暗く静かな部屋の中に突如として火炎が燃え上がり、光の束がゼストの眼の奥を灼いた。煌々と
した炎が壁面を明らかにし、失って久しい光の中に粗末だが広さのある空間が照らし出される。
 陽はいつの間にか落ち、辺りに広がっているのは浅い闇であった。眠らない都市に比べてその周
縁、打ち棄てられた廃墟の区画にはより一層の暗がりが染み込んでいる。冷たいコンクリートに囲
まれた建物の中は冷たく、じくじくと肌を刺した。風が絶たれ揺らぎのない空気からは、濃厚な夜
のにおいが湿気とともに立ちこめている。
 人から見捨てられた住居の跡地はただそれだけで寂しい。
 放棄されたそこにはもう既に、人間の気配は皆無だった。こういう場所を好んで根城とする野盗
の類いさえ居なかった。夜を生きる者ですら寄り付かない。土地そのものがそれほどに荒れていた。
壁面のどこもが傷だらけのこの一室があったのは、そのような場所であった。
 廃墟が辛うじて残していた外観と、色覚が定まらぬ目でとらえた部屋の様子から合わせて察する
に、かつては人も住んでいたのかも知れないと思われた。だが長年のあいだ野晒しにされてきた今、
ゼストはそこに生活感というものを見出だすことができなかった。
 とはいえ、そこらの森で野宿するより幾分かましだ。少なくとも森の中ほどは、外敵の心配をし
なくてもよい。程よく崩れた外壁にはいくつか穴があってすきま風が流れ込んでくるものの、火を
焚いても換気ができる。広さも割合とあってゆとりがある。この部屋を今夜の寝床と決めたのには
そういう理由があった。ゼストは今、ルーテシアに、少しでも心安らかに眠っていてほしかった。
 背から降ろしたルーテシアを見るアギトは悲痛な沈黙を保っていた。
 砂埃の付いた壁に背をもたれ、床に投げた朽ち木に火を移すゼスト。そうやって彼が暖をとる準
備をはじめてからも、照らし出されるアギトの横顔は痛ましく悔しそうな表情のままでいた。勢い
を持ちはじめた火炎に照らされる二つの眼球には怒りと悲しみの色彩が窺えた。急襲を仕掛けてき
たあの剣士から逃げ、やっとのことで合流した時から少し落ち着きはしたものの、それは変わって
はいないらしかった。
 走るゼストの腕に抱かれたルーテシアの顔を見て、文字通り烈火の如く怒り狂わんとするアギト
を諌めるのには随分と苦労をした。非道な扱いを受けていたのをゼストとルーテシアに救われたア
ギトは、ゼストのことを「ダンナ」と呼び慕うのと同じくらい、ルーテシアをも心から好いていた
からだ。
 そのルーテシアは今でこそ深い眠りに就いているが、戻ってきたアギトが見た時は顔面蒼白にな
って呼吸も荒く、そして酷く怯えていた。
 無理もない。そもそもルーテシアはあまりにも幼い。魔導師であるより前に、彼女は小さな子供
であった。歴戦のゼストですら怯む巨大な殺意に幼子が耐えられる道理は何処にもなかった。考え
てみれば――いや考えずとも、それは当たり前のはずだった。
 何故直ぐにこの子を逃がさなかったのかと、ゼストは己の愚鈍を呪った。如何なる力を持とうと
ルーテシアはまだ子供だ。そんなことにどうして気が回らなかったか。才能さえあれば年令など無
視して兵とする時空管理局に、過去長い間居たためなのかもしれないと思った。しかしそれだけが
原因ではないとも同時に思う。
 自分は何処かでこのルーテシアのことを、精神的に強いものだと思っていた。恐怖を感じること
もなくあらゆる困難に立ち向かい、己の目的に邁進することができると勝手に思い込んでいた。
 その結果がこれだ。自分の不甲斐なさが腹立たしい。ゼストは奥の歯を割れんばかりに食い締め
た。ぎり、という音すら不快に思えた。

「旦那ぁ」

 その声に、ゼストは我に帰った。向けた目に飛び込んだアギトの表情は、端から見ても痛ましさ
がありありと伝わるものだった。

「話す約束……だったな」
「聞かせてくれよ。何で……どうしてこんなことになったんだよ……」

 眠り続けるルーテシアを見ているうちに、だんだんと気持ちが悲愴になってきたのだろう。絞り
出すような声には旅の仲間を傷付けられた怒りや悔しさよりも、どうしてこの子がこんな目にとい
う、嘆きと悲しみの方がより強くにじみ出ていた。アギトと同じく、ルーテシアを大切に思うゼス
トにも、その気持ちは身に沁みるほどに分かった。

「……全て俺の責任だ。直ぐに逃げるべきだった」

 呻くようにゼストは切り出した。言葉の節々から自責の念がにじみ出ていた。

「データを取ろうとして、その男に逆に殺されかけた。笑えないにも程がある」

 聞くアギトの面持ちは痛切なそれから一転し、驚きのあまりに息を飲む音がした。
 全盛期からその力を大きく削がれたが、ゼストはそこらの魔導師なら軽く蹴散らす実力者だ。
 しかもルーテシアだって、幼いながら身の内に強力な力を秘め、数多くの蟲を使役する召喚士だ。
その二人が逃走を余儀なくさせられたのか? 集団で攻めてきたのならともかく、たったひとりの
男に。

「まるで歯も立たん。いつ近づいてきたのかも分からない……生き延びたのが幸運だった」
「そんな、旦那とルールーが」
「事実だ。恐るべき敵だった。俺も流石に、笑って人を殺そうとする人間と戦ったことはない」

