空と地からの襲撃を機動六課が切り抜けた後は第二団による追撃もないまま、ホテルアグスタに
暫しの時が流れた。
 暖かな陽光が雲を突き抜け風を貫いて、大地のみどりに燦々と降り注いでいる。力に満ちた森が
生命の鼓動を脈々と刻んでいた。
 陽の座が天頂を通過し、地に落ちる木影が徐々に伸びはじめる頃合いであった。
 昼下がりになっていた。

「これが最後か」

 木洩れ日が揺らめき風が木の葉を抱く、ホテルアグスタ周辺に広がる森の中。ドラゴンの肉声を
背後に聞き、リインはふうとひとつ息を吐き出した。
 脇に「蒼天の書」を挟んで宙に浮かび、リインは右手を前方に突き出している。
 細く小さな指の先から妖精のようなサイズの彼女の身体に合わぬ猛烈な勢いで、氷の飛礫と雪の
結晶とを巻く冷風がびゅうびゅうと吹き荒れている。
 妖精と竜が居る森の一角は、本来あるべき木々の緑が失われていた。
 凍てつく旋風が吹き付ける先には、木がちろちろと火をたてて燃えている。
 カイムが火を放ち焼き焦がした、樹木の幹の最後の一本だった。

「よし、これで大丈夫、です」

 さすがに疲れたのだろう。火が消えたのを確認したリインは、やや切れ気味の息でそう声を出し
額にかいた汗を手の甲で拭う。
 一言で言うなら、鎮火作業。
 凍結状態から脱するにはいささかやり過ぎであったかもしれないが、ともあれカイムが解放し、
森を巻き込んだ炎の後始末だった。リインは六課の戦闘メンバーで唯一人扱える氷系魔法を用い、
ドラゴンはその護衛として周囲を警戒しつつ、翼で爆風を叩きつけての。

「面倒をかけた。礼を言うぞ」
「いえ、このくらいっ」

 高潔かつ誇り高きドラゴンにしては珍しく、己以外のものに謝礼の意を告げてみせた。こたえる
リインはやや恐縮した様子だが、彼女と竜の体格差は人間以上なのだから無理もない。
 カイムが焼いた森の地区は、この一ヶ所で最後になる。
 魔力の高まりに応じて、帝国軍と戦っていた頃のそれよりも大幅に威力を増し、爆発じみた熱を
ともなって広範囲に散り広がった「月光と闇」の火炎。
 燃やした領域はかなり広大に渡り、このまま大火事になるかと思われたが、我に返ったカイムが
魔力を抑えたのに呼応して火の勢いは収まり、無事に消火は終了。
 延焼も免れた。

「……」

 竜は黙して、ゆっくりと顔を上げ蒼天を仰いだ。まだ残火が燻っているのだろうか、ここそこに
煙の帯がうっすらと立ち上っている。
 微風が吹いていた。
 煙の帯が揺れて靡き、青空に点々と浮かぶ白雲にかかっている。突き抜ける空に灰色のまぎれた
雲が、縦裂した瞳の中に届いていた。
 汚れを想起し、ドラゴンは目を外す。
 本来火消しの作業を手伝うべきカイムの姿はこの場になかった。
 保有する技術から考えて消火作業の役に立たぬということもあったが、カイムは同時に、負傷者
でもあった。というのは比喩でも隠喩でもなく、単純にカイムは肉体を損傷していた。
 シャドウの剣に斬られたわけでも、ガジェットの弾をその身に受けたわけでもない。言うならば
自業自得の火傷であった。逆上して我を失い、強引に解放した火炎は、森だけでなくカイム自身の
身体をも、軽度ではあるが焼き焦がしていたのだ。
 魔導師たちのようにバリアジャケットを持たないカイムの魔法防御は、当然ながらその全てが、
体内に流れる魔力と、それによって生じる魔法への抵抗力にかかっている。
 すなわちカイムは、自動的な防御機構を持たないのだ。そしてその抵抗力というものも、魔力が
かかわる以上はやはり、自身の精神の安定に依存するところが大きい。
 彼がドラゴンとともに「母天使」から奪い取り保有する魔力は並大抵の量ではなく、肌を焦がす
程度の火炎を払うくらいは平常なら、高揚して垂れ流す魔力のみで事足りるものである。
 だが、森林に火を放ったあの時カイムは、自分の心を完全に見失っていた。
 理性が感情に消し飛ばされ、激怒と憎悪と戦いの歓びに打ち震えていたあの精神では、己の身を
守る魔力の流れを体の中に作り出すことができていなかったのだ。

