る現実が、目の前の事実が悲しかった。

「……ひっ……ひ……」

 だって。だってこの人は、もう二度と口を利けないのだ。
 ……たったそれだけの真実が、キャロにとっては何故かひどく泣けた。
 こんなことがあっていいのか。
 こんな酷い話があっていいのか。

「何を泣くことがある? 何もかもを無くしたのは、おぬしとて似たようなものであろうに」
「うぅ……うぇ…………ぇぇっ」

 そのうちどうして今自分が泣いているのか、だんだんキャロ自身にもよく分からなくなってきた。
涙を流すうちにその理由を見失い、ただ泣きたいから泣くようになるのだ。人間の涙とはそのよう
に不可解なものでもある。
 カイムが喋れないという事実そのものに涙していたのに、いつの間にか彼の全てに対して泣きた
くなった。今まで故郷も家族も友達も、何もかも無くしてきたはずなのに。これ以上にこの人は、
また何かを奪われてしまったのだ。
 それにドラゴンに言われたら言われたで、自分の境遇までもがどうしようもなく悲しいものに思
えてきた。後から思えばこの時、今まで溜め込んでいたものが一気に表に出てきていたのかもしれ
ないが、そんなことはまだわからない。
 何だかもう世界の全てが悲しくなってきて、訳も分からずぼろぼろと涙が落ちてきた。

「……」

 いつの間にか頭の中の雑音は消え失せていて、感情の乏しいカイムの瞳が僅かに疑問の色を宿し
て自分を見ていた。
 自分に原因があると理解はしているが、何故少女が泣いているのか心底分かりかねている。そう
いった目を彼はしていた。己の為に涙を流してくれる存在は、彼が失って久しいものだったから。
 しかしその瞳の中の輝きに、心を病んだ彼の持つ空虚な光を見て取って、少女の中で何かが弾けた。
 鎖が跡形もなく爆ぜ飛んで、止めていたものが堰を切って流れ出す。





 それまでキャロはぽろぽろと静かに涙を零していたのだが、その瞬間唐突に大声を上げて、びえ
びえわんわんと泣きはじめてしまった。
 泣きじゃくる彼女を為す術もなく見守るカイムは端から見れば無表情そのものだが、思念により
その内心を知るドラゴンからすると、この時カイムは彼らしくもなく狼狽しきっていたという。
 キャロが故郷を追われた時も、辛い旅でもその一滴さえ流すことがなかった涙。それは己の不遇を
嘆くものでも、緊張の糸を切る安堵によるものでもなく、純粋な悲しみによるものだった。
 しかしそれを知る術は、今のカイムにありはしなかった。

 そして戸惑いながら、彼は腕を上げた。
 風にさらされる髪の上に手をおろし、少女の頭の表面を、ゆっくりと滑らせる。
 そうして静かに、少女の髪を撫でやった。全てを取りこぼし、何も残っていないその手のひらで。
 絶望の広がる紅い世界、「敵」の許へ舞い上がる空でかつて、恐怖に怯える竜にしたように。



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