 一瞬、アギトが息を飲んだ。ゼストの声色は確かに戦慄の気配を孕んでいた。彼女がゼストに出
会ってからはじめてのことだ。

「……でも、おかしいってそんなの! いきなり殺しにくるヤツが管理局にいるわけ……」

 アギトの言ったことは、ゼストもずっと思っていた。
 少なくとも、あれがただ単に管理局に従う者ではない。ゼストが見た男の表情は、その手の人間
がする顔とは根本的に異なっていた。過去数多くの犯罪者をその目で見てきたゼストにはわかる。
あれは生かして捕えることを考える人間ではなかったのだ。絶対に生かして帰さない、必ず殺すと
剣が言っていた。
 向けられた眼光を、弓を引いた口のかたちを覚えている。あれの中には確固とした殺害の意志が
あった。
 どう考えても、非殺傷を原則とする真っ当な局員ではありえない。彼にとってそれは大きな疑問
であった。時空管理局はとうとう更正なしに罪人を雇用しはじめたのかと一時疑うほどであった。
あれが犯罪者と言われても全く違和感がなかったからだ。しかしさすがに、それは無いと信じたい。
 あれは何者だったのだろう。
 考えてみれば、あの男が手にしていた真紅の長剣はどうも、魔導師の持つデバイスの類とは違う
もののようにも思われる。
 その銘「月光の闇」も、異世界の魔剣であることもゼストは知らない。しかし一度刃を交え、剣
の異質さをゼストは感じていた。あれは魔法というよりも白兵戦に主眼を置いた得物であったし、
現にあの男は斬りかかってくる際、魔法の類を利用している気配はなかった。魔法のデバイスを何
の強化も無しに武器として用いるとは思えない。それに言うならば、これはゼストの勘に近いが、
あれは非殺傷設定が利く代物ではないように感じられた。
 そしてあの剣は、ルーテシアが呼び出し、強烈な冷気と氷雪を見舞った片刃の剣と、どこか造り
が似通っているように思われた。物理的な構造でなく、魔法を発動する際の感触が、である。
 召喚を受けてからそのままになっている長剣は、今もなお部屋の隅に斜めに立て掛けられている。
ゼストは立ち上がって剣を手に取り、焚火と己の目の前にかざした。
 銀色の剣身の輪郭に沿って淡い光が浮かび、炎にとともに揺らめいている。
 それはあたかも、刃に血が通っているかのようだった。

「旦那、それは?」

 言って後ろから剣を覗き込んできたアギトに、ゼストはこの剣がここにある経緯を伝えた。
 そもそもスカリエッティが自分たちに(半ば強引に)委ねてきたこと。それを覚えていたルーテ
シアが咄嗟の判断で召喚し、凍てつく吹雪を吹き出してゼストの身を救ったこと。
 聞いたアギトは眠りこけるルーテシアを見つめた。その話の中で何かが心の琴線に触れたのか、
目には薄っすらとだが確かに、涙がたまっているのが見えた。本人が聞いたらきっと否定すると思
うが、表情は涙を堪えているように思えた。
 ゼストにはそれが何なのかすぐに分かった。
 恐怖に耐え仲間を救ったルーテシアの行為に、きっと感極まってしまったのだ。
 ルーテシアにとってきっと、今回感じたのは生まれて初めての恐怖の筈だ。可哀そうに、蒼白に
なるほど怖かったのだろう。だのに彼女は逃げもせずそれに耐え、ゼストの危機を救ったのだ。
 情というものに良くも悪くも真っ直ぐなアギトは、この事実を知って心を射抜かれたような気持
ちになっていた。どうしてだか胸の中が一杯になって、目頭が熱くなってしまっていた。生まれて
はじめての気持ちだった――ふと弛めてしまえば、何もかもが溢れ出てしまいそうな。
 何故そのように思うのだろうと考えたが、しかしそれに時間は必要なかった。体を張って守り合
い助け合い、手を取って歩くそれは、人が仲間と呼ぶものだからだ。
 行動の向こう側に、仲間の意識が透けて窺えたからだ。心が希薄な筈の、この幼いルーテシアに。
 そうして、二人の間に沈黙が流れた。アギトはこみ上げるものを必死にこらえ続け、ゼストは暫
くその小人の横顔をただ見つめていた。燃える薪のおおきな灯火だけが部屋に揺らめいていた。ぱ
ちん、ぱちん、と火の粉が舞っては消えていく。
 いつまでもアギトの顔を見ているわけにもいかず、ややあってゼストは目をそらした。壁にもた
れたまま首を曲げ、側方の空間に視線を投げた。風晒しにされたコンクリートの壁には――以前は
小さな窓か何かが据えられていたのかもしれない――歪な円のかたちの穴があった。
 そこから窺える夜空には既に幾つもの星が瞬いている。その下へ意識を移すと都市の賑やかな明
かりも目に映った。気付かぬ間に空の闇が濃度を増している。夜の気配が急速に深まりつつあった。
 冷え込みを予想して、ゼストは拾っていた木片を火の中にひとつ、ふたつと投げ入れた。何もせ
ずともアギトの灯はそう簡単に消えたり弱まったりしない。だが生者への思いやりか、何とはなし
にそうした方がいいような気がした。枯れてめくれた、死した木皮が炙られて歪む。輪郭から赤熱
して燃えていく様は、本来ゼストが在るべき姿そのものだ。滑稽に思えて、唇がわずかに曲がった。
 その上の炎が吹き込む風に揺らいで、ゼストは向こう側に異色の光を束の間に見た。
 ゼストは瞼を広げ、暫し炎の先を凝視した。だが薪を増やした火は勢いを得はじめていて、より
強く輝きを放っている。壁に身体を預けたままでは、光の中に隠されてしまってよく見えなかった。
 しかし、かといって今さら起き上がるのは億劫だった。疲労がたまっているのはルーテシアだけ
ではない。今再び立つだけの体力は、ゼストにも残されていなかった。
 そこで壁面に視線を移すと、コンクリートの上には確かに影が伸びているのが見える。
 もう落ち着いてきていたらしいアギトに目配せして気付かせると、彼女はそれをちらと見た後で
ひとつ頷いた。表情に思ったほどの変化が無いことからすると、彼女は既に気付いていたらしい。
注意力が落ちていたということか。

「旦那」

 ゼストが改めて己の疲労を自覚していると、それを知るきっかけとなった当のアギトが切り出し
てきた。
 見ると、何か様子がおかしい。先ほどまでの潤んだ目はしていない。しかしどこか、責めるよう
な、なじるような、そんななんとも言えない雰囲気がその面持ちからは漂ってきていた。頬が少し
赤みがかっているのは炎に照らされてのことなのか。

「見てたろ」
「何を」
「あたしの顔だよッ!」
「……ああ」
「へっ……ヘンな顔してただろ、絶対っ」
(気にしていたのか)

 そのことか、と理解した。
 慣れない感覚だったのだ。不意に出そうになった涙を堪える姿など、見せたくなかったのだ。
 やや赤面した今の表情にも納得がいった。先ほどの声にも、よく思い出せば羞恥があった。