「それでですね、えと」

 そのことを思い出し、自分から視線をはずしたドラゴンの大きな顔に向かって、作業を終了した
リインはおずおずと声をかけた。
 思考を読んだドラゴンは視線を落とし、妖精のような姿の向こうに旅の連れにいた口やかましい
フェアリーを思い出しながら、完全に問われる前に答えてみせた。

「あやつは、まだ外に居るようだな」

 任務そのものは、実を言うならまだ終わってはいない。
 第二陣が来ないとは限らない。その考えの下ではやては、少なくともオークション終了までは、
警戒態勢を維持するように全体に向けて通達を発している。
 それを受けて機動六課の魔導師たちは、リインのように別の作業に当たる者以外は、それぞれが
目を光らせるべき本来の配置に戻っていた。ドラゴンがリインに追従しているのはその時はやてに
頼まれたクチだ。
 しかし一度目の襲撃からかなり間隔を空けていることから考えると、第二団は多分ないだろう。
あるにしても今なら時間がある。だから、シャマルの治療を受けた方がいい――そう言われたのを
無視してカイムが今居るのはホテルの裏。木陰の落ちる石造りの段の下であった。

「うぅ……ですから、治療をと……」
「……そっとしておいてくれぬか。ああなった以上はどのみち梃子でも動きはせん」

 しゅんとしおれてしまった姿を見て、あの契約の妖精の振る舞いとはまるで雲泥の差だと内心で
思いながら、カイムの内側に噴き出ている複雑な感情の流れを感じ取ってドラゴンは言った。
 そっとしておいてやりたかったのだ。肉体的な傷は直せても、根本的な癒しにはならぬ。

「でも! 今のうちに冷やしておかないと、もし」
「ところでおぬし、何処にいた。戦場では空にも地にも姿は見えなんだが」
「あ……単独で偵察を試みたんですが、その」
「返り討ちにあっては元も子も無いな。尤も、それはカイムも同じことだが」
「あう」

 話の逸らし方が巧みなのは、齢一万年の為せる業なのかどうなのか。
 しかしそんな会話もつかの間。ドラゴンはつと口を閉じて、瞼を重ねて首を曲げあさっての方に
顔を隠してしまう。
 リインは今度は、暫く言葉をかけなかった。
 ドラゴンとは今までに数度顔を合わせた程度の面識だが、この竜は会う時いつも凛としていて、
常に荘厳さを纏った者であったと彼女は記憶している。
 その姿に対して今のドラゴンは、力に満ち溢れた本来の雰囲気を失っていた。どこか疲れている
ようにも感じた。
 原因を知っているというわけではないが、ドラゴンが発したのは何かを案じるような声色だった
ようにリインは思う。
 いつも竜のそばにおり、リイン自身も列車で行動を共にしたことのある、竜騎士カイムのことが
気掛かりで仕方ないのだろうとは、簡単に想像がついた。戦闘中の彼の姿を見てはいないが、その
戦闘を目の当たりにしたヴィータから、戦闘中のカイムの様子がおかしかったという事や、筆舌に
尽くしがたい怒りの表情を浮かべていたことだけは聞いていた。
 彼の心中で何があったかを察することは出来ないが、ドラゴンがそれを相当気に掛けているのは
確かだ。リインは何だか居た堪れなくなって話しかけた。

「あの、その、元気、出してください、です。うまく言えないんですけどっ」
「……おぬしの如く小さきものに、そのような口を利かれたくないわ」

 ドラゴンが小さく口の端を上げて、ずらりと並んだ牙を外気に晒す。
 それを見たリインは破顔一笑し、鎮火作業完了の旨をシャマルに念話で伝え、応答と指示を待ち
ながら竜の赤く大きな顎に目を向け続けることにした。純粋に過ぎるその視線を感じて、居心地が
悪そうにドラゴンは顔を背けた。やはりフェアリーとは勝手が違う。

