頼まれた鉄屑拾いを始めてから、十分くらいは経っただろうか。ヴィータとカイムが甲冑たちや
ガジェットを字面通り粉砕してくれたお陰で、単純作業とは言え大変な仕事であった。だがそれも、
そろそろ交代で休憩に入ってもいいとのお達しが来た。かがんだ姿勢が少々辛かったので有難い。
 目を上げたティアナの視線の先に、ちょうどシャマルが立っていて、その肩にはリインの小さな
姿も見える。手伝いを頼んできた鑑識班、および情報共有の仕事にあたっている彼女たちの様子が
少し、不穏な空気を含みつつあるように感じた。遠目ではっきりとわかるわけではないが、二人の
上司たちの表情は穏やかな類のそれでは無い。
 今回の敵は相当の変わり者だったから、無理もないと言えば無理もない。
 意志を持つ鎧や、(こちらは直接見ていないが)異形の無機質生命体は新人が見たことないのは
ある意味で当たり前だ。そのうえ意外だったのだが、これらは上司たちにとっても初見の敵である
らしかった。経験ある隊長たちでさえ見たことのない相手だから、本局のデータベースにも登録が
無い種族、ということだってありうる。その出現が意味する様々な可能性について、集めた証拠を
もとにして意見を交換しているところなのだろう。
 その場にドラゴンはもういない。
 話が一区切りした段階で、引き継いだシャマルたちに任せて勝手に離れて行ってしまっていた。
 最早語れることは無しということなのか、それとも竜が分からない話をしているのか、はたまた
シャマルやリインたちの方から、席を外してくれと頼んだのかどうなのか。
 ただいずれにせよ、ドラゴンやカイムと今回の敵が深く関わっていることには間違いなさそうだ
と、はやてから正式な通達が届く前に思った。交戦中のカイムの錯乱じみた激昂は、どう考えても
私憤と呼ばれる種のそれだ。もちろん未知の敵に対する態度ではないし、ガジェットに向ける敵意
とは明らかに違う。もはや竜騎士たちと今回の異形との間に、浅からぬ繋がりがあることは明白で
あった。
 だからどうこうということはない、とティアナは思っている。
 カイムの本性を知った今、多少の恐怖感はぬぐい切れぬものの、嫌悪や憎悪に至るまでを抱くと
いうことはなかった。
 そもそも彼らは、異世界の出身である。それも時空管理局ですら全く把握しきれぬ領域の住人だ。
言葉と交換に力を得る秘法など、まさにその典型である。自分たち管理局員の常識を外れた人生を
歩んできた、というのは簡単に想像ができた。
 ティアナは自分の聡明さ故に、絡み合った思考を紐解き答えを出すことに長けている。
 論理を道標に導いた答えは、自分の頭脳の中にも抵抗なく受容されていた。人間とは
思えぬ邪悪な一面を白日の下にさらした後も、カイムに対して嫌悪の感情がそれ程強くあらわれな
かったが、それはひょっとすると、このような理由に因るのかも知れなかった。彼には彼の人生が
ある。そしてそれはきっと、精神を狂気に染めるほどに過酷なものだったのであろう。それだけの
ことだ。確かにあの時の男の顔は身の毛がよだつほどの凄まじい形相だったが、そう考えれば一定
のラインで理解を持つことはできた。
 それに私情を戦いに挟むということなら、種類の違いこそあれ、ティアナだって人のことはとや
かく言えはしないと自覚してもいた。あの男が個人的な激憤によって戦うのと、自分が夢のために
力を求め戦うのと、それ程には差がないようにティアナは思っていた。

「だから、思ってないんだってばっ! 仕事中にそんなこと!」

 そんな思考を巡らせながら、そろそろ自分も少し休もうかと思っていると、スバルの声が鼓膜を
震わせているのを脳が認識した。
 おろしていた目を再び上げると、スバルはティアナの脇にやってきていた。必死な顔をしながら
何かを喚いている。全身が何かを訴えかけているのが分かったが、申し訳ないことに何一つ聞いて
いなかったし覚えてもいない。右耳から入った言葉は頭の中を素通りして、全部左から抜けていた。

「ん? なに?」
「き、聞いてなかったの、今までずっと!?」
「うん。ちっとも」
「……うぅぅうぅぅぅうううっ!」

 正直に答えると、聞いたスバルはぷくぷくと顔をむくれさせた。珍しく怒っているようだ。
 まあ仕方がない。日頃の迷惑行為はともかくとして、今回ばかりはこちら側に非があるだろう。
そう思って立ち上がり体ごと向き直ると、その手の中の半透明な袋に、鉄の欠片がたくさん入って
いるのが見えた。ずっと話しかけていただけではなく、仕事はしっかりこなしていたらしいと感心
した。

「はいはい、悪かったわよ。で、何?」
「……まじめにあやまってない」

 頬を膨らませたスバルの言うことは割と尤もであった。
 しかし数秒と経たぬうちに、もういいかと簡単に表情を戻した。まったくもってお人好しもいい
ところである。そういう細かいことにこだわる浅い関係でないというのは確かに事実なのだが。

