白と黒の声紋。
 それが「母」の唄う、滅びの歌を打ち消すものであるという以外に、ドラゴンが知ることは今こ
の瞬間まで何一つとして無かった。
 歌に声で返す未曾有の戦い、幕開けがあまりに唐突だったという事実。地上にそびえる異界の建
造物、最後の三十秒ほどの怒涛の唱歌――そのような当時の情景なら、竜はまだかろうじて思い出
すことができる。しかしユーノやフェイトに語った通り、術の組成はおろか、当時それを放った最
中の記憶が曖昧になってしまっていた。
 竜にもその理由はわからないが、再現も分析することもできない。使用は不可能だ。異形の秘法
は完全に消滅したのだ。
 ドラゴンはそう信じたが、現実は違った。
 精神を混乱から回復させることが出来ぬまま、アグスタから住処たる森へと戻り、カイムが竜に
届けた声なき言葉は俄には信じがたいものだった。
 夜の静寂に包まれた森林に、珍しく混乱した声をドラゴンは響かせた。逆に無音にて『声』を返
す男の表情は怪訝そうなそれである。
 双方が疑念と困惑に心を乱されて、暫しの間ができた後、二人は全く反対の問いをお互いに投げ
掛けた。

「憶えているのか??」
――憶えていないのか。

 夜の帳が降りた後。精神を摩耗したカイムとそれを案ずるドラゴンが、久方振りに見えた旧敵に
ついて言葉を交わしている時のことだった。
 命を分かち合う契約者といえども、記憶すべてを共有することは出来ない。死した筈の精霊、出
現し得ない友の剣の存在を、カイムはドラゴンに、『声』にして伝える必要があった。
 逆に竜の方も――それらの存在に驚きと、終幕が訪れぬことへの諦念じみた確信を抱きつつ――
半身の預かり知らぬ出来事をはじめ、フェイトたちとの会話、交わした言葉の内容を細やかに語っ
ていた。
 「声紋」のすべてを憶えている。
 音の無い会話の最中に、カイムの『声』がそんな全く予想外の事実を明かした。
 封印の秘術は失われたという、フェイトたちに対する竜の言葉。ドラゴン自身信じて微塵も疑わな
かったそれを、根底から覆すものだった。

「今、ここで出せるか」

 百聞より一見、とばかりに竜が静かに言うと、カイムは外套の隙間から腕を出す。
 己の炎に焼かれた両腕には既に薬草が擦りこまれ、シャマルがドラゴンに預けた包帯によって白
く包まれている。抵抗力の高さ故に魔法による治療が意味を為さないカイムへの、シャマルからの
せめてもの気遣いであった。
 今出来ることはこれくらいしかと言い、軟膏の類いを持って来ていればと悔いていたが、傷は全
て魔法で治せるという意識が前提にある以上、仕方のない話である。
 むしろこれ程に気を遣ってくれていること、その事実がドラゴンにとっては有難かった。後から
知った当人たるカイムも、僅かにではあるが感謝の意思が『声』から読み取れた。
 その痛々しい右腕の周囲に、漆黒の輪環が唐突に渦を巻いた。

「………………」

 苦痛もなく労もなくといった様子のカイムに対し、ドラゴンは沈黙したまま、愕然たる視線でそ
の様を見つめた。
 カイムの記憶の間違いであることを心の何処かで望んでいたからだ。世界の生滅に関わる秘法な
ど必要ない。持たぬ方がこの者のためだと思っていた。
 しかしこうして、黒き声紋は再び現界した。扱い方のすべてを失ったドラゴンとて見紛うことは
ない、新宿上空で彼等が用いた、あの時のかたちをそのままに。
 声紋のリングはカイムの手首の部分を中心に、まるで巨大な手枷のように径を留め、ゆっくりと
回旋している。知る者が見ればバインドの一種かと思うであろう、ミッドチルダでそう呼ばれる魔
法と似通った形態をしていた。
 新宿上空では水上を伝う波紋の如くに広がっていくだけであったが、同じ円を保っているのはカ
イムが御している故か。
 実際『声』で問うと、肯定の返答があった。己の意思により拡散を止めていられるとのことだ。
もっともそうでなければカイムも、ここで出せるかという竜の問いに応じることはなかっただろう。
 本物だ……!
 ドラゴンは確信した。魔術による幻覚や錯覚の類いではない。記憶に残る姿形に似せた贋作のそ
れでもない。
 紛れもなく、正真正銘同じものだ。驚愕しつつも、まじまじと見つめてその思いは深まっていく。
何もかも変らない。回転する様、難解な構成、表面に浮かぶ天使文字――。