(このような小娘に)

 内心の一部を見抜かれた。その行いはあまりにも竜族らしからぬものであり、激憤の矛を自らに
向けるに値するほどのものでもある。
 しかし同時に、その原因はカイムである、ということに考えが届く。かの男の存在によって己の
在り方が大きく変わってきていることを感じ取って、ドラゴンは怒るに怒りきれず、煮え切らない
思いでただ天を見やるばかりであった。

(甘くなったか、我は)

 在り様が。
 そして認識までもが。そのように考えずにはいられない。
 このまま何事もなく、直っていくものだとばかり思っていた。
 カイムの精神は少しずつ癒えていくのだろうと、ミッドチルダで穏やかな時間を過ごしながら、
ドラゴンはそう思い続けていた。
 僅かではあるが手応えも、確証というべきものもあった。ガジェットの出現により再び剣を抜く
ことにはなったし、それらを相手にしているときは興奮こそしていたものの、心の奥底に深く根を
張る憤怒や憎悪といった激情は確かに鳴りをひそめていた。
 この世界の穏やかさがカイムの精神の中に、失っていた人間らしい感情を呼び戻しつつあった。
その感覚は決して間違いではなかったはずだ。
 だが目に映る真実に裏打ちされた、この穏やかならぬ予感は嘘ではない。
 かつての敵の再現と、カイムが去り際に言い残した、親友の剣の存在。
 ドラゴンの叡智をもってしても、この世界に何が起こっているのかは見通しもつかない。しかし
少なくとも、暗い影が差し込んでいることだけは確かだ。カイムとドラゴンが生き、戦い、そして
旅立ったあの崩壊した世界が、斜陽の如くに少しずつ、うっすらと影を落としはじめている。
 ドラゴンは思う。その影がもしこの先、万が一ミッドチルダの世界に色濃く巣食いはじめる事が
あるなら、その時こそ戦いは避けられまい。血と炎に彩られた日々が、あの男には再びやってくる。
 いや、もはや「万が一」では済まない。多くの事実が確証として、目の前に散在している。これ
から確実に、何かが起こる。予感を超えた感覚がドラゴンにはあった。
 その中でカイムは、どうやって生きていくのだろう。
 ドラゴンは思う。回復しつつあった正気は、戦いの中で少しずつ削られていく。砂の城の如くに
脆く、それでもやっと保ち続けてきた不安定な精神を、この先人間のかたちに保つことができるの
だろうか。

「……」

 それとも今度こそ、何もかも――そう考えて、かき消すようにドラゴンは唸った。
 牙が軋みを上げた。



 機動六課のホテルアグスタ警護任務は、オークションが終わりを告げると同時に終了と相成った。
 念には念を入れてしばらくこの場にとどまり警戒は行うものの、この上さらに敵がやってくると
いう可能性はほぼ潰えた。オークションに出品された物品は客の手に渡り、もう散り散りになって
しまっている。
 それにホテル内部の警備という任務を終え、完全な戦力により迎撃できる現状、増援を寄越した
ところで無為に撃退されるのは明らかであろう。その辺りが分からない程「敵」は馬鹿ではない。
 つまり、残りは現場検証だけであった。現在機動六課にできるのは万一のために警戒を維持し、
転送される鑑識の到着を待つことしかない。
 その機動六課の戦闘員は隊長陣も副隊長も新人フォワード達も皆、ガジェットの残骸が散らばる
ホテル前の戦場跡にて一同に会していた。
 魔導士たちの目の先にはドラゴンがいる。また彼らの足下には、魂魄を失ったシャドウの死骸、
鈍く光る漆黒の甲冑がひとつ息絶えた瞬間のまま草地の上に横たわっている。