「ああ。珍しい表情だったな」
「いっ、言うなっ、忘れろ、忘れろってばっ! 全部記憶から消し」

 アギトの言葉が終わる前にもぞもぞと布が擦れる音がして、ゼストが反射的に手で制した。二人
の視界にある影がちょうど、ころんと半回転するところだった。ルーテシアが寝返りを打ったのだ。
「しまった」といった顔をしながら自分で自分の口を塞ぐアギトだが、少しすると小さな寝息が聞
こえてきてほっと胸を撫で下ろした。目が覚めた訳ではなかったようだ。

「あまり喚くな。起きるぞ」
「……お、覚えてろよっ」

 と言う威勢はよかったが、どうしても負け惜しみにしか聞こえなかった。それでも声は小さく抑
えていて、そんなアギトの健気さにゼストの口元が緩んだ。

「旦那、それで……いい?」

 しかしそれも束の間。ゆっくりとひとつ息を吐いたアギトはもう、そのような微笑ましい雰囲気
を残してはいなかった。合わせてゼストも、表情を引き締めた。

「そいつだけど、何で……殺しにきたのかな」

 そんなことはゼストだって知らない。
 本音を吐けば、知りたくもなかった。そもそも敵とはいえ人間を、喜悦に笑いながら殺そうとす
る者の過去など。

「分からない。少なくとも、真っ当な局員でないのは確かだが」

 しかしアギトは、違う、と首を横に振った。

「ううん、そうじゃなくて。えっと……そう、局員とか関係なしに」
「?」
「だって、こっちは初対面だったはずじゃん。そいつが殺そうとしたのは、どうしてかなって」

 ゼストははっとして、アギトの顔を見返した。真剣な様子で小さく頷いた瞳は、傍に揺れる炎の
光を湛えていた。
 言われてみれば、確かにその通りだ。
 そもそも殺意を向けられる理由がないのだ。ゼストたちは剣士の存在を知らなかったが、逆もま
た然りである。あちら側だってゼストやルーテシアのことを知っているはずがないのだ。
 足止めに交戦するなり、確保しようとするのなら分かる。だがそれが殺害の意志にまで発展する
なら話は別だ。
 もし仮にあの男が殺人に何一つ罪を感じないような悪漢でも、敵かも知れないとはいえ初対面の
者の命をいきなり奪おうとはしないだろう。そんなことをする危険人物なら、そもそも最初から管
理局の指揮になど従うはずがない。本性を明かした途端に粛清されるのが目に見えているからだ。
 人が人を殺そうとする時、そこには確実に、それに値する理由があるはずなのだ。

「旦那、心当たりはないの?」
「いや。あの男は今まで見たこともない」
「じゃあ……それなら、ガジェットに身内を殺されたとか」
「……その線はあり得るな。だがそれなら、そもそも機動六課内に配属されないだろう」

 復讐は戦闘を強力に動機づける。しかし、ガジェットを見たら突出する可能性が高いとわかって
いる人間を、わざわざその処理班に配置することは考えにくいだろう。
 そう説明するとアギトは、そっか、と納得した顔を見せた。

「……」
「旦那?」

 その説明を終えたゼストが思案顔になって視線を伏せ、アギトは怪訝そうな顔をした。

「いや……もしかしたら、だが」
「もしかしたら?」
「ああ。あの魔物たちなら、その可能性もあるかもしれん」

 聞いたアギトは、首を傾げてから問い返した。
 魔物って一体何だ。ルールーが使ってる蟲じゃないのか。

「分からん。ルーテシアが蟲を喚ぶより前に、もう既にそこにいた」

 今回の戦闘行為を依頼してきたそもそもの原因、スカリエッティの名を挙げてゼストは続けた。
 ガジェットとともに戦場に送り込まれていた、甲冑と無機質生命体。
 問題なく前線に配置され、且つ憎悪する敵と出会う――先ほど述べたその可能性があるとしたら、
今回ガジェットと同時に現れたその魔物たちであろう。
 何せゼストですら存在を知らなかったのだから、それらの登場は機動六課からしても予想外だっ
たに違いない。部隊への精神的適正には考慮されていないはずだ。
 問題はあれが一体何者だったのかという、ただその一点だけなのだが。

「何だそれ。そんなの、いつの間に」
「……つい最近、玩具が手に入ったと聞いた。これのことだったのかも知れないな……」

 しかし肝心要の、あれが何者だったのかという答えは導くことができない。
 当たり前だ。魔物についても剣士についても、どう考えてたって情報が足りない。そう思って、
ゼストはそこで考えを止めることにした。アギトは傍でうんうん唸っているが、多分そのうち諦め
るだろう。
 ただ一つ確かなのは、あの科学者がロクでもないものを手にいれたということだ。
 今後これらどういった悪事に使われるのかが気がかりなところである。嫌な予感しかしなかった。
あの男がこれからボランティア、ということはあるまい。確信に近い予想である。

(警戒した方がいいな)

 壁に開いた小さな空洞から、ひゅう、と風が音を立てるのが聞こえる。
 ゼストの頬に当たったそれは、先ほどよりもひんやりと冷たく肌の熱を奪った。あれこれと考え
続けるアギトから目を外す。穴から覗く空は、紺を通り越して黒かった。いつの間にか夜はさらに
深まってきていた。
 そう思いはじめると、ゼストの身体じゅうに猛烈な勢いで疲労感がわき起こっていった。日付も
変わっていないというのに眠気さえ感じる。管理局内でばりばりと働いた時期でさえ、ここまで疲
れたことは無い。今日という日はそういう一日だった。
 思考に集中していた意識を感覚に向けると、背のあたりには肌寒ささえ感じられた。暖を取って
いたため気付かなかったが、気温が少し下がってきたのかも知れない。風を受けた灰色の石の壁は
とても冷たかった。その壁から背を離し、ゼストは薪をもう一本放り込む。ゼストの手を離れて炎
に向かっていく時には既に、思考がてらアギトが撃った火炎魔法で赤い火が点いていた。
 その時炎を挟んだ向かい側に影が残っているのを見て、ゼストの脳裡を何かが掠めた。
 はっとして横を見る。床には片刃の剣が、槍と共に置かれていた。それに目を向けつつ、そうい
えば、と思い返す。この剣を見たときの剣士の反応は妙ではなかったか。
 剣士と魔物との関係について自力で結論を出すのを諦めかけていたアギトが、そんなゼストの様
子を見て、どうしたのかと顔を覗きこんだ。次いで視線の先を見て、その剣にまだ何かあるのかと
問いかけた。ゼストは視線で示しながら答えた。