「あれ、違うからね。あんなこと、思ってないもん」
「あれ、って、何よ」
「お腹減ったーって、仕事中に考えたってヴィータ副隊長言ったけど、違う! ……ってこと」

 そんなことをヴィータが言って、茶化していたような記憶はある。
 しかしそれをまだ引きずっているのはどういうことか。というよりも、先ほどから自分にずっと
話しかけていたのは、たったそれだけの用事のためなのか。

「……アホくさ」
「あ……! あ、あ、アホって! わたしはホントに」
「はいはいはいはい。ほら、向こうで呼ばれてるわよ。行ってきたら」
「〜〜っ! ティ、ティアのばかばか! いじわる!」

 白衣を着た男性職員が呼んでいるのを教えてやると、少し逡巡を見せてから、スバルはぷんすか
怒ったまま捨て台詞を吐いて、ずんずんと歩いて行ってしまった。仕事はしているらしいから口に
出しはしないが、もう少し集中してはいかがだろうか。気にしていたのかもしれないけれども。
 膝頭に乗っていた草の葉を払って伸びをひとつすると、ふう、と腹の奥底から息が出た。続けて
吸う空気はそれよりも涼しくて、流れる喉の中が心地よい。任務の前や最中では意識が回らなかっ
たが、この付近の空気はからりと乾いて清んでいた。鬼とも紛う男が吸ったのと同じそれだとは、
到底思えないくらいに爽やかだった。
 と思っていると邪悪な笑顔が脳裡に浮かんでさすがに指先が強張った。
 同時にあの圧倒的な破壊行為を思い出して小さく肌が震えた。

「ティアナ」

 背後から話しかけられて振り向くと、ヴィータが下から見上げていた。
 警戒中に持ち歩いていた鉄槌グラーフアイゼンはティアナたちの得物と同様、待機モードになっ
ているらしく手の内にはなかった。その代わり何枚かの紙がバインダーに挟まれて握られている。
おそらく作戦報告書か敵性体の分析結果か何かだろう。少し気にはなったが、知る必要があるなら
いずれ通達されるだろうと意識を切った。
 と思っていると、反対側の手に持っていた何かをぽんと投げてきた。
 水の入ったボトルだった。訊くとなのはからの差し入れとのことだ。割と当然の話だが任務中に
水分補給の暇はなかったし、一段落した今も仕事中であることに変わりはなかった。きんと冷えた
のをありがたく一息で飲み干すと、猛烈な勢いで全身に沁みていった。

「…………っ」
「一気に飲むからだろ」

 頭の中が痛くなってぎゅっと目を閉じるティアナを見て、ヴィータは小さく笑った。

「それ集めたら上がっていいぞ。少し体休めとけ」
「……はい」
「スバルは……っと。あっちか」
「伝えておきますか? 同じ話でしたら」
「ん? ああ。助かる」

 刺すような痛みが引いてきたティアナに、ならこれも、とヴィータはもう一本ボトルを渡した。
ところでスバルはと見やると、興味津々といった様子でしきりに頷く後ろ姿が目に入った。鑑識の
職員の話に聞き入っているらしい。ぷりぷり怒っていたのは収まったのかどうなのか。

「怪我、してねーよな?」
「はい。ありがとうございます」

 実際ティアナに負傷は無く、クロスミラージュにも少しも異常はみられない。
 しかしその問いを聞くのは、ヴィータに戦闘終了直後、駆けつけたなのはから事後処理開始時と
続いて三回目だ。
 少し心配し過ぎではなかろうか。いや身を案じてくれるのは嬉しいし有り難いが、未熟とはいえ
これでも日々鍛練している魔導師だというのに。

「……でも、それ、さっきも言いませんでしたっけ……」
「いや。違う。訊いたのはシャマルだ。頼まれたんだ」

 ティアナは思い直した。どうやら考え違いだったらしい。三度目の問いはヴィータの意思ではな
かったようだ。

「心配なんだよ。空より地上の方が激しかったからな。アイツの火傷のこともある」

 見てみると、シャマルはまだ他の職員たちと話し合いを続けている。手のひらの上にいくつかの
金属片が載っているのと真剣なその表情を見ると、激しい意見交換がまだ続いているらしかった。
カイムが己の炎から負ったらしい火傷をずいぶん心配していたようだし、それが半ば自業自得だと
いうことはあっても、ティアナだって気がかりでいた。
 と思っていると、考えが別の方向へ動いて行った。そのおもむくままに口を開いて、ティアナは
ヴィータに向かって問いを発した。