「もう……よい」

 目を向けていたドラゴンは前触れなく首をもたげ、目を背けて不快感を言葉に乗せた。

「?」
「消せ。消してくれ。気分がすぐれぬ。理由は、解ら、ぬが……」

 口調には苦痛の気配が色濃く在った。このように己の願いを明らかにし、不調を訴える竜の姿を
カイムは知らない。
 弾かれたようにはっと目を見開き、腕の回りで回転する黒いリングを消し去った。消える刹那に
金属同士をぶつけ合った時のような、高く響く音が耳をついた。

「今解った」
「?」
「それは『時間』だ。お主の中で刻む、歪んだ『時間』、そのものだ」

 苦しみの尾を引くドラゴンの言葉は、その身を気遣うカイムが理解できるものではなかった。
 契約を果たし人の域を超えた力を保持するとはいえ、もともとはただの人間として生まれた存在
である。世界が崩壊する前は少なくとも、神のつくる理や「大いなる時間」などとは全く疎遠なる
生を送ってきたのだ。いきなり時間だの歪みだのと言われても、直ぐにそのすべてを把握できるも
のではない。

「我が今、苦痛に感じたのは、我の『時』が正常を取り戻したからだ。お主も覚えていよう、母な
 る者を葬ったあの時に」

 理解できない、とカイムの思念は訴えた。その時の記憶なら確かにあるが、そのようなことを感
じ取った覚えはない。
 第一その「時」とやらをどうやって感じるのかも、カイムは全く知らないのだ。この辺りはドラ
ゴンの失敗とも言えよう。この竜は具体的に、簡略に物事を説明したことがあまりない。
 分からぬか、とドラゴンは続けて言った。対して返される男の『声』は、当然ながら肯定に翻る
ことはない。
 竜は少し思案する素振りをすると、おもむろに首を伸ばし、その見事な赤い羽翼を広げて見せた。
 そして言う。

「この翼がその証だ。漆黒が元の真紅を、唐突に取り戻したのは何故だ?」

 カイムは大きく目を見開いた。
 今まで考えたこともなかった。
 当然の事実として受け止めていた。何の疑問も抱かなかった。「母」を屠り混沌の世界から解放
されたが故の、何ら不思議のない当然の帰結だと思っていた。
 或いは「母」から奪った魔力が、何らかの影響を与えたのかもしれない。そのような程度にしか。

「我が翼が黒く染まったのは丁度、世界が理を失った時と同じだ」
「…………」
「そうだ。司教の死の直後……世界の調和の消滅が、住まうもの全てに影響したとしても不思議
 ではなかろう?」

 では。
 カイムは無言のままに問いかけた。「時」が歪む歪まない、その本質的な意味はさておき、仮に
それが起こっているのなら。
 では、その「歪んだ時間」が――竜の中では正常を回復したそれが、何故己の身の内にだけ残っ
ているのか?
 母体を倒したのはカイムもドラゴンも同じだ。あれは協力して打倒したのだ。証拠にその膨大な
魔力は、二人に等しく吸収された。だというのに、この差異は何だ。
 それに今思うに、声紋の白黒に優劣は無い。違いは単なる正負、方向性の差であった。細かい点
は分からないが、異なる点はといえばその色と回旋の向きくらいのものだ。ドラゴンの白とカイム
の黒、それだけがこうまでも決定的な差をもたらすとは到底考えられない。