「思い出したんだ。あの剣士、それを見て驚いていた」
「それって……その剣?」

 疑問に首を傾げてアギトは言ったが、ゼストにはこの事実は割とすんなり受け止められた。
 魔力を通じたこの剣が吐き出した氷雪の魔法は、剣士が森を焼いた火炎魔法と同じく、ミッドチ
ルダに存在する魔法のどれとも重なるものではなかったからだ。たった一度魔法を発動しただけだ
が、ゼストにはその詳細がある程度理解できていた。この剣とはやはり相性がいいのかと思いつつ
見る。剣は変わらずその刃の中に、揺れる火影をたたえ続けている。

「ああ。それと」

 頭を過ったのはもうひとつ。
 ゼストは向かいの壁面を見て、間を置いてから続けた。

「そこのふたりにも、だ」

 アギトはゆっくりと壁に目を向けた。そこには炎に照らされて、二つの影が長く伸びていた。
 影をたどった先には、やはりふたつの光があった。青色と赤色の、透き通るような光だった。
 ルーテシアが見つけた旅の連れだった。
 精霊たちがそこにいた。



「今回の一件で、ルーテシアにも嫌われてしまったかも知れないね」

 暗い部屋、闇の底。
 仄かな明かりに照らされたホールの中で、白衣の男――スカリエッティが、大画面モニターの前
で口を開いた。パネル上にはホテルアグスタ上空、また地上・ホテル正面の、襲撃時の様子が鮮明
に映しだされている。
 普段の彼らしくもなく、言葉からは若干だが残念そうな調子が窺えた。
 背後の椅子に腰かけてパネルを操作していたクアットロが、作業を中断して顔を上げる。そうし
てやや間延びした声で、あらぁ、とつぶやいた。

「その時の映像が無いので詳しくは分からないが、何でもあと一歩まで追い詰められたらしいんだ」
「それは大変ー、通信入れておきましょうか」
「ルーテシアは今お休みのようだし、騎士ゼストには回線ごと切られたよ……どうしたものか」
「ああ、ついにドクターが人類の永遠の課題、「女心」という究極の謎を解明する時が……!」
「止めておこう。心理学が専門ではないのでね」

 茶目っけのある表情をつくってぺろっと舌を出し、冗談です、とクアットロは言う。

「優しいルーテシアのことだ。許してくれるとは思うが」
「大丈夫ですよぉ。明日すぐ連絡をすれば」
「ありがとう。君にそう言われると安心するよ、クアットロ」

 クアットロは聞いてから、笑みを見せて下を向き、たたん、と再びキーを叩きはじめた。

「それにしても」

 何だい、とスカリエッティが言った。

「驚きましたわ。あの綺麗な球体に、そんな機能があったなんて」
「生命のソースが貯蓄されているところから、想像はついていたがね。これで実証された訳だ」

 スカリエッティがパネルに近づき、とん、と隅を指でたたく。すると、そこを基点に新たなウイ
ンドウが展開した。中には人の背をゆうに超える白い球体が、ただ静かにその異様を晒している。
 新たなる好奇心の対象を獲得し、恐るべき速度でその解析を進めていたスカリエッティは、確証
が得られぬ段階で既に、そのものの持つ目的を正しく割り出していた。
 外殻の情報は、ありとあらゆる生命の設計図。
 それらが内部へと方向性を持ち、核たる部分へと干渉しうる機構を持っている。
 これはある意味、ひとつの「細胞」と言い切ることもできた。生命体の情報を持つ核と、それを
取り巻き維持する組織とが揃っている。内外の位置は逆だが、確かに似ていた。
 核は情報を吐き出し、細胞の組織そのもののかたちを決め支配する。
 すなわちこの「卵」の目的は、全ての生命体の力を内包した、究極の生命をつくること――。

「ならば話は容易い。情報の向かう先を変え、その位置に材料さえ組み込めば……ということさ」
「素晴らしいですわ、ドクター」
「もっとも、それはコピーに過ぎない。これから私のオリジナルに活かせればいいのだが」


 この辺りの詳しい話は、クアットロには分からない。彼女が知っているのはこの「卵」の存在と、
それが備えた不思議な機能。
 そしてそれを元にして、敬愛する創造主が、また新たなる生命を作り出した……その手法を見出
した、ということだけであった。
 にもかかわらず、クアットロは胸が高鳴るのを感じた。彼女は嗜好として加虐を好むのと同時に、
未知との出会いが好きだった。その未知に対して遊び心を交えつつ、様々に手を加えてみるのが好
きだった。
 これからこの先、ドクター・スカリエッティはこの物体を用いて、何を創り出すのだろう。そう
考えると、楽しみでならないのだ。

「ところで、クアットロ。機動六課諸君、あと剣士と竜のデータはまとまったかい?」
「はいっ。マスターのメモリ内に全て保存済みですわ」
「ありがとう。調査対象が増えてしまって、嬉しい悲鳴だよ……ただ、ひとつだけ」

 いつの間にか背後に立っていたクアットロを振り向いて、男が小さくつぶやく。

「どうなさいましたの?」
「ひとつだけ欲を言うならば――『無限の欲望』が一つだけの願いとは、言っていて少々笑えるが」

 微笑するスカリエッティに対し、ふふっ、とクアットロも笑みを浮かべた。

「もう少し親切に中身を見せてくれればいいものを、といったところだね」

 伊達眼鏡の向こう側、男を見るクアットロの瞳が、好奇心の光を帯び始めていた。

「『中身』?」
「ああ。中身だよ。あるいは単なる空洞かもしれないが……『核』は堅く閉ざされていたんだ」
「……?」
「外から何かを入れるものなら、簡単に覗けて然るべきなんだ。それが無理、ということは」