「……じゃあやっぱ、こいつらはアンタたちの世界にいたってのか」

 くろがねの拳が最期まで放さなかった長剣を目を細めて見ていたヴィータは顔を上げ、竜の瞳を
真っ直ぐに見ながら尋ねた。幾多の視線をその身に受けながら、対してドラゴンがちいさく唸る。
肯定の意味であった。
 わからないことばかりだったのはドラゴンもそうだが、機動六課の戦闘員はそれ以上であった。
 何しろ魔導士たちは、今回のアンノウンについての知識を全く持っていない。
 呼称すら知らないのだ。火消しの作業を終えたドラゴンに、それら異形の姿を見、戦った者から
問いが及ぶのは当然だった。

「対策、せなあかんな。ミッドで出現記録はあらへんのやろ? リイン?」
「はい。資料に記述はありませんです」

 はやてが考えを巡らせながら言った言葉に対し、リインが高い声で答える。ヴィータはそれに、
いつになく難しい顔をしながら耳を傾けていた。
 リインを追って場所を変え、ホテル前に帰還した竜に最初に問いを投げかけたのは彼女だ。
 機動六課の面子の中でも、カイムの怒りを最も近くで目の当たりにした彼女はほかの誰よりも、
これら「敵」とカイムたちとの関連については確信めいたものを持っていた。
 そういう意味ではフェイトをはじめ、空でカイムに遭遇した四人も同じような思いはあったが、
彼女たちは彼女たちで上空にて竜の告白を受け森で目にした光景への衝撃から、任務がなかば終了
しつつある今もなお、真っ先に口を開きさらなる問いを投げることが憚られている。
 それに、シグナムはともかく、フェイトやエリオ、キャロと違ってヴィータは、人間が心に宿す
あの種類の憎しみを伴う怒りの激情は、向けられる者にとっても本人にとっても最上級に厄介で、
かつ危険であると知っていた。かつて悪意を向けられ続け、今なお辛い記憶とともに在る彼女は、
カイムとは授受の立場こそ違えど、そのことを己の身をもって理解していた。
 苛烈な過去があったからだろうか。ヴィータの脳裏には戦闘が終了した後も、カイムをして激怒
せしめたあの魔物が、アンノウンであるという以上にちらついて離れなかった。
 そして何よりもカイム本人について、このまま話を聞かずに放っておくことができなかった。

「かつての敵であった。空の石くれ共もな。尤も、こちらは灰も残っておらぬが」

 それゆえにヴィータが問い、リインを通じてそれを聞いたはやてもまた、都合がいいとばかりに
フォワードメンバー全員に召集をかけた。
 そうして集まった面々は皆、食い入るようにドラゴンを見つめて話を聞いている。
 またその後方ではなのはが、リインとフェイトに背中をさすられながらこほこほと咳き込み息を
荒げていた。
 魔力ほど体力に恵まれていないのを省みず、オークションが終わりを告げると同時に全速全開で
すっ飛んできた結果だった。今までガジェット以外にレリック絡みで出現した敵は無かったことも
あり、未知の敵と戦う部下を信頼こそすれ、かけらも案ずるなというのは無理な話だ。
 状況が状況だけに気が気でなく、仲間や部下を一番心配していたのは、ホテル内で後詰めとして
控えていた彼女だった。全員が無事というのは伝達から知ってはいたが、やはり一刻も早く自分の
目で確かめたかったのだろう。
 そんななのはの目が己をとらえているのをちらと見て、ドラゴンは彼女の息が整うのを待った。
 暫しの間を置いて息をひとつ吐き出し、なのははフェイトとリインに礼を告げ、膝に当てていた
手を引き顔を上げて言う。

「すみません、続けてください。敵、って」

 む、と唸った後も少し待ち、荒れた呼吸が鎮まってから切り出した。

「我らが世界の秩序を脅かし、調和を保つ封印の破壊を目論んだ、帝国なる輩の手駒であったのだ。
 多くの人間が身命を賭して戦い、我もまたこれらをはじめ多くの異形と戦った。カイムもな」

 その名を聞いたキャロがちいさく顔を伏せ、場全体の空気も微かに動いた。
 しかしその機微には気が付かないふりをして、ドラゴンは続けざまに言う。

「石屑はガーゴイル、鎧の名はシャドウ。共に知性は薄いが鎧の方は堅く、強固な防壁を帯びる。
 我は鎧と相対したことはあらぬが、二種の障壁を持つと聞いた……おぬしは知っていよう?」
「…………ああ」