「あの……ヴィータ副隊長」
「ん?」
「副隊長は、怪我は……大丈夫ですか?」
「あたしは大丈夫だ。そもそも連中、アイツに照準合わせてたしな」

 そうヴィータは言ったけれども。
 やっぱり凄い、と思った。
 言われた言葉は正しくて、先の地上戦においての標的はカイムの方が主だった。しかし彼が敵に
最初に包囲されたとき、その輪の中にはヴィータも一緒に居た。スバルが強引に機を作り出すまで
シャドウの相手をし続けていたし、その最中で同時にガジェットの弾丸を捌ききらねばならなかっ
たのだ。バリアジャケット装備といえ、無傷でやり過ごせるものなのか。
 いやしかし、そんなことが可能な技量があるからこそ、堂々と八神はやての守護騎士を名乗って
いることができるのだろうとも、続けて思った。己の身を守ることが出来ぬ者が、主とする人間の
命を守ることなど到底できるはずもないのだから。
 そしてそれが、見ていたティアナをも揺さぶる種のものであったことは間違いない。
 小さな吐息。

「……安心しました。何よりです」
「…………あれくらいでやられはしねーよ」

 その中に安堵以外の何かが含まれているのには気付いたが、正体までは掴めなくて、ヴィータは
踏み込んで問うことはできなかった。
 ティアナのそれを言葉にするなら、感嘆の二文字がよく合うだろう。
 圧倒的多数に包囲され苦闘を強いられても決して怯むことなく、敢然と戦うヴィータの姿は陣の
外から敵を墜とすティアナを打ち、普段以上に奮い立たせた。隣で同じく闘っていたスバルが強硬
策に出たのも、その熱気に中てられたところもあるのだろう、きっとそうだと今では思う。暴勇を
振るって見る者を恐怖させたカイムに対し、ヴィータのそれは他者をも奮起させる勇烈であった。
 教導では主な同じ前衛タイプのスバルを見てきたため確然とした実感はそれ程大きくなかったが、
だがしかし今回改めて思うに、強い。
 当たり前だ副隊長だし。
 そう当然だ先輩なんだし。
 時間というどうしようもない差が有る(上役たちのなかでヴィータだけはそう見えないが、実は
自分たちより長く生きているらしいことだけは聞き及んでいた)限り、たとえ最高の努力をしても
及ばない部分があるのは仕方がない。仕方がないのだ。
 でもその及ばない部分があまりに多いような気がした。

「ん」

 声に気付いて顔を上げると、ヴィータの首が横を向いていた。何が見ると、こちらの方に駆け足
で近づいてくる人影があった。
 なのはだった。
 戦場跡はこのホテル正面のみではない。森にはカイムが焼き払った場所と、空中戦の残骸が落ち
た所の二ヶ所が調査対象となっていた。そちらの方にも人員が割かれていて、シグナムやなのはは
その手伝いや検分に当たっていたのだ。
 それが、戻って来た。片方にまとめた髪を揺らして目の前まで走ってくる。飛んで来ればという
ところだが、戦闘終了と同時に飛行は制限がかかっている。飛行に比べて歩くのがかなり不得手な
ドラゴンにのみ、例外的にはやてが許可を取っておいてあるだけだった。
 止まって小さく息を整えるその様子を見たティアナは、不意に鼓動が跳ねるのを感じ取った。

「遅かったじゃねーか。捜してたりしたのか?」

 ヴィータが問うと、呼吸を取り戻したなのはは複雑曖昧な笑みをつくった。

「……あの人のことは気になるけど、今は……それに、フェイトちゃんが頑張ってるし、ね」
「そっか」

 最後までホテル内にいたなのはは、記録できた映像でしか戦闘の顛末を知らない。だがそれでも
見るべきところは見ていた。敵もさることながら、仲間たちの様子は殊更に。
 本性を初めて露にしたカイムに、積極的に接近しようと試みたフェイト。なのはは今は、それを
見守ることを選んでいた。心配だし気掛かりだし、キャロをはじめ六課が力を借りたようにこちら
も力になれればと思ったが、しかしなのはは踏みとどまっていた。人の人生に一度に多くが踏み入
れてはならないと考えていたからだ。それにカイム自身がそれを望んでいないと、態度や表情から
何となく感じていた。

「本日只今をもって、臨時行使の小隊指揮権を返還致します」
「受理します」
「以降、副隊長ヴィータ、以下隊員二名は高町なのは一等空尉の指揮下に復帰します」
「承認します」
「……やってらんね。口頭確認とかうざったくて仕方ねぇ」
「あはは……ま、まぁ、形式的なものだし。ティアナも、本当にお疲れさま」
「あ……いえ」