 着実に、確実に。
 男は何かを、理解しつつあった。

「何らかの封が為されている。中に在るものを守るために――そうであって何ら不思議はあるまい?」



 暑い。
 と、そう口に出すのも億劫なくらいに暑苦しい。
 部屋の中でゼストは思う。今もぽたりと落ちた汗の雫は、もうこれで何滴になるだろう。眠り続
けるルーテシアを穴の空いた壁際、涼風の吹き入る位置に移動したのは正解だった。これではきっ
と起き出してしまうこと間違いなしだ。
 雰囲気がどうとかいう問題ではなく、室内が物理的に暑い。
 熱源、炎が猛っていた。暖を取る他に役割のない灯火が、熱く激しく燃えてゼストの体力をじわ
じわと削り取っていた。
 ぱちぱちと散る火の粉も光の密度を増し、白く輝いてさえ見えるのは気のせいでないのかもしれ
ない。これではまるでサウナ・ルームだ。猛烈な渇きをゼストは覚えていた。
 何故に焚火が燃え狂っているか。
 結論から言えば答えは簡単、アギトの感情に呼応して、である。

「……アギト」

 呼んだゼストの声に返ってきたのは、ぜはー、ぜはー、と切れた吐息のみだった。
 肩を大きく上下させ荒い呼吸を繰り返しているのは勿論、赤髪の小さな旅の連れである。

「その辺でやめておけ。これだけ聞いても語らないんだ」

 というよりも頼むから止めてくれ、といった本音を隠して言う。

「こいつらっ……口っ…………割らせっ…………」

 しかしどうやら、呼びかけはあまり聞こえていないらしい。集中しているのか疲れのあまりか。
 威勢だけはまだまだ、と言わんばかりのものが少し残っている。しかしそれにしても、吐き出す
声は聞いているゼストが更に疲労するほど掠れきっていた。ふたりの精霊を見たあの男の異様な反
応を知ったアギトが、彼らに対して問いかけをはじめてから、もう既に十分ほどが経過している。
 問いを受けるウンディーネとサラマンダーは完全黙秘を貫いたまま、ただ燃え上がる焚火の前に
姿を晒しているばかりである。
 彼らがこうして近くにいるという状況は、旅をしている間は全く無かったものだ。しかも今回は
いつものように、接近しても消え失せたりすることは、ない。
 しかし、それだけだ。先ほどからゼストは観察を続けていたが、彼らはそれ以上に何も行動をし
てこなかった。
 そいつについて、何か知ってんのか――ルーテシアを恐怖させ、ゼストを敗走させた例の男につ
いてアギトが問いかけても、その態度が変わることはない。同様の質問を何度繰り返しても、返っ
てくるのは沈黙ただそれだけである。残りは目の前で立ち上がる火の唸り。
 アギトの表情に苛立ちが見えはじめるまで何分だったか。
 声を荒げ掴みかからんばかりになるまではもっと早かった。
 時が経つにつれてアギトの表情は険しいそれとなり、そして比例するかのように火の勢いも増し
ていった。本当に掴みかかろう蹴りかかろうとしても、ふわりふわりと避けられるだけで更に激憤
は強まった。そのたびに室温が上昇するというどうしようもない環境である。それまでの体力低下
に加えてさらなる疲労が蓄積し、眠気も増してくるのをゼストは感じていた。

(身が持たん)

 ルーテシアの為……という気持ちは分かるし自分だってそう思うが、ぶっ倒れて行動不能となっ
ては元も子もない。そろそろ終わりにしてもらわなければ、明日からの行動にも支障が出よう。
 そう思って、どうどう、と赤い髪の房を引っ張る。すると漸くゼストの方を体ごとぐるんと振り
返り、アギトはそのままの勢いでがなった。

「んだよ、旦那っ! こいつら絶対何か知ってんだぞっ! ルールーだってあんな目に遭っ……」
「そうとも限らん。本当に何も知らない可能性だってある。それに」
「それに、何だよ」
「喋りたくないなら無理には聞けない。あと、そもそも言葉が通じるのか分からん」

 はっとしたアギトは思わず、あーっ、と大声で叫んだ。
 ゆっくりと首を曲げ、自分が今の今まで問い詰めていた彼らを見る。
 相変わらずの貫徹無言。恐るべしと言わざるを得ないほどに徹底した度合いの沈黙である。
 しかしよくよく考えてみれば、そういう理由もあるのかもしれない。流石にムキになって
言いすぎたとアギトは悟った。

「……わ、わりぃ…………ごめん」

 沈黙のふたりに向かって言うのとほぼ同時に、炎の大きさと勢いとが失われはじめた。
 室温が下がるまでは今しばらくかかりそうである。しかし火は元の穏やかな姿を取り戻し、吐き
出す熱気が激減するのがわかる。

「危うく二度目のお迎えが来るところだった」
「……っ! ごっ、ごめん旦那っ、ああああのあたし、ぜっぜぜ全然みみ見てなくて」

 冗談めかして言うと、それでようやく気がついたらしい。ゼストの頬をだらりと伝う大粒の汗を
見て、青くなったり白くなったりしながらわたわたと大層慌てた。
 宙に浮きながら右往左往する姿は見ていて少し楽しいものがある。

「あっ、あ、あ、あたしっ、水買ってくるっ!」

 と言うと、アギトはゼストの外套の中から小銭を脇に抱えて(彼女の身体のサイズではそれが精
一杯の楽な持ち方である)道の上に見かけた自販機目がけて一目散にすっ飛んで行った。あまりの
慌てようが面白くて、ゼストは悪いと思いながらも、くつくつと溢れる笑いを止められなかった。
 快活な小人が外へ出て行ったことで、それまでの騒がしさが嘘のようにぷっつりと立ち消えた。
少しもすると徐々に気温も下がりはじめ、不快なまでの部屋の熱が次第に薄れていく。
 ようやく元通りの、静かな夜が帰ってきた。

「済まなかったな」

 深く息を吐いてから横を見て言う。
 しかし待てど答えは無く動きも見られず、ゼストは諦めて再び壁に背を預けて、言った。

「……その子が心配だったんだ。許してやってくれ」

 このふたりが実は人語を理解できていて、あの男について何らかの情報を引き出せるのなら、そ
れに越したことはない。
 だが彼らがあの男と関わりがあろうとなかろうと、今すぐ結論を聞き出す必要はないとも思う。
 あの剣士が一瞬見せた驚きの表情は、居る筈のない場所に知り合いや顔見知りを見た時の、そう
いう顔だったのではないかと考えられた。ならば、スパイ関係の線は薄かろう。そのことが分かっ
ていれば十分ではないか。
 逆に無理強いした結果、居なくなってしまわれては元も子もない。干渉しなければいつか話して
くれるかも知れない、という考えがあった。力に訴えだす前にアギトを止めたのはそういう理由だ。
汗で小さな水溜まりが出来ているのを見ると、少し遅かった気もしないではないが。
 彼らが何者であれ、結局今明らかな事実は、彼らの存在があの男に一瞬の隙を生んだことだけだ。
 そしてそれがあったからこそ、ゼストとルーテシアはこうして生きながらえている。