 カイムを除けばただひとりシャドウと切り結んだヴィータに言の葉が向けられ、快活な彼女に
しては静かな答が返された。
 見たことがない種類のバリアだった。叩いても弾かれ、かといって魔法もその効力を奪われる。
戦う中でそれは別々の防壁が分担しているというのには気が付いていたが、正にその通りだったと
いうことか。

 ――アイツは、知ってたんだ。

 ヴィータはそう思い返す。
 あの時、最後の薙ぎ払いをかける前、カイムは甲冑たちに向かって魔法を放っていた。
 迫る敵をただ迎え撃つのならそのまま剣を振るだけでも、少なくともあの威力ならガジェットは
粉砕していただろうし、シャドウに対しては障壁に亀裂を入れるくらいは十分できていた。
 それをわざわざ魔法で足止めしたということは、自分があの時間ではつかむことができなかった、
障壁の切り替わるタイミングを掌握していた……のかもしれない。
 そのように思い今まで待ったが、ドラゴンの言葉でそれは確実のものとなった。結論も同時に
出たし、竜の話が嘘ではないと確認もできた。
 やはりあの鎧たちは、カイムが知る者だったのだ。
 確信が現実のものとなり、でもその現実は決して当たって嬉しい種のものではないし、謎はまだ
残っているしそれに――と複雑な思いを抱きながら、ヴィータは誰にも聞こえないように深い息を
吐き出した。

「でも、それがどうして、ミッドに」

 そんな胸中の副隊長の背後から、呼吸を回復したなのはが真剣な表情で問いかけた。
 なのはは今回の戦場にこそ出てはいないものの、昨日フェイトを通じてドラゴンから、カイムの
大体の経歴・戦歴は耳にしている。異世界の出であることも勿論知っているし、そこへの行き来は
この世界の魔法を用いても厳しいということも、クロノ経由で知っていた。
 というかそれ以前に、そもそも今回のアンノウン――ガーゴイルとシャドウ、これらの魔物の
出現はどう考えても妙であった。
 今の今まで、それこそ前回の列車襲撃事件まで、レリックに絡んで出没する敵兵器は異なる機種
こそあれ、ガジェット・ドローンただ一種のみ。
 ガジェットの出現は以前からあり、機動六課が設立される何年も前から、ロストロギアを狙って
きた。なのはもフェイトもはやても任務中で幾度も戦った敵であり、レリック関係でこれら以外に
目立った敵はなかった。
 その敵の種がここへきて唐突に増え、共に襲いかかってくるとはどういうことか?

「わからぬのだ。それが」

 ある程度の答えを期待してなのはが投げた問いであったが、ドラゴンはそれを導くことはできな
かった。

(それだけではない。何もかもが読めぬわ)

 不安をあおる心算はないのだから、そのように言いはしないものの。
 ドラゴン自身どうやってあの母天使が世界を逃走し、何ゆえに向かう先として「新宿」を選び、
何を目論んで「歌」を歌いはじめたのかすらわからない。
 何も知らないままあの異形を追いかけてきたのだ。その途次における魔法の式や構成など覚えて
いるわけがないし、異形の目的も知る由はない。「歌」を相殺したのも、
あの時は無我夢中で、ただその場で対抗魔法をカイムと共に編み、殆ど出鱈目に放っただけだ。
 固より、己以外の同郷の者がこの世界に現れることなど、想像だにしていなかった。
 そういう意味ではこの敵の出現は、ドラゴンにとってもまたイレギュラーであったのだ。それら
「敵」の詳細や武装は知っていても、ミッドチルダにこれが現れる経緯や理由など分かろうはずが
なかった。

「…………」

 出現そのものについての詳細もきっと知っているだろう、と思っていたなのはは意外そうな顔を
した。
 このドラゴンにも、分からないことはあるのか。そんなことを思いながら隣のはやてを見ると、
はやてははやてで竜の言葉に耳を傾けながら思案顔であった。
 そのはやてが、しばらくすると、思い立ったように口を開き言葉をもらす。