「我が知る筈もなかろう。ただ」

 ドラゴンは一旦言葉を切り、何かを思い出すような仕草をして続けた。

「思い出せ。最後の声紋の色は何であったか」

 黒だ。
 放ったのは、カイムだった。
 直後、沈黙がたゆたった。ドラゴンにはそれ以上、かけるべき言葉を見つけることができない。
 「時間」が歪む――直観によってドラゴンはそう表現したが、それが具体的に何を意味するのか
は、竜自身にもまだわからなかった。
 当たり前である。今のカイムはドラゴンとて経験のない状況に置かれている。「時」を止めて不
老の身となったセエレの例はあるが、あれは契約により強いられた永遠である。この件の参考とは
なり難い。
 彼は今こうして、表向き正常に生きながらえている。その事実だけを捉えるのなら、カイムの体
に起きた変遷は、生死そのものにはあまり大きく影響を与えはしないのかもしれない。
 しかし全く何事も無く時は過ぎてゆくまい。
 彼の肉体が少なくとも、声紋の記憶を持ち合わせている時点で、正常な人間の状態にないことは
確かだ。そして何より突然出現した、かつてからの敵の件もある。内憂に外患。
 その考えは竜だけでなく、カイム本人も同じだった。己の身体に起きた事実すら解らない、未来
は黒い霧の中……項垂れたカイムから、ドラゴンに投げられる『声』は無かった。思考による言葉
は無音のままに、錯綜する心理が念となって届くだけであった。
 ひゅぅ、と冷たい風が二人の間を走り抜けた。
 カイムは顔を上げた。その風に押されてか、こつんと彼の足に何かが当たっている。
 視線を落とすと、そこには背の低い円筒形の、小さな金属のケースがころころと転がっていた。
 カイムの所持品ではない。そもそも彼の持ち物は、過去にクロノ経由で手に入れたわずかな金、
捕えた獣の肉が少し、あとは服と武具防具だけだ。このように細やかな、小物の類の持ち合わせは
ない。

「火傷の薬だ。竜の娘が渡して行きおった」

 拾い上げて見つめるカイムの背に、ドラゴンが肉声を投げやった。それを背後に聞きながら、脳
裏の闇に小さな召喚士の姿が浮かび上がった。
 と、そこで不意に、カイムはある事実を見い出す。
 ドラゴンの言葉を裏付ける、ひとつの確かな証拠であった。地獄の釜の底を見つめてきた彼をし
て、その心胆を寒からしめる事実だった。
 渡された薬は火傷のそれだけである。
 在るべき傷が、己の身体の何処にも見つけられなかった。
 氷雪を見舞われた直後には確かにあった全身の凍傷が、既に跡形もなく消え失せていたのである。



 フェイトはふと顔を上げた。
 親友と共同で生活するいつもの部屋、壁に掛かっている時計をちらと見る。日付が替わるまであ
と一時間もなかった。夜はとっくに更けていて、すぐ近くの窓から外には星が見えていた。
 目の前にあったマグカップを思い出したように手に取ると、厚手の硝子はもう既に冷たかった。
中のコーヒーは温くなっていて、飲み干した舌には優しい。ただその心中は少々波立っている。こ
れを本来飲むはずだった人物の姿が脳裡に浮かぶ。
 今度こそは説教の一つでもかまさなければ気が済まない。
 そう思い立って先ほどヴィータに連絡を入れたら、「彼女」は既に休息を取っているとの返答を
受けた。
 任務直後のレポートを超特急で処理できるだけ処理し、訓練メニューに修正を加え自身のデバイ
ス調整を済ませ、きっかり定時に業務を終えたとたん、デスクに突っ伏して寝入ってしまったらし
い。タオルケットをかけてやったと言うヴィータの声には若干の呆れが含まれていた。仕事の早さ
に対してか量に対してか、あるいはその両方かもしれない。
 前回の任務後に割ときつめに、ミッション後はとっとと仕事を終えて休めと言ったのが、やっと
奏功したようだった。とはいえ例の大怪我から彼女も休息の重要性は認識しており、六課成立以来
の多忙は本人の意思ではないので、彼女ばかりを責められることではないのだが。
 高町なのはの話である。

(一難去ってまた一難、か)

 やっと休養に入った親友に対して安堵しながら、新たな懸案事項にフェイトは頭を抱えていた。
 カイムである。
 他に問題になりそうな人物は六課にはそういない。帰りのヘリには同乗せず竜の背に乗って去っ
ていった、子供たちが心配するあの男である。
 その様子を寂しげな瞳で窓越しに見送ったキャロと、それを慰めていたエリオの横顔が思い出さ
れる。ティアナもスバルも、目を向けながら複雑そうにしていたっけ。
 そう思いながら、ペンを置いた。目の前の机にはたった今片付けた、本日の任務の報告書の束が
山となって積み重なっている。
 カイムとドラゴン、機動六課。
 フェイトたちとドラゴンとの会話が、この日の双方の最後の交流となった。
 それ故彼らは知らない。任務後のオフィスで、幾つかの会話が交わされていた。