「……礼を言っていなかったな」

 赤と青の小人はふるりとも動かなかったが、ゼストは構わずに続けることにした。

「済まない。お前たちがあの場にいなければ、多分この子も、俺も死んでいた」

 その後暫し沈黙が場を支配したが、全速全開で飛んで行ったアギトが数分とせぬ内に戻ってきた。
 ただし先程までのゼストと同じくらい汗まみれになってである。
 どれだけ急いでくれたのかが分かる。それに元々怒ってはいなかったのに加え、しゅんと萎れて
申し訳無さそうな顔をしているのを見ると、先ほど冗談で遊んだのがだんだん気の毒になってきた。
 礼を言ってボトル入りの水を受け取り、一口飲んでから怒っていないと伝えてやる。そうすると
アギトは心の底から安堵したような顔になった。ゼストもそれを見て微笑してから、ボトルの半分
を一気に喉に流した。

「いつまでも無理強いしていたって仕方ない。それよりも、あの男だ」

 そう言ってゼストは例の剣士、カイムの姿を、記憶している限り細やかに話しはじめた。年齢は
恐らく二十代、こめかみに力を込めた表情、首の後ろで髪は左右に跳ね、長剣の鞘を腰に佩き――。
 そのように話をしていくと、どうしてそんなことを今、とアギトは言った。
 対してゼストは答える。いずれまた会うことになる。機動六課の援軍であるなら尚更だ。それも
そうか、とアギトは答えた。ゼストとルーテシアがレリックを追っている以上、それを同じく調査
し確保する者との接触は避けられない。

「……元局員としては、あれが正規の職員でないことを祈るばかりだがな」
「んな危険人物、分かってて見過ごすほど管理局も甘くないって」

 その言葉には本当に救われたような気持ちになりながら、ゼストは話を続けていった。魔法の系
統は不明だが少なくとも火を扱う。見えた鞘の数から察するに複数の武器を所持しており、少なく
ともそのうちのひとつは刃が全て紅色という妙な長剣だった。
 視線が隠れるか隠れないかの位置に前髪伸び。そこから見える瞳は両眼とも青。
 その辺りで、情報が尽きた。たった一度姿を見ただけ、しかも逃げ出してきた身分では、言葉に
して伝えられることがらはあまりに少ない。

「お前はまだ誰にも知られていない筈だ……頼りにしてるぞ。ルーテシアを守ってやってくれ」

 話の末尾に、ゼストはそう言った。
 実際そう思っていた。自分とルーテシアはもう顔を見られてしまっている。それに今回のように、
予想外の存在により精神的な動揺を見せることは二度とないだろう。
 そんな中で唯一、あの男の不意を突くことができるのがアギトである。今この部屋にいる者の中
で、あの男はおろか機動六課にも存在を知られていない仲間は、もう彼女しか残っていなかった。
 ルーテシアが召喚した長剣の魔法があったから何とか難を逃れたものの、ゼストの力では剣士に
歯が立たない。次に何かあったらどうしても彼女の力が必要だ。しかしルーテシアのように危険な
目に遭わせてしまうかもしれない、という懸念は残っている。そんな二重苦があって、ゼストが吐
き出した声色にはやりきれない思いが見え隠れしていた。

「おうよ! 任せときな!」

 ゼストのそんな思いを汲み取ったアギトは、しかしそれを吹っ飛ばすような快活さで答えた。
 彼が自分の身を気遣ってくれているのが分かるが、そんな必要はないとアギトは思う。そもそも
悪夢のような痛みや苦しみなら、実験動物として扱われていた頃にもう何年も経験済みだ。
 その悪夢から救ってくれたゼストやルーテシアのことを、今度は自分が守る番が来たのだ。その
事実がアギトの心の、どこか深いところに沁みていった。彼らを守りたい。ルーテシアをとゼスト
は言ったが、彼女はもちろん、ゼストのことも。

「相手が誰だろうと、このアギト様が黒焦げにして蹴散らしてみせるって!」

 頼もしい言葉だ。簡単にどうこうできる相手ではなかろうが、それにしても頼もしい。気休め程
度だが、ゼストは安堵を覚えた。そうして、ゆっくりと目を閉じた。

「無駄だ」

 暗く閉じた視界。その横合いから、二つに重なる声が響いた。
 ゼストは閉じたばかりの目を、ぱかっ、とおおきく開いた。

「あんだとっ! いくら旦那でも言っていいことと――」

 アギトはゼストの言葉だと勘違いして食ってかかってきたが、ゼストの表情を見てすぐに勘違い
に気がついた。声が小さくなり、続かなくなる。

「悪い……ことが」

 そうして、ゼストと同じ方向へと視線を向けた。向けて、同じく目を見開いた。
 ……近づいてくる。
 あのふたりが。

 二で一の個体を為す精霊たちが、ゼストとアギトの目の前へと向かってゆっくりと浮動する。そ
れぞれが放つ二色の光が、ふたりを追いかけているのが眼に焼き付いた。蒼い残光が水泡の如く、
緋の光芒が灯火のように、各々の軌跡から立ち上っていた。淡い尾が靡いているようだった。
 騎士と剣精とは、半ばぎょっとしつつ、唖然とした表情でその挙動を見つめた。いかなる事柄に
も反応を示さず、接近をことごとく避け続け、石が如く緘黙を貫いてきた者たちである。一体何が
起きた、と疑問が沸き起こるのと時を同じくして、どうして今この時、という思いが彼らの頭を支
配した。ふたりの連れが眼前に至ってもそれは続き、ゼストもアギトも暫しは全く行動を起こすこ
とができなかった。