 会話の中から外れ、微笑みながら労われたのが不意を突いた。ティアナは思わず曖昧な答えを返
してしまい、聞いたなのはは不安げな顔をした。

「……大丈夫、ティアナ? ホントに、怪我は……」
「い、いえ。ちょっとびっくりしただけですから。本当に、怪我とかはないです」

 慌てて手を振りながら否定する。なのははそれでも心配そうな目をしていたが、少しするとそれ
も収まり、いつもの真っ直ぐな視線をティアナに向けた。
 そして言った。

「作戦行動、映像と書類で見たよ」

 少しどきりとした。

「クロスミラージュの照準は正確だったし、最後の狙撃もしっかりしてたね。上達してるよ」

 ティアナは小さく、はい、と答えた。
 その言葉は確かに、正しいと思うし実感もある。
 咄嗟にスバルを守った最後の狙撃は、一瞬の判断による抜き撃ちに近かった。悠長に狙いを定め
ている暇など無かったあの状況で、勝手に動く的をとらえ中心を射抜いたあれは、改心の射撃であ
ったとティアナ自身感じていた。
 しかしそれでも満たされない何かがある。
 大群にも敢然と立ち向かい無傷で生還した鉄槌の騎士に、鮮烈なまでの蛮勇を見せた剣の悪魔。
 華々しく空を舞い敵を討った二頭のドラゴン。成長を続け、本格的に空中戦に参加した子供たち。
 そして今回咄嗟の閃きを見せ、戦闘センスの片鱗を顕した長年の相棒。
 どうしても彼らの姿が、頭の中にちらついて離れない。今回自分で実感した力が彼らに比肩する
それだとは、ティアナにはどうしても思えなかった。
 だってそうじゃないか。
 ガジェットと動く甲冑に囲まれて攻撃され、無傷で切り抜けるの多分ムリだ。
 ここ最近ぐんと力を増したフリードリヒの火力に、挑んで勝てるとは思えない。
 高速の空中戦闘はできないし当然空を焼き払ったり森を灰にしたりもきっと不可能だし。
 何より他の新人三人の成長速度が異常過ぎる気がしてならない。
 優劣の問題でないということはティアナも十分承知している。
 それに言うなら今回ティアナは、己が任務を完遂したと思ってもいた。敵戦力を確実に削ぎ、ス
バルを不意打ちから守ったと自認していた。人は集団で行動する場合、己が果たすべき役割が大抵
決まっているものだ。それを全うするために日々鍛練を続けているわけだし、それに上下の差など
ない。
 だがしかし背を這う不安感があった。自分に限界は無いのだろうか。いつか越え得ぬ壁にぶち当
たり、夢破れる日が来はしないのか。
 上司は圧倒的強者、同僚は恐ろしい成長度を持つ金の卵。降ってわいた協力者は、訳の分からぬ
異能の者。自分は果たして、これらに並び立つ力を持っているのだろうか。

「この分だと、訓練の方もレベルを上げて良さそうだね。スバルもエリオもキャロも、確実に力を
 つけてるみたいだし」
「スバルの腕力はもういいからな。あいつにはもう二度と物を投げさせないって決めた!」
「う、うん、それは……とにかくティアナ、お疲れさま。今後はそれで行ってみようか?」
「よろしくお願いしますっ!」

 色々なことが分かっていて、人には人の役割があると知っていても、しかしやはり複雑だった。
 ただひたすら、強くなりたいと思った。背中すら見えぬこの教導官にさえ近づきたいと思った。
 良く言うなら向上心。
 それが教導に当たるなのはたちの想像を超えていると、なのはは今は気付かなかった。ティアナ
自身しっかりとした結果を出していたこともあって、なのはもヴィータも、彼女の心の内を知るこ
とはできなかった。
 




 ドラゴンとフェイトの会話には暫く間が開いた。
 フェイトが口を閉ざしたまま動かないのを、カイムの居所の聞き出し失敗ととらえたのか、少し
すると肩にフリードリヒを乗せたエリオとキャロが、沈黙する二人の眼前へと歩いてくる。
 フェイトの前まで来た子供たちが口ごもり、何やら言いづらそうにしていると、フェイトは二人
の肩に手を置き、

「ごめんね」

と小さく言った。
 時を置いて会えばいいだろうと続けてドラゴンが付け加えると、しかし二人は目も当てられない
ほど狼狽した。考えを看破されているとは毛ほども思っていなかったらしく、相当に慌てた様子を
見せた。わからいでか。あの状況で。
 わたわたと慌てふためくキャロとエリオは随分と面白かったが、しかしドラゴンは、そこを弄り
回すことはしなかった。
 エリオはもとより、キャロでさえも親しい仲ではなかったのに何故――という一抹の疑問はある
が、いずれにせよこの小さき者たちも、カイムを気にかけているのがわかる。そのこと自体は竜に
とって好ましくあった。苦を味わった者の連帯感のようなものがあるのかも知れないと思ったが、
いずれにせよ無償の優しさであることには違いないのだ。

「……元凶はどうなった?」

 不意にドラゴンが長い首を曲げ、フェイトを視界におさめてから問いかけた。
 元凶、という言葉にフェイトは一瞬だけ逡巡したが、すぐにその意味を解した。レリック関連の
事件における最重要参考人――ジェイル・スカリエッティではなく、今回の一件では例の逃走した
らしい召喚士を指している。

「結局……」
「逃げたか」

 はい、とフェイトは答えた。
 この作業に当たったのはシグナムで、鑑識職員を護衛しつつ捜査を行っていた。
 カイムに焼き払われた森周辺に探知魔法をかけたりもした。だがその付近は、既にもぬけの殻。
 転送魔法の痕は未だ発見されていないが、それがあろうとなかろうと、逃走開始からはかなりの
時間が経ってしまっている。いずれにせよ何らかの手段で、手の届かない遠方に撤退してしまって
いることは明らかだった。