 依頼内容が完遂されたからといって、それで全ての作業が終わったと言えるほど時空管理局員の
仕事は簡単ではない。任務の中で後方支援にあたった者はそのとき得られたデータを報告書にまと
めることが、前線に配置された者には行動全般を見直すブリーフィングが、それぞれ任務後に義務
付けられている。その他諸々の作業もてんこ盛りだ。
 組織が巨大になればなるほど、こういう細々とした作業は重要性を増してくるものだ。事件や事
故への可及的速やかな対応を理念とする機動六課も、決してその例外ではない。むしろ迅速行動の
ためにはそのような、事後処理の類を詳細に行うことが非常に重要性を持ってくる。ずさんな報告
しか出来ぬような者に先鋒は務まらない。
 六課に限らず他の部署にも当てはまることだが、それらは通常部内の隊長たちの主導によって行
われる場合がほとんどである。
 つまり任務完了直後は、そういった隊長格のメンバーにとって疲労のピークだ。様々な後始末に
奔走したうえ平常の作業も片づけなければならないからだ。部下に任せられる種のものもゼロでは
ないのだが、それだけで全ての仕事が立ち回っているわけではない。
 だがそれにしても、

「は、はやて、大丈夫? 完璧に死んでるけど」

ブリーフィングを終えてレポートの束を抱え、部隊長室にやってきたフェイトがそう評した通り、
書類の山に囲まれてデスクに突っ伏すはやての姿は並々ならぬ疲労を周囲に訴えていた。
 普段から機動六課の仕事に追われ多忙な日々を送っているのに加え、そこに重なった任務の忙し
さは相当なものであるということか。リインは小さな両手で懸命にはやての肩をたたき、シャマル
やシグナムなどは甲斐甲斐しく温かい茶やら何やらをを運んでいるものの、まだ手はつけられない
ままである。

「……ッサに…………ん」
「聞こえないよ、はやて。本当に大丈夫?」

 伏せたまま、はやてが口を開いた。しかし口の下にあるデスクとはやて自身の体に遮られてしま
い、くぐもっていてあまりよく聞こえない。
 それでも上半身を机に預けたまま、ペンを持った手だけが報告書類の上を往復し続けているのは
流石というより不気味だ。
 部隊長の責務がそうさせるのかそれとも身体が勝手に動いているのか、いずれにせよ非常に奇妙
な光景であった。

「ロッサに絞られてん……もう、こってり……こってり」

 顎を机に載せたままだが、ようやく顔を上げて、はやてはくたばった声を上げた。
 リインから肩揉み任務を引き継ぎながら、フェイトは、

「アコース査察官が……どうしたの?」
「結構キツく言われたらしいんだ。部隊の保有ランク、明らかにオーバーじゃねーかって」
「我々については確かに、制限にはギリギリかかっていないが……例外がな」

 問いかけには胸の前に腕を組んだヴィータと、主を視線で気遣うシグナムが答えた。困っている
ような迷っているような、そんな雰囲気が言葉と表情からうかがえる。
 誰のことを言っているのか、フェイトには嫌でも分かったし内容も瞬時に見当がついた。はやて
の肩に置いた手が、一瞬の間硬直した。
 シグナムなどはひどく悩み、どうしたものかと思案しているようにフェイトには見えた。
 そういえば是が非でも手合わせを、と息巻いていたなと思い出す。多忙になった自分との戦闘訓
練が出来なくなって結構な時間が経っていた。折角相手が見つかった所に、一旦おあずけにも等し
いこの状況は結構堪えるものだろう。尤もシグナムもそこまでイっちゃったバトルマニアではなく、
純粋に彼らの今後を案じているという側面がありそうではある。

「テスタロッサ。まさかとは思うが、今私に対して非常に失礼な考えを抱いてはいないか」
「いえ何も。事実を考察していただけです」

 嘘は言っていない。問うべき糸口もない。というよりそういう場でもない。
 疲労しきっている主を挟んで追及するするわけにもいかず、シグナムはしぶしぶ矛をおさめた。
フェイトのこのあたりの身の躱し方は長年の付き合いがあってこそだ。初対面の者が相手ではこう
はいくまい。
 が、しかしそれでこの場が、明るさを取り戻せる筈はない。