「召喚……」
「確かに元凶には、おぬしらが召喚士と呼ぶ輩も居た。ただそれが全てとはどうしても思えぬ」

 はやてが考えた末、唯一残った有り得そうな答であった。しかし対してドラゴンは、全面的には
同意しかねるという様子だ。
 何故と問おうとするはやて。それ以外に何かがあるのだろうか。その口が開く機先を制し、竜は
キャロに向かって問いかけた。

「娘。おぬしの魔術を極限まで高めれば、いかなる世界をも超越して異形を呼ぶことは可能か?」

 頭を過ぎった、僅かな期待であった。
 無条件に世界を超えて、魔物を召喚する技術があるのなら、説明がつく。それならいい。
 己の生きたあの世界を例外とすることなく、あまりにもかけ離れた別世界という障害を越えて、
何物かを呼び出すことができるのなら、それはあくまで愚かな人間の所業だ。それならまだいい。
そうであるならまだ。
 ドラゴンには胸騒ぎがあった。
 見えざる手、聞こえぬ歌。
 予感。

「……どないや、キャロ?」

 少しの間返答はなく、はやてが追ってキャロに言葉をかけた。
 多様な魔法の知識の持ち合わせはあるが、しかしさすがのはやてもこればっかりは分からない。
召喚に関する基本的な情報こそ頭の中にあれ、アルザスの巫女に伝わる何か特殊な術があるのかも
しれないし、竜召喚という秘奥を持つ以上通常の召喚を超えた何かが無いとは言い切れまい。
 しかしそのキャロはどこか、そわそわと落ち着きの無い様子であった。
 視線はドラゴンやシャドウでもなく、ホテルの両壁面に沿って行ったり来たりを繰り返している。
 話に耳を傾けてはいるものの、どこか注意が散漫だ。心ここにあらずと言った様子で、顔色には
半ば焦りすら浮かんでいた。

「竜の娘よ。我の声が聞こえているか」
「え、あ、はいっ、できます、ある程度はっ」

 ドラゴンはそこに向けて凛とした声を投げ掛け、現実へと引き戻した。
 問わず咎めず、続ける。

「……では全く交わりの無い世界ならどうだ? 竜を超越する異形にしか行き来できぬ世界から、
 未知の生ける者を喚ぶことはできるか」
「それは……予め誓約するか、加護を受けていないと」
「あの世界に人間の魔導など届き得ぬ。おぬしらに見つからぬのが証拠よ。況して誓約など」

 希望はほぼ潰えた、と竜は悟った。
 矮小な人間の、愚かな行い。それだけならどんなによかったか。
 どんなによかったことか。

「我らの与り知らぬ何かが……おおいなる意志が働いているのやもしれぬ」
「おおいなる意志?」
「何かは判らぬ。虫の報せよ。杞憂であることを願いたいがな」

 ぽつりともらした言葉の裏には、予感を超えた何かがあった。

「早いうちに伝えておく。『赤き鎧』には近づくな」

 思考を消す。
 今のうちに、とドラゴンは言った。あの場所で知ったこと。何かがあってからではもう遅い。
 無知は死。容赦なく死。
 予めできる限りのことはしておかなければならない。あの世界では不覚の内に事態が動き、空が
崩れ星が壊れた。今回もなにが起こっているのか分からないという点では同じだが、この世界には
崩壊に直結する封印も、神の御使いも存在しないはず。
 何が起こっても不思議ではないし、勿論何も起こらない可能性だってある。しかしいずれにせよ、
時間はある。
 猶予。それがたったひとつの救いであるように、ドラゴンには感じられた。

「『赤き鎧』……こないな魔物、他にも?」

 シャドウの亜種を想像して、黒い鎧に目を落としてからはやてが尋ねるが、そういう種類のもの
とは違う。

「魔物ではない。魔物が纏う、甲冑そのものだ。恐らくおぬしらにとっては最悪の相性であろう」
「見くびらないで戴きたい……と言いたいが、何かがあるのですか」
「魔法のほぼ一切を跳ね返す鎧だ。人間の魔導など相手にもならぬ」