「いつまでも根元が絶てぬ。……思えば、ずっとそんな戦いばかりであった」

 ドラゴンのその言葉に、フェイトは少しだけ驚いたような表情をした。
 彼女の隣で様子を窺っていたキャロも、かなり意外そうに目を見開いた。
 この竜が自ら己やカイムの話をすることは、今まで一度もなかったからだ。
 問われればそれほど断ることはなかったし、今回の事件のように必要ならば語ることはあったが、
外からのアクション無しに自分たちの話を切り出すのはこれが初めてだった。

「『帝国』って、そんなに強かったんですか?」

 訊ねたのはキャロであった。
 森を訪ねた彼女に対し、「帝国」が力の比較の際に引き合いに出されたこともある。しかしその
詳細はまだ知らなかった。気になっていた。
 何より、ドラゴン自身の意思によって語られる彼らの世界というものが、どういうものであるか
知りたかった。

「兵の力はともかく、数と統率の点では圧倒的だった。魔物をも操り、竜ですら与する者もおった」
「ドラゴンも……?」
「大抵は知性の低い下等種どもだがな。鬱陶しいことこの上なかった」

 話しながらもドラゴンは内心で驚いていた。
 会話そのものはあまり嫌いではなかったがこうまでも饒舌ではなかった。
 何も必要のないこの状況で自らの世界を語るほど軽い口ではなかったはずだ。
 不思議に思いつつも、一度はじまった会話は簡単には終わらなかった。流石に最終局面で戦った
天使たちについては伏せたままにしておいたが、インプ、オーク、グリフォンなどの魔物を語り、
異様な帝国の軍容を明らかにする口は止まらなかった。会話に飢えていたわけでもないのに何故、
とドラゴンは内心で怪訝に思う。
 一人の女と二人の子供たち、そして一頭の子竜は、皆その言葉に聞き入った。死霊の騎士アンデ
ッドナイト、飛竜エンパイアドラゴン。管理局の把握せぬ世界の出身なのだから当然と言えば当然
だが、エリオはともあれ鳥獣使役の技術を持つキャロも、経験豊富なフェイトでさえ知らぬ魔物た
ちだ。未知に対して興味を抱くと同時に、これらが今回のように攻め入ってきたら……という想像をも
られた。
 ドラゴンが話すにつれ、魔物たちの住処は連合軍の拠点から、帝国本拠地の方へ移行していった。
 それにつれて言葉になる魔物の種も凶悪かつ屈強なそれに変っていく。それらの中でもフェイトの
意識に止まったのは、大鎌を持ち天空を席巻する死神スペクターだった。自身と似た得物を使うと
いう時点で気にかかり(愛用のデバイス・バルディッシュは周りからは戦斧と呼ばれ見なされてい
たが、通常使っている刃の形状はむしろ鎌と言った方が近かった)、詳しく聞いてみて驚いた。鎌
を持っていれば竜の火炎さえも完璧に弾き飛ばす、厄介極りない敵とのことだ。
 そのかわり遠距離攻撃の手段には乏しく、鎌さえ手放せば脆い敵ではあるようだが厄介どころの
話ではない。どんな攻撃でもはじくのならはやての巨大魔法はどうか、なのはの集中砲撃ではどうか、
などと次々に考えが浮かんでは消えていった。現実に在って欲しくないことは間違いない。
 そのように考えながら話を聞き続け、流石にフェイトも気がついた。話を続けるドラゴンの声に、
若干の戸惑いが感じられた。
 こうして詳しく話を聞くのは初めてだ。それにドラゴンは以前、カイムの生を語る必要がないこ
とを願っていると言っていた。そういうふうに考えてみると、確かに今この状況は妙だ。今後この
世界に現れるかもしれない敵とはいえ、この竜はそれだけの理由で口を開くことはないような気が
した。
 どうせ覚えられまいと思っているのだろうか?
 そう考えたが直後、いや、とフェイトは思い直した。記録できようができまいが、このドラゴン
は話さないことは絶対に語らない。そんな気がするし、それは今までの傾向からも明らかだ。竜に
訪れたらしいこの心境の機微は、いったい何を意味するのだろう。フェイトは内心首をひねった。
しかしドラゴン自身にその答えが出せなかったように、フェイトもすぐ解答に達することはできな
かった。
 ドラゴンの話はしばらく続いた。魔物たちの種を一度に語り尽くすことはできず所々は掻い摘ん
だ話になったが、多くのモンスターが挙げられた。屈強な亜人や、しつこく付きまとう死霊ども。
魔物以外にも、カイムを襲った中には様々な種の帝国軍兵士たちがいた。
 その最中、ひとつの敵に話が及んだ時に、エリオがぴくりと反応を示した。一瞬はっと顔を上げ、
誤魔化すかのように俯いて見せた。