「……なのはは?」
「知ってる。『はやてに任せる』って言ってたけどな……」

 ヴィータはそこで言葉を切った。当たり前だ。あの高町なのはが、見過ごすことではない。一度
でも仲間と認めた者を絶対に放り出さない、彼女の信条は身に染みて理解していた。
 だがそれでも、彼らの処分は如何ともし難い事柄であろう。時空管理局に所属する以上、内部の
法と秩序は守らねばならない。たとえどんなに自分が正しいと思っても、それが良いと信じても、
法が黒だと言えば黒になる。
 とすると、と、フェイトは思った。彼ら……竜と竜騎士は、この先どうなるのだろう。まさかこ
のまま、機動六課から放逐されることになるのか――そうなったら、彼らの後見はどうなる?
 義兄クロノの保護にも限界はあろう。キャロやエリオと違って一人で生きていくことについては
心配ないが、果たして彼らを受け入れる人間が現れるだろうか。人間の社会に居場所はあるのか?
 それに何より、まがりなりにも管理局内部に接触した彼らが、仮に放たれた後も自由でいられる
保証はどこにもない。
 住処を追われ、宛もなく彷徨することを強いられたりしないだろうか。そう考えるとフェイトは
背中に悪寒を感じた。それはかつて、キャロが故郷を追われたときの扱いと、全く同じだったから
である。

「それは、まだええんよ」

 しかしそこで、おもむろにはやてが口を開いた。周りにいた仲間、守護騎士一団の視線とフェイ
トの意識が集中する。

「今回のアンノウンの情報、彼らが持っとるんは間違いない。それにこの先、まだまだ未知の敵が
 出てくることは簡単に想像がつく……っちゅうのは推測やけど、偶然とは思えへんしな」

 へこたれた声から一転して凛とした調子になり、最後に、せやから――と言葉を切った。
 そこから先は皆聞かなくとも分かった。機動六課はレリック関連の事件を追う、いわば管理局の
先鋒としてのカラーが強い。となれば、カイムとドラゴンの力はともかく、知識を最大に活かせる
のは機動六課の向かう戦場で間違いはあるまい。
 という論理は、例の未知の敵がレリック絡みの事件に今後も出現し続けることで初めて成立する
のだが、はやては何故だかその確信があると言った。このタイミングでの新種の敵は予想外にも程
があるが、しかしガジェット・ドローンは繰り返し出現してきた、という前例もある。今後も出て
くる可能性は大だ、と。

「問題というか、ほんに悩んどんのはな。その後なんや」

 その後ロッサに、引き続いて正面から言われたことがある、とはやては言った。

「言われたんよ。『病人が居るべきは戦場じゃない、病院だ』って」



 うそ寒さを伴う思考が頭の中に去来して、フェイトは視線の焦点を合わせて戻した。
 半分眠りの中にいたような、呆然としていたような気がする。ただ今日という日を思い出してい
たにしては、時計の長針がかなり動いているように思った。
 自分も疲れていたのだろうか? 疲労は思考を鈍らせる。だとしたらなのはのことは言えないか
な、などと思いながら、フェイトは机の上に手を伸ばした。
 ライトを消して立ちあがる。やわらかなベッドに身を投げ、明るいままの部屋で目を閉じた。
 悲しいことだ。
 過去の悲惨な経験からフェイトは、人間の多くがそれほど強い生きものでないということを知っ
ている。砕け散った心が二度と戻らないことも、その直前まで行った自分はよく分かっている。
 しかし、だからこそ人は群れるのだと、彼女はそう思っていた。互いに補い支え合い、そうして
生きていくのが人間の本質なのだと骨身に沁みて分かっていた。
 彼にはきっと、助けてくれる人がいなかったのだろう。竜が彼と出会ったとき、カイムは既に精
神に異常を来たしていたと聞いていた。どれほどの苦しみが彼を苛んだのか、そう思うと己の胸も
が締め付けられるような気がした。
 どうか、近しい者と接する中で、支えとなるものを見出してほしいと思う。
 彼の近くにはドラゴンが居るはずで、それでいてなおあの様子だという点からは、彼の心の平穏
に並々ならぬ困難があるのだと感じずにはいられないけれども。
 そんな時に思い出したのが、キャロとエリオの顔だった。あの可愛い子供たちは、帰りのヘリの
中、滑空する彼らが見える窓にしきりに視線を向けていたっけ。
 今日は怪我も無く任務を終えることができたが、ゆっくり休養を取っているだろうか。深夜は外
出が止められているから、寮に帰って直ぐに森に足を運ぶことはないはずだが。
 それでもキャロはきっと、明日にでもカイムの様子を見に行くのだろう。エリオももしかしたら、
それをとても気にかけるかもしれない。どうしてだか、フェイトにはそんな気がした。
 二人とも優しく、たくましく育っている。
 もし子供たちが今、新たに人の力になろうというのなら――まだ幼すぎる身のようには思うけれ
ども、こんなに嬉しいことはない。そう思いながら、明かりも消さずフェイトは眠りに就いた。