 言葉を引き継いで口を開いたシグナムは、衝撃から気勢を殺がれて言葉を失った。
 驚愕に目を見開いたはやてが、絞り出すような声で言う。

「そないなのが……!」
「あの機械兵にも似たものが居たが、あれよりも数段性質が悪いな。単純に魔法に強すぎるのだ」

 我が爪や牙ならともかく、魔力を込めた程度の炎ではどうにもならなんだ、と付け加える。
 はやては血の気が引く思いがした。そんな物を持つ敵が魔導士に襲いかかってきたら、たしかに
それはもうどうしようもない。
 どう考えても相性が悪すぎる。近接戦闘が可能な者はまだいいとして、クロスレンジでの戦闘の
スキルを持たない魔導士には天敵以外の何ものでもない。それが言葉にせずとも分かってしまい、
まわりで聞いている者たちも皆同様に身体を強張らせた。

「対処法は」
「魔法を使わぬことだ。斬り斃す以外にない。それと見たら、報せてはくれぬか?」

 同じ世界を生きた者として、ある種の責任を感じつつドラゴンが言うのに対し、はやては無言で
頷いた。願ってもない申し出だ。



 それを境として、ドラゴンからの話そのものは最後となった。
 まさか見知った魔物の知識を全て、今ここで吐き出してしまうわけにもいくまい。時間はあるが、
それこそ日が暮れるというものである。
 隊を預かるはやてはまだいくらか質問をしてくるものの、それ以外にドラゴンに話しかける者は
居なかった。新たな敵の出現に、皆ある程度の動揺や衝撃を受けている様子はあるが、それが現在
目の前で襲いかかってきているという訳ではない。そろそろ終いという空気が、魔導士たちの間に
流れつつあった。

「あのっ!」

 しかしここで、声が上がった。
 弾かれたような、切羽詰まったような声色だった。
 反射的に視線が集中する、その先にいたのはキャロであった。

「……その……」

 そのキャロはしかし、視線の重なりを一身に受けて、しおしおと勢いを失っていってしまう。
 声をかけられたドラゴンは黙り込んだまま見つめ返すだけで、応じるばかりか口を開く素振りも
見せない。キャロはどう続けていいか分からなくなって、言葉を失い閉口してしまった。
 何かが言いたくて言葉を紡いだのではなかった。
 どうしようもなく突き動かされて、勝手に口をついて出てしまった。そんな感じだった。

「アイツのことだろ」

 そこに向かって、助け船を出したのはヴィータだった。俯いてしまった頭にぽんと手を乗せて、
途絶えてしまった言葉を確認するように、引き継ぎながら問いかける。
 キャロは小さく頷いてみせた。
 この場にきっと姿を見せるだろうと思っていたのに、いつまで経ってもカイムは現れなかった。
ずっと探し続けていたのに、影も見えなかったのだ。

「あいつ、笑ってた。怒ってたのに、笑ってたんだ」

 赤い竜鱗を見上げながらの言葉に、そうか、とだけ竜は答えた。
 名前は出さなかったけれど、誰を指しているのかは皆理解していた。戦場に赴かなかった者も、
彼の鬼気迫る激昂を間接的に聞いてはいた。
 それ故に沈黙が降りた。
 そしてすぐに破られた。

「粗方はそこの黒金に話した。又聞きに聞いた者も居よう」

 まるでざざざっと音を立てるような勢いで、主には又聞きにも聞いていない新人たちの視線が、
今度はフェイトに集中して狼狽させる。
 いいのか。いいのか話して。そんなふうに思いながら、助けを求めるようにドラゴンを見やるも
返答はない。
 実際ドラゴンは、構わないと思っていた。
 カイムの意思がどうだろうと関係なく、このまま戦いが続くのならば、精神の異常性などいずれ
明るみに出るしもう既に知られてしまっている。早いも遅いも、関係ないのだ。
 そんな思いを他所に、なのはやはやてをフェイトが見ても、如何ともし難そうな表情を浮かべる
だけで。
 恐る恐る、フェイトは言葉を選んで切り出した。

「御両親を……その……それで……」
「復讐は蜜の味、ですか」

 フェイトが言うのに合わせて、眉を寄せながら口を開いたのはシグナムであった。
 復讐される者として生きてきたから、彼女をはじめヴォルケンリッターの仲間たちはもちろん、
今まで決して温かい目を向けられてきた訳ではない、彼女たちの主はやてにもわかる。
 人は蜜に酔う。
 蜜は精神を歪ましめ、やがて深き淵へと誘うもの。