「?」

 自分でも何故ここまでというくらいに語ってきたドラゴンが、この時ばかりは口を一度閉じた。
これまでエリオは話に出てくるモンスターたちに聞き入っていて、今のように明確な応答を見せる
ことはなかったからだ。
 理由が分からずにエリオを見るドラゴンの前で、フェイトはしかしそれを悟ってエリオを見た。
気づいたエリオもまた、フェイトに顔を向けてきた。複雑そうな顔をしていた。
 ちょうどその時話に上っていたのは、人造の巨人サイクロプス。
 人の手で生み出された、という言い方が頭の中で引っかかって、思わず反応してしまったのかと
フェイトは思った。
 そしてそれは当たっていた。

「どうした」

 いつまでも黙っていては先に進まない。ドラゴンはエリオに、話の続きを促した。
 言われたエリオは少しだけ視線を逸らし、ドラゴンではなくフェイトを見つめた。
 視線を受けて、フェイトはこくと頷いた。
 それを確認して、エリオは尋ねた。

「人造、って、具体的には?」
「詳細は知らぬ。人工的に繁殖させたと聞いたが、それがどうした」
「……僕も、似てるんです。その……完全に戦闘用、というわけじゃないんですけど」

 同僚たちに研究所育ちの施設っ子であることを話した時のような明るい目の輝きは、今この時の
エリオからは少しだけ陰っていた。
 何も知らない人間にならともかく、人工の戦士と実際に何度も刃を交え、殺し合ってきた存在に
それを話すのは、割合と高い精神年齢を持つエリオにとっても、些かの躊躇を伴うものであった。
 しかしドラゴンはそれにも驚かず、ただ静かに視線を落とすばかりであった。
 続けていいのだろうか。と少し戸惑って、しかし少しもするとエリオは再び口を開いた。

「クローン、って言うんですけど……人間のコピーを作る技術で、僕は。それで……気になって」
「私とエリオは、その技術で生まれたんです」

 会話の合間を見て、フェイトは続いて、自分も特殊クローンの一種であると伝えた。
 母・プレシアや、姉であるアリシアの話、そして一連の研究計画であるプロジェクト・Fのこと
はさすがに出さなかったが、フェイトはそれ以外の何物も隠すことなく、人造魔導師たる己の出自
を明かした。エリオがそうしたのと同様に。
 その話を聞きながら、エリオは自分の今の行動を振り返った。何故己の生のいきさつを伝えたの
だろうと疑問に思った。
 違法技術によるクローン生産が露見し、地獄が始まったあの日のことは今でも時折思い出す。
 今はもうそれほど気にしているわけではないけれど、当たり前だが決していい記憶という訳では
なかった。親しくなった相手――既に過去、キャロには少々話したことがあった――には話すかも
知れないと思うが、自分から進んで知って欲しいようなことではない。
 話さず誤魔化すこともできたかも知れないし、その必要に迫られたという訳でもなかったと思う
のだけれども。
 そう考えて視線を動かし、普段よりもドラゴンを見ると、でも少しだけわかったような気がした。
 きっと距離が近くなったからだ。
 エリオはそう思った。

「一つ目の巨身に生まれなかっただけ喜べ。人の目にはなかなか厳しいものだぞ」
「そ、それは、確かに……イヤですね」

 自分が片目の巨人になった姿を想像して、話を向けられたエリオは少し身震いしながら苦笑した。
ドラゴンもその様子を見て、柔和な視線をエリオに向けた。
 こうしてドラゴンと語らうことは今までなかった。
 それに今まではカイムのことさえあまり知らなかった。
 しかし彼の出自を知り、自分たちに限らず六課の面々は彼のことを気にかけ始めた。きっかけは
ともあれ、それによってカイムと自分たちとの距離はある程度近くなった。明確な拒絶を示す者は
なく、背を向けた彼を見る視線は戸惑いを含んでいたものの、どれもがどこかに心配そうな色を宿
していたようにエリオは記憶している。
 それがきっと、エリオが己を語った理由なのだろう。心情的に彼らを近しい存在と感じるように
なったから、話そうと自分は思ったのだ。彼はそのように理解した。
 そしてドラゴンはもしかしたら、そのことが嬉しかったのかも知れない。
 自分だってキャロやフェイトや同僚たちが大切にされたら嬉しいものだ。バランス・インバラン
スとかいう、心理学の単語を本で読んだことがあるのを思い出した。大切な人を大事にされたら、
大抵の場合人は喜ぶものだ。エリオはそう考えていたし、きっと間違いではないはずだ。
 同時にそれは、もし考えている通りなら、ドラゴンがどれほどカイムを大切に思っているかとい
う証にもなる。
 そう考えると、竜の声の機微から感じた迷いのような感情の響きも、エリオには何となくわかる
ような気がした。自分が人を信じることを思い出し、フェイトを慕い始めたころと同じだ。あれは
愛情というものに不慣れな者の声だった。記憶の糸をたぐると、その考えは確信を持ってエリオに
は受け止められた。

「どうしたの、エリオ君?」
「……ううん、何でもないよ」

 訳もなく嬉しくなって、いつの間にか微笑んでいたのか。
 キャロが小声で尋ねてから気がついて、エリオはすっと唇をもどした。キャロは分からず、首を
ひねるばかりだった。
 その直後だろうか、ドラゴンが言った。