 まさか翌日自分が、そのカイムに本気で刃を向けることになるとは、この時彼女はまだ知るはず
もなかった。



 そして夜が明け、フェイトが考えた通り、キャロはフリードリヒを連れて森を訪れた。
 早朝の、飛行の手解きを……というのもあるが、やはりカイムが気になって仕方が無かったから
だ。昨夜は訓練こそなかったものの、ブリーフィングやら何やらで意外と時間を食った。気がつい
たらもう夕食の時間が来ていて、あとは雪崩のように睡眠へと流れていくだけだった。今日だって
訓練がある訳だから、動けるとしたらこの早朝か、今日の訓練が終わった夜しかない。
 カイムに会えることを信じたわけではない。期待はあったが確信はなかった。
 キャロは何度も朝の森に足を運んだが、そのうちほとんどがドラゴンとの交流に終始していた。
彼が一緒に姿を見せることは非常に稀であった。昨日のこともあるのだし、顔を見せづらいという
ことだってある。
 それでも何かをせずにはいられなかっただけだ。
 結果がどうなるとか、無駄じゃないのかとか、そういう考えはキャロにはなかった。あったかも
しれないが気にならなかった。そういう点、キャロは子供であった。自分の思いに正直で、そして
健気だったのである。
 そしてその健気さが通じたのかどうなのか。
 キャロがいつもドラゴンと会うその場所に辿り着いた時、視界には彼の姿があった。

「何を呆けておる?」

 ドラゴンの第一声がそうであったことから分かるように、キャロはその時大いに狼狽した。目の
前にはドラゴンがいて、その下の大きな岩にカイムが腰かけてこちらを見ている。
 今まで森を訪れた時にも、カイムが竜の傍らに姿を見せたことはあったが、というのもかなり頻
度は稀だったからだ。それにこのように正面から、まっすぐに自分を見据えてきたことはなかった。
 怪我の具合はどうなのか、昨日渡しておいた薬の効きはどうか等、ここに来る前に訊いておきた
いと思っていたことが全部、頭の中からすっぱりと抜け落ちてしまっている。

「……怯えておるぞ」

 我に立ち返らせてくれたのは、ドラゴンがカイムにかけたその一声だった。
 聞いたカイムは例の如く無表情のままであるが、キャロは慌てて、

「違います! 今のはその、ちょっとびっくりしちゃっただけです!」

と力一杯に否定する。朝の涼しい空気に大きな声が響いた。
 すぅはぁと息をして自分を落ち着かせる。

「昨日は、お疲れさまでした。あの、火傷の方は、大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ」

 半身の異常はおろか、己の内心すら何一つ感じさせないドラゴンの言葉だった。
 直後、カイムが手の中から、何かを放ってよこす。

「カイムがここにいるのは、それを返す為だ。礼を言っておる」

 放物線を描いや銀色のケースは、軌道の上にいたフリードリヒの口の中におさまった。
 対して、キャロはあたふたとした声を上げた。渡した薬は確かによく効く代物ではあるが、魔法
の類とは違う。これほどの短期間に傷を癒す力はないはずだ。

「え? でも、まだ」
「時間が余っているわけでもなかろう。さっさと始めようぞ」
「あ……は、はい……」

 どうしてか有無を言わせぬ気配を含んだドラゴンの声に、キャロはそれ以上問い返すこともでき
ない。フリードリヒを真の姿に解放し、巨大なその背に身体を乗せた。
 おおきな翼がはためき、白竜とともに天空へと舞い上がるその最中も、キャロは眼下で微動だに
しないカイムのシルエットから、目を外すことができなかった。



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