「あやつは憎悪に身を委ね、幾千の異形を斬り幾万の人を殺した」

 ドラゴンは頷く代わりに答えた。人殺しのくだりになって、魔導士たちは体を強張らせた。

「人間の脆弱な精神が、戦場で正気など保てる筈がないのだ。戦うたびにカイムは病んでいった。
 その結果があの鬼の面よ」

「……そうじゃ、ないんです」

 だが、一拍の後、キャロは静かに言った。
 これはさしものドラゴンも分からず、疑問を感じながら、俯いた少女の姿を見下ろす。
 確かに、わからないことだらけではあった。
 でも分からないから、それがどう、っていうだけじゃない。
 そんなふうにキャロは思う。

「話が聞きたい、とか……それもあるんですけど、その、そんなのじゃなくて……」

 聞きたくなかったわけじゃない。
 知りたいか知りたくないかと言われれば勿論知りたい。
 でもそれ自体にあまり意味はないのではないかと、キャロは過去を振り返りながら思ってもいた。
 ただ漠然と、傍にいてあげたいと思ったのだ。
 打ちのめされたり、どうしようもなく心が沈んだ時、自分の傍にはフリードリヒがいた。
 旅を終えてからはフェイトもいたし、優しい同僚たちもいた。
 ずっといつも、誰かがいてくれた。
 そう思い返してしまったのだ。

「……だそうだが、どうだ。カイム」

 総員、はっとして振り返った。
 ドラゴンの視線の先、魔導士たちの背後から、ゆっくりと足を進める者がいた。
 近づくにつれ、輪郭がはっきりと分かってくる。革の外套を身に付け前髪で目を隠す、キャロが
森で目にする、いつもの姿がそこにあった。
 カイムだった。

「気持ちの整理はついたか」

 否と分かっていて何故尋ねるか、とドラゴンは自嘲した。
 カイムは案の定無言で否定し、そのままシャドウの亡き骸の目の前まで歩み寄ってゆく。突然の
登場に対して皆、何と言葉を掛けるべきか分からなくなってしまい、ただ歩みの邪魔をせぬように
道を開けるばかりであった。
 おずおずとキャロが伸ばしたてのひらも、カイムに素通りされて行き場を失った。

「あ……」

 右手を引っ込めながら、冷めきらぬ余怒の気配をキャロは感じた。
 横顔を見ると、目の中にぐちゃぐちゃとした光を見たような気がした。
 次々と記憶を呼び起こし、ごちゃ混ぜに展開しているような、定まらない色をしていた。

「駄目だ。心は読めぬ。人間とは勝手が違うらしい」

 カイムがそのまま草地に膝をついて、シャドウの死骸の胸部、大きく裂けた鉄鋼に掌を当てると
ドラゴンはそう言った。
 話が始まってから随分長く時間が経っているようであった。照り返される陽光が、白色から色を
帯び始めている。
 その様を見ながら、忌々しげに舌打ちを一つ。
 されど何も変わらず。

「少し話したが、良かったか」

 その問いに対しては、隠しきれぬ懊悩の気配を孕んだ『声』が返ってきた。
 豊かな感情を持ち優しい精神を保つ正常な人間たちの姿は、己の異常さを自覚する人格破綻者に
とって苦痛以外の何物でもない。
 彼女たち魔導士は、言うなれば鏡だ。己が異端を空しく確かめさせる存在でしかないのだ。
 ただ声色の根底には、幾ばくかの無関心さも感じられた。別に何を知られたからといって、あの
忌まわしい日を忘れられる訳ではないし、そのつもりも毛頭ない。
 それでも、巻き込んでしまっているという思いはあるようで。
 巻き込まれているという感覚もあるようだった。



 次々と駆け巡る記憶の中、目の光は混沌としたまま揺らいでいる。
 キャロはとうとう、言葉を紡げなかった。
 フェイトもエリオも、魔導士たちも、ただそれを見守るしかなかった。
 陽が傾きはじめた。



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