「今のは……お前たちか」
「そうだ」

 ややあって、のことである。驚きを未だに顔の上から取り除けないままでいるゼストが、ふたり
に向かって確認するように問いを投げた。今までの寡黙さが嘘のように、今回の返答までには僅か
にしか間は開かなかった。
 青い方は高く女性的な、赤い方からは低く男性的な声であった。感情の薄い平坦な印象のそれが、
寸分の時間差も無く部屋の空気を震わせた。左右に分かれた立ち位置と相まって、二種の声が鼓膜
の内側で混ざり合って聞こえた。まるでステレオ音声のようだとゼストは思った。

「お前らッ、どういうことだっ! 何で今の今まで――」

 言葉を無駄と切って捨てた言い草にカチンと来たし、例の男を知っているのを黙っていたことへ
の憤りも重なった。アギトは驚き一色の心理状態から復帰し、今にも飛びかからんばかりの勢いで
叫んだ。
 その言葉が途中で止まったのは、ゼストがそっと掌で制したからだ。
 焦れるような憮然としたような表情のアギトを横目に窺いつつ、ゼストは再び切り出した。

「知っていることを教えてくれないか。あの男に関してなら……何でもいい」

 やはり返答は早かった。

「あれは竜の『契約者』」

 蒼い片割れの高い声が、聞きなれない単語を紡ぎ出した。
 ミッドチルダが管理する世界に現存する魔法には確かに、契約とか誓約、加護や守護というよう
な用語もある。しかしゼストはそのどれとも異なる響きを、言葉の中に感じ取っていた。
 そもそもこのふたりの連れ自体が得体の知れない存在なのだ。自分が既に持つの知識には一致し
ないと考えた方がよかろう。

「……その『契約者』サマが、どうしてルールーと旦那を殺そうとすんだよ」

 ではその「契約者」とは何か――と問い返すより早く、今度はアギトが口を開く。
 不機嫌が声色からありありと窺われるが、ゼストは静観することにした。取り敢えず手が出る様
子はないからだ。

「あの者は血肉に焦がれて人を斬る。己が奪った命に癒される」
「彼の者の微笑みを、そなたらは見なかったのですか?」
「……成る程。滅多打ちにされる訳だな」

 アギトなどはまだ分からないようで、何のことだよとゼストに尋ねてくる。しかし、ゼストには
わかっていた。あの男と直接に会い、刃を向けられた者にはわかる。
 ここにきてようやく、ゼストの中であの男の人物像が、ひとつのはっきりした形をなして浮かび
上がりつつあった。
 像の形は一人の戦士として輪郭を結んだ。しかしそのかたちは、真っ当な戦士のそれではない。
 かつてゼストの同僚にも、前線での過酷な任務で精神を病んだ者はいた。男のシルエットはそれ
と妙に重なる。直観的な印象だが、きっと間違った感覚ではなかろう。
 なるほど勝てるわけがない。
 負けて当然ではないか。
 こちらはあの男に見つかって、仕方なしに刃を向けただけである。
 なのにあの男は、戦いたくて殺したくてたまらなかったのだ。
 その事実を記憶の反芻とともに噛み締めるにつれて、ゼストは目眩がするような錯覚を覚えてい
った。管理局は一体何をしているのだ?
 少年少女を兵士として使うのは人手不足だから仕方ない、と百歩譲ろう。
 更生の余地ある犯罪者に恩赦を与えるのもまだいい。
 外患ばかりに目を向けて内憂を一切顧みぬ姿勢も、この際だから目を瞑ることにする。

(現役の殺人狂を使っているというのか?)

 状況全てがそれを示していた。そしてそのことには絶望感すら感じられる。
 答えが出たわけでは無い、とゼストは自分に言い聞かせた。
 そうではないと思いたい。あるいはあの男が、管理局の目をかいくぐり本性を知られぬまま与し
ていたのだと信じたかった。ルーテシアの生命とゼストの果たすべき目的――そして何よりも、管
理局そのもののために。 

「旦那」

 言われて、鬱屈としはじめた思考を切り上げる。
 見るとアギトが、心配そうな顔を向けていた。
 精神は肉体に影響するというが、気分がどうやら顔色に出ていたらしい。

「今日はもう休もうぜ。明日があるんだしさ……疲れてるよ、旦那……」
「……ああ。ありがとう。だが最後に、あと少し」

 心から気遣ってくれるアギトに礼を告げてから、ゼストは再び向きなおった。恐らくは多くの真
実を知っているだろう、ふたりの精霊たちの正面に。

「一つ目だ。お前たちは何故、まだこの子や俺たちと共にいるんだ? あの男を知るのなら、その
 許に戻る選択もあった筈だが」

 知人ならその傍に行く、ということだってできたはずだ。
 自分ならそんなイカレた男の許には戻らないが、という個人的な考えはさておいて。
 見たところこの精霊たちは、感情の揺り幅がそれほど大きくはないようだ。自分たち人間の正常
な感覚とは(人間とは言い難い生を歩んでいる身ではあるが、少なくともその感性だけは保ってい
ると信じたい)、ものの感じ方が違うことだって十分あり得る。

「あれは『時』を止める者――」

 それに対して、精霊たちの言葉は曖昧模糊な表現に端を発した。

「黒の鍵は解き放たれていた。あの者は人の身にて、此れより異端の『秒針』を刻むのみ」
「あの気配は『終わりを告げるもの』と通じる。異なってはいようが、我々の好む所ではない」
「……?」

 そして意味不明の単語の羅列が続き、抽象的ととれる表現に終始した。ゼストはまるで理解が至
らずアギトを見た。しかし彼女もお手上げのようで、首を横に振るばかりである。
 とりあえず「あれ」というのは例の剣士で間違いなかろう。
 だが、「時」、「鍵」、「終わり」と、その後に続く語の意味が取れない。
 中でも「時を止める」という言い回しが、その中では抜きんでて難解であった。時間を止めると
文字通りに意味を取るのなら恐ろしい異能であるが、そんな能力を持っているのなら自分たちは確
実に今冥府の門をくぐっているはずだ。
 それに彼らは、それが好まぬ種のものであると言った。何か、避けることを選択させる「気配」
とやらがあると言った。おそらく彼の男の精神性ではあるまい。もっと根源的な何かなはずだ。し
かし、ならば、それは何なのだろう。
 いずれにせよひどく言葉が曖昧で、ゼストたちにその真意を看破することはかなわなかった。

