息が詰まる重い風が、正面から吹き荒ぶ――それが錯覚であると知るには、一寸の時を要した。
 地につけた赤い剣の切っ先がわずかに揺れ、草地から立ち上がる。左手を柄へ、脇の両手持ち。

(来る……!)

 ゼストは反射的にルーテシアを後方へ突き飛ばして、愛用している無銘の槍を手に取り構えた。
同時にカイムが地を蹴り、月光と闇を脇に構え憎悪を垂れ流しながら、真っ直ぐに疾走する。
 かおはあいかわらずわらったまま。
 シャドウを斬殺したことに加えて、浅いとはいえ人間に傷を負わせたこと――剣身の先に乗った
血糊の色を見た事で、生かさねばならぬという機動六課からの制約や、地獄の責め苦にかけ黒幕を
吐かせるという当初の考えは奇麗に消え去っている。
 平穏な日々に封じてきた「殺したい」という欲望が、魂の底に深く刻まれた戦いの記憶と衝動が
呼び覚まされていた。闘いのほかに心に残っているものは、もはやカイムにはひとつもなかった。
ドラゴンが危惧し、フェイトたちに言った通りに。
 地鳴りのような音、重い踏み込み。月光と闇の紅蓮の刃が、稲妻のように槍の穂へ振り下ろされる。
 暴力的な一合目。ゼストの槍の大きな金属音と、大理石の長剣の異音が森に響いた。
 人間のそれとは思えぬ、暗黒の笑みに気圧されて受け身にまわったが、ゼストは直後に後悔した。
穂を打つ一撃は爆発的で、あまりもに強烈だった。身体が後方へずらされるほどの一撃を受けて、
槍を握る手に痛みと痺れが走る。骨の芯まで届く衝撃。
 体勢が崩れかけ片足が浮きかける。それを踏み直したところへ、続けざまに返しの二合目。
 長剣が虚空を奔り抜ける。連続した衝撃に槍から片手が弾かれ、槍そのものも右手を残したまま
跳ね上げられてしまった。
 奥歯を食いしめて耐えるゼスト。自分が以前の完全な状態でないといえ、防戦だけで精一杯だ。
 これが本当に人間の腕力か。槍で受けたにもかかわらず、骨の髄がいかれそうだった。
 手に汗握るとはこのことだろうか、握る掌がじっとりと水気を帯びていた。ユニゾン無しでは、
受け流すことすらままならない。どうする。どうする!

「っく!」

 思考の間も無く、三撃目の刺突。かろうじて避けると、胴への薙ぎ。柄でこらえる。同じ軌道の
剣閃をかわしたところで、カイムが剣を袈裟にかぶった。
 もう受けていられない。軸足の格闘は無い。ゼストはカイムの右、側方へと身を投げた。
 そこに左の蹴りが飛んだ。

「が……ッ」

 呻きが漏れ、鈍痛が走る。貰ってしまった。肺の空気が抜ける、呼吸が切れる。
 いかなる魔導師であろうとも、呼吸と動きが止まればただの肉塊でしかない。一瞬うずくまった
その顎を、今度は右足が容赦なく跳ね飛ばした。
 長身が宙に浮いて、そのまま地に落ちた。立ちあがろうとするも起き上がる気配はない。頭蓋が
揺れれば動きは止まる。脳を鍛えられる生物など存在しない。
 後方にゆらぎ。
 そのままカイムは掌だけを背後に向け、魔力を集め火炎を放つ。
 その先にはルーテシアが居る。襲われるゼストの援護に、召喚に魔力を注いでいるところだった。
 灼熱の火球が少女の髪を掠めて通り過ぎ、唸りを上げながら森の彼方へと消えていった。十分な
牽制であった。熱風にルーテシアの集中が途切れ、挙動を読まれた驚愕から動きが止まる。そこに
カイムは、首だけで振り返った。

 あセらなくてもあトでちゃんところシてころスこロししシろころコろすころころししししてやる

「…………!」

 感情が希薄なルーテシアでさえ、この笑顔には自然と震えが走った。本能的な部分で怯んだ。
 一拍遅れて少女の背を、冷たいものが確かに貫いていく。この世に生まれてから初めて感じる、
まがうことのない生命の危機であった。相貌が大きく開かれぶるりと肩が震え、指先がかたかたと
揺れはじめる。
 普段は眉一つ動かさぬ顔に、僅かであるが確かに蒼が差した。記憶にない感覚に戸惑いを覚える。
あの目で見られると動けない、口の中がどういうわけか、からからに乾いていく。
 心を知らぬルーテシアにはわからなかった。
 呪縛の如くに彼女を縛りつけたもの、希薄な精神に生まれたそれを、人は「恐怖」と呼ぶのだと。