「……知り合いか?」

 え、とフェイトが声を出した。小さく話すエリオとキャロが気になって、少しだけ目を外してい
たのだ。
 いつの間にかドラゴンの視線は彼女たちから外れて、職員たちが論を交わすホテル正面方向へと
移っていた。見ると、青年と思しき人影がひとつ、彼女たちの方向へと歩いてきている。
 鑑識の職員と挨拶を交わす髪は明るい茶髪だ。フェイトが目を凝らして少しすると、眼鏡をかけ
たやわらかな顔立ちが明らかになる。目は明らかにこちらを向いていた。
 エリオとキャロは首をかしげたが、フェイトにはそれが誰なのかすぐにわかった。
 ユーノ・スクライアがそこにいた。
 オークション関係の仕事がちょうど一段落したところなのだろう、書類の入った封筒を脇の下に
挟んで歩いてくる。どうしてここにと、フェイトは一瞬目を丸くした。しかし少し考えると理由が
色々あることに気がついた。なかなか会えないなのはが折角近くにいるということも小さくはない
し、新種の敵が出たという情報を誰からともなく聞いて、それが気がかりだったのかも知れない。
 もしくは任務前に話した、ドラゴンとカイムの持つ異能の一件か。
 そう考えを巡らせていると、エリオとキャロが何かを期待して自分を見ているのにフェイトは気
づいた。ドラゴンもいつのまにか瞳を向けている。
 フェイトはとりあえず、やってくるユーノに向かって小さく手を振った。応じて右手が上がるの
を見てから、彼を直接には知らぬ者たちに、彼のことをかいつまんで話しておいた。隊長たちの昔
からの友で、なのはとは無二の親友だと。

「鑑定おつかれさま」
「六課の皆も。無事みたいで、よかった」

 やがてユーノが立ち止まると、フェイトは労いの言葉をかけ、優しい笑顔と共に礼が返ってきた。
 赤い竜に意識を向けているのがわかるが、驚愕した様子はない。オークション開始の前に彼らの
話を少しだけしたが、それを覚えているのだろう。

「新種の敵なら、残骸はあっちだよ?」
「ちょっと気になって、こっちにも来てみたんだ。えっと、エリオと、キャロ、だっけ」
「あ、はい! ユーノ……さん?」
「はじめまして!」

 姿勢を直して礼儀正しくふるまう子供たちを微笑ましく、同時に頼もしく思いながら、ユーノか
らも挨拶を交わした。フェイトから聞いた話によると相当に辛い過去があったようだが、暗い影は
見当たらない。良く育ったなと感心した。(後でフェイトにその話をすると、嬉々として延々三十
分は子供たちの自慢話を聞かされ続けた。金輪際この手のことを口にするまいとユーノは誓った)
 子供たちとの挨拶が終わると、さて、とユーノは気持ちを入れ替えた。
 そうしてドラゴンの顔をまっすぐに見上げた。
 ここに来たのは新種の敵の情報を聞いたからでもあり、もう少しなのはと話してみたいからでも
ある。
 しかしそれ以上に気になっているのは、フェイトが考えた通りのことであった。

「ユーノ・スクライアです。お話を、フェイトから少し」
「何の話だ?」

 本当に人語を解したのには心の中で感嘆しつつ、ユーノは少し離れた隣に立つフェイトに目配せ
をした。見たフェイトは小さく頷いてみせた。

「あなたたちの、封印の魔法について尋ねたんです。にいさ……クロノ提督から、お話を聞いて」

 封印、と言われて何のことかと思ったが、次のときにはドラゴンも理解が届いた。

「『声』か。『母』に放ったあれか」

 ユーノは頷いた。フェイトも少し身を固くして首を振った。
 フェイトは半ば固唾を飲むような思いであった。
 母とか天使とか声紋とかおおいなる時間とか。
 そういう訳の分からないものに、フェイトは今のうちにできる限りの決着をつけておきたいと思
っていた。
 他ならぬカイムのために、フェイトはまず彼にかかわる様々なことを知ろうと思っていた。
 人間不信に陥り何者をも拒絶していた頃のエリオに接して分かったことだが、そういう心に傷を
負った人間は、そのままでは如何なる事があろうと、自らの意志で他人へ歩み寄ったりはしないも
のである。
 大切なのは時を待つことではなく、こちらから歩み寄ることなのだ。
 エリオやキャロの実例から、フェイトはそのように信じていた。まだ幼かった子供たちより遥か
に難攻不落な相手であることは無論であるが、そのことはきっと間違いではないはずだ。「知る」
ことは「近づく」ことなのだ。
 しかし、先ほどからずっと多くの魔物について聞かせてくれたが、ドラゴンは天使やら何やらに
ついては完全に情報を伏せたままでいた。余程の事がなければ話したくない内容なのだろうとは、
割と簡単に推測がつく。
 そういう意味では、ユーノの登場はこの上ないタイミングであった。自然な流れとして更に深い
話を聞くことができるかも知れなかった。それでもこの竜が話したくないなら、その時はその時だ。
無理に話を聞くつもりはない。その辺り、ユーノなら強引に情報を引き出すようなことはしないだ
ろう。この場にいるのが義兄クロノなら少しわからないが。