「だが……それでは何故、俺たちを追いかける。それこそ理由はないはずだ」
「…………」
「…………」

 返答はついに無かった。どうやら答えたくないらしい。 
 ゼストはこれ以上追及するのを止めることにした。
 もともと、今の今まで何一つ語ろうとしなかった者たちなのだ。これだけの情報を提供してくれ
ただけで、十分にも十二分にも有難い。
 確かに、彼らが何を思って自分たちと道を共にするのかは、未だよく分からないままだ。しかし
少なくとも悪心邪心の類があってのことではあるまい。
 もし仮にそうであるなら、とっくのとうに何らかの行動を起こしているはずだ。それに結果的に
とはいえ、あの男の魔手からルーテシアと自分を守ったりはしないだろう。
 アギトは――と目を向けたが、彼女は再び首を左右に振った。今度の意味合いは理解不能を伝え
るそれではなく、もう聞くことは今のところはない、という意思表示だろう。
 あるいはそれは、ゼストの身体に対しての気遣いなのかもしれなかった。先ほどだって暗に、早
く休息するよう訴えかける仕草を見せていた。これ以上の質問はゼストの睡眠時間を削る、という
配慮も少なからずあろう。申し訳ない気分になる。考えてみれば今日は心配をかけてばかりだ。

(死者が生者に気苦労をかけるなど)

 そう思って、右腕を彼女の前に差し出した。
 アギトはその内心を掴みかねたが、意図は読み取れた。少し不思議そうな表情をしながらも、ひ
ゅるりと飛んでその二の腕に降り立つ。それをぴょんと軽いステップで蹴って、彼のおおきな半肩
にふわりと腰を下ろした。
 外套をのせたままの肩の上は、布越しに体温が伝わってあたたかい。アギトのお気に入りの場所
のひとつだった。ルーテシアの小さな肩の上もそうだ。
 自分をひとつの個として対等に扱ってくれる、この恩人たちの体温がアギトは好きだった。
 ゼストがどう思っているかは彼女には分らない。だがアギトにとっては彼らの生命がどのような
状態にあろうと関係なかった。
 ただ今この時ここにある、己の肌に感じるぬくもりこそが全てであった。

「矢継ぎ早に訊いてしまって済まなかった……最後だ。あの男の名を、知っているか?」
「カイム。『契約者』カイム・カールレオン」

 思った通りの、知らぬ名だ。あれが旧知の局員の変貌した姿でないことだけはわかり、ゼストは
ここにきてようやく、ひとつだけ救われたような気がした。
 その時、もぞり、と何かが動いた。
 続いて、反復する幼い声が部屋に響いた。

「カイム――」

 ぐわっ、と電光石火の動きで ゼストとアギトの首が回転した。紫色の髪がかがり火の光を反射
して、鮮やかな暖色に彩られているのがまず目に飛び込んだ。
 同じくその下にある少女、ルーテシアの瞳は開いていた。上半身を起こして熱い炎の揺らぎに目
を向けている。視線に気づくと、それがゼストたちをとらえた。表面上はいつもと変わることのな
い、感情的な要素が窺えない目をしていた。
 止まり木にしていたゼストの肩を飛び出して、アギトは一直線にルーテシアの目の前に飛んだ。

「ルールー! 大丈夫か?」
「大丈夫……ちょっと、疲れてただけ」

 ルーテシアの声も、相変わらずの静かなそれであった。
 平坦な印象の普段よりも、さらに僅かにトーンが下がっているようにゼストは感じる。恐らくは
彼女の言うとおり、疲労によるものだろうと思った。蟲たちと長剣を召喚し、未知の剣士との戦闘
を終えたのは幼い彼女である。肉体的にも精神的にも、ゼスト以上に摩耗しているに違いなかった。
 しかしそれはあの時の、恐怖に錯綜していた心理の名残と解釈できなくもない。
 幼い心にあの威圧感は重すぎる。完全に逃れた今も、心の中に多分に影を落としているであろう。
 そう思ってゼストは、一言だけ口を開いた。

「……大丈夫か?」
「…………うん」

 様々な意味と思いを乗せた言葉は、彼女にも全てが届いていたらしい。返答するまでの沈黙の間
には思考するような素振りが見られた。その上での肯定の返事である。乱れた心は、今はもう残っ
ていないと窺えた。

「今日はもう遅い。そのまま寝るといい」
「……でも」
「話なら明日でもできる。そうだろう?」

 折角初めて声を聞けたのに、と少し渋る様子を見せる。対してゼストは諌めるように言って、己
の羽織っていた古びた外套を少女の体にかけてやった。
 最後に呼びかけられた精霊たちから、返答はなかった。
 この場合はきっと肯定であろう、と、都合良く解釈すればそう捉えられた。彼らが姿を未だに消
さないという点が、一応の根拠にもなっていよう。
 ルーテシアもそれを聞き入れて、今度は静かに身体を横にした。
 ゼストもその様を見て、やや安堵した表情で目を閉じた。アギトはまだ心配そうな顔をしていた
が、しばらくすると二人の仲間たちの間に降り、膝を抱えて壁に体を預けた。熱くなりすぎぬよう
炎を少しめに抑えて、やがて静かに目を閉じた。

(カイム)

 音を無くした部屋の中で、ルーテシアは心の中に反芻する。
 カイム・カールレオン。
 カイム。それがあの男の名前。
 己の本能を震わせ、感情の片鱗を揺り起こした者の名だ。
 この世に生を享けて初めての、恐怖という名の感情を。
 恐怖だとか。
 感情だとか。
 そういうものとは無縁のまま生きてきたから、実感は今でもないのだけれど。
 少なくともこれだけはわかる。
 あれは敵だ。
 しかも最強にして最大の壁だ。
 感情の希薄な心にさえ、恐怖を引き起こすくらいには。

「……」

 ブランケット代わりにしている外套を小さな手のひらにぎゅっと握りしめて、ルーテシアは燃え
散る火の粉の輝きを暫し見つめる。眼球にあかあかとした光彩が照り返されていて、まるで彼女の
心の炎がうつし出されているようだった。
 自分の目の前に再び立ち塞がり、あの者が行く手を阻む時がくる。そんな、確信に近い予感があ
った。いずれ、あれはまた襲ってくる。
 今のままでは、あの者を打ち払えない。
 ルーテシアは思った。今のままでは、決して勝てない。

 精霊たちが静かに見つめる中、ルーテシアは強く心に思った。
 母の声を聞くという、ルーテシアのただ一つの願い。このままではそれは叶わない。

 このままではいられない。



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