「少し、お話を伺いたいのですが」

 そういうフェイトの事情を知らないユーノは、そのとき個人的な興味から問いを発していた。
 時間だとか声だとか、クロノから訳のわからない単語を並べられた時は一体何のことやらと考え
たが、オークション開始前にフェイトから聞いた話でおおまかな事情がつかめ、そして今は非常に
興味を抱いていた。
 結界・封印系統の魔術が専門というわけではないが、己の得意とする領域において未知の部分が
残っているのは、彼にとっては何となくイヤだった。必要という訳では全然ないのだが、どこかに
釈然としない思いがあったのだ。このあたりの強い好奇心は学者の本性、考古学者の性とも言うべ
きなのかもしれない。探究の心無くして学問はやっていられない。

「……残念だが、あれはあのとき限りだ。もう見せることは叶わぬ。話すこともならぬ」
「?」

 しかしこの答えには、二人とも頭の中に疑問符を浮かべるばかりだった。
 何も返せずに、ただ竜の紅色の顔面を見続けていると、ややあってドラゴンはこう続けた。

「覚えて居らぬのだ。理由は分からぬが……術の式も、何もかもが記憶にない」

 この竜は嘘は言わない。
 それはこれまでの様子からフェイトが確信するところであり、今会ったばかりユーノも何となく
その雰囲気を感じ取っていた。話したくなければはっきりそのように言う。このドラゴンはそうい
う性格をしている。
 ではそうすると、映像に残されたあの未知の魔法は、竜にとっても得体のしれない術だったとい
うことなのか? ならばそれを何故使うことができたのだろう。それさえもが、あの都市に出現し
た巨人『母』のもたらした何かなのか?

「見たところ知恵者のようだが、封印の術に詳しいのか」

 方や博識でなくては務まらない執務官。方や探究心に富む優秀な若手考古学者。
 ぐるぐると回り始める思考の回転は止められず、ドラゴンの言葉がかかった後になってからよう
やく現実に引き戻された。慌てた様子で、問いに対してフェイトが答えた。

「ユーノ先生は結界や封印系の魔法なら、六課の誰にも負けないスペシャリストなんです」
「結界……か」

 竜はそう言ったのを最後に、暫く黙りこんでしまった。先ほどまではよく動いていた顎が完全に
停止し、フェイトたちに向かっていた意識と視線が方向を外している。
 何を考えているのだろう。
 フェイトは思い、問おうとした。しかしその前に右から左から、一対ずつの視線を感じ取った。
 エリオとキャロだった。子供たちが、どこか恨みがましそうな視線をフェイトに向けていた。
 話に置いていかれてしまったことを根に持っているのだろう。
 フェイトは苦笑して、ドラゴンに目を向けた。ドラゴンは未だに何かの思考から抜けきらない様
子だったが、視線に気づくと一言で許した。
 それを聞いたフェイトは、小さく笑うユーノの視線を横合いに感じながら、幼い子供たちに向っ
て簡潔に話しはじめるのだった。時空管理局が唯一かろうじて記録した、ドラゴンとカイムの最後
の戦いの話を。

 フェイトとユーノが考えた通り、ドラゴンが言った言葉は事実であった。
 何らかの魔法を用いて『声紋』を発し、『母』の魔法をを封じ抑え込んだ記憶はある。だがどう
いうわけか、声紋そのものの生成の方法などの詳細は完全に記憶から欠落していた。
 あの時発したのは、ドラゴンが白、カイムが黒の声紋だ。二人で交互に協力して母を打倒した。
その程度のことなら覚えているのだが、それより先が全く思い出せない。
 どういうことなのだろう。
 身体が漆黒から元の真紅に戻った事に関係しているのだろうか。

 それとも『母』とともにあの場に居た事そのものが、ドラゴンやカイムの肉体に何らかの影響を
齎したのだろうか。己の魔術を「時間」と結びつける種の何かを、一時的にあの空間内に与えてい
たのだろうか。
 しかし、気にすることはないとドラゴンは思った。「おおいなる時間」を歪める外法など、この
世界には必要ないのだ。
 ドラゴンたちが用いたのは、正確に言えばそれに対する対抗呪文の類なのだが、いずれにしても
時空を正しき道から曲げる種のものであることに違いはない。そんなものは在っても害しか産まな
いだろう。今考えるべきはむしろ、目の前に迫る同郷の敵どもの方だ。
 『母』の消滅とともに時空の根源を操作する魔法は失われ、竜の精神にも引き継がれてはいない。
おおいなる時間を操る魔の秘奥は、すべての世界から完全に消滅していているはずだ。そういう点
でこの世界、ミッドチルダは安全であった。時空を変質させる術は、最早完全に失われたのだ。

 それは確かに正しかった。
 ドラゴンに関しては。



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