 そのままルーテシアは、影を縫われたように身動きができなくなってしまった。
 頭の中が真っ白になったのだろう、援護する気配も感じられない。デバイスに魔力を流す様子も
なく、ただカイムの背中から視線を外せずにいるだけ。
 その気配から、邪魔がいなくなったことをカイムは知った。
 剣を握り、ゼストににじり寄る。あとは殺すだけ、ぶち殺すだけ。
 地に片膝をついた男の前にたどり着き、首を一息に刎ねる心算で、ゆっくり刃を振り上げていく。
ゼストを見下ろす眼球はどろどろとした光が渦巻いていて、ひどく汚れていて、そして濁っていた。
 男の影が落ちる、草地から目を外せずにゼストは思う。
 データ採取だけで済むと高をくくった己が、まるっきり甘かったとしか言いようがない。あの男、
スカリエッティは新しい実験動物のように思ったかも知れないが、もしそうならとんだ間違いだ。
 この男は正しく、狂った獣そのものだった。触れる対価として命を捧げねばならぬ、凶悪な野獣
だった。決して手を出してはならなかったのだ。文字通りの、竜騎士の逆鱗に……!
 ゼストはこの男には、どうあっても最早抗えぬことを悟った。
 アギトが居ないこの場ではもはや抵抗の手段などありはしない。せめて時間が稼げるなら分から
ないが、それが可能とは到底思えぬ。力量の差が分からぬほど、目が曇っているわけではない。
 そしてそれが、悔しくてたまらなかった。
 ゼストは手にあった若葉を、爪を立てて握りしめた。会うべき親友が、知るべき真実があった。
人間としての生を失ってからもそれを支えに、生き恥を晒しても耐えてきたのに。
 こんな終りがあっていいのか。
 何も叶えられぬまま、何もできないまま、死ねというのか?

 ――否。

 ゼストはうずくまりながら、見えぬように拳を握り直す。ただでは死ねない。護るべき者がいる。
 ルーテシアを、死なせる訳にはいかない。
 もとより死者同然の自分はどうなっても、せめて自分の所為で母と引き裂かれてしまった、あの
少女だけは守りたい。それが彼を、最後の抵抗へと駆り立てた。

(奪わせて、なる、ものか――)

 振り上げた刃が、カイムの頭上で静止する。ゼストの内心の闘志を悟られた気配はない。そこに
付け入る。刺し違えてでも。
 初撃を肩で受ければ。
 たとえ腕が千切れようが、一瞬で絶命はするまい。命尽きる前にありったけの魔力を、零距離で
炸裂させる。道連れはともかく、ルーテシアが逃げる時間は稼げるはずだ。
 ゼストは覚悟を決め、静かに剣の振り下ろしを待った。最期の機だ、背水の機――。
 しかし。

(…………?)

 カイムの影はいくら待っても、直立したまま動くことはなかった。
 来たるべきものが訪れない。何が起こった? ゼストは心の中で問いかけた。この男は明らかに、
人斬りを躊躇う種の人間ではないはず。
 もしやアギトが戻ったかと思ったが、もしそうなら彼女の性格から察するに、炎の一つや二つが
既に飛んできているはずだ。
 そして牽制され動けずにいる、ルーテシアの援護はあり得ない。
 気取られぬように、男の双眸をゼストは見た。そして飛び込んできた事実に、ゼストは困惑した。
 カイムの視線はなんと、ゼストを見てなどいなかった。意識の集中はそのかたわらを通り過ぎ、
ゼストの背後へと注がれている。斬りかかる最中浮かべた悪魔の如き狂気の笑みは失せ、驚愕とも
唖然とも取れる表情を浮かべていた。

(何が……?)

 何があるのか、何が起こったのか、ゼストには見えていない。
 しかし、ルーテシアには見えていた。
 茂みに現れた者の正体を、ルーテシアは見ることができていた。

 そこに居たのは、青と赤の光だった。

 その光景に、カイムは目を疑った。
 行動を共にした色、記憶に新しい光だった。間違いない、間違える筈がない。共に旅した者たち
だった。間違えよう筈がない!
 水と炎の精霊……ウンディーネ、サラマンダー。
 一目で分かった。戦いの中で得た魔力も、飛び方までもがそのままだった。
 何をするでもなく茂みの陰から、ただカイムへ目を向けている。何かをはかるようであり、何も
見ていないようでもあった。
 混乱、混迷。
 天使に喰われたアリオーシュに引きずられ、死の運命を共にしたはずの彼らが、何故?
 何故生きている?
 生きていることは置いておくとしても、どうしてここに――ここにいる??? なぜ?

「……」

 男の背中に動揺を感じ取ったルーテシアは、それが機であると敏感に感じ取った。
 得体の知れぬ感情に震えて、上がろうとしない手のひらに勇気を込めて力を入れ、手の甲のデバイスに
ゆっくりと魔力を注ぐ。気取られぬよう、ただ慎重に。
 召喚魔法。
 呼ぶのは、彼女が最も信頼する使い魔――ではない。救ってほしいのは山々なのだが、この男の
目の前に呼び出すということは、同時に重大な傷を負わせることを意味する。それはできない。
 巨大な「蟲」を呼ぶことにも思考は回ったが、ホテルを巡回している機動六課の者に捕捉されて
しまうかもしれない。そうなっては本末転倒。
 ルーテシアの脳裏にはこの依頼を持ちかけた、スカリエッティの言葉が蘇っていた。
 彼の言葉と行動に、ルーテシアは信を置いているのだ。『良い武器があるんだ』というその男の
情報を、ルーテシアは忘れていなかった。

「!」

 淡い紫の光がカイムとゼストの間に発し、魔法陣が地面に展開する。それを目の当たりにして、
カイムは一気に我に返った。殺戮の欲望が散ったのではなく、渦巻く疑問の濁流から戦場へ帰って
きたという意味で。
 しかしこの一寸の思考の停滞は、その狂気をある程度緩和するには十分だった。汚濁から僅かに
戻った意識で認識する。森を訪れていた娘、キャロのそれと同種の召喚。
 生物ではない。
 ゼストもまた顔を上げた。一瞬遅れてルーテシアの魔法だと気付き、そこに最後の希望を見出す。
そして眼前で展開する魔法陣に手を伸ばす。かざした手のひらに、せり上がる硬い物が触れた。
 二人の男は同時に悟った。
 武器だ。
 カイムは知らぬ間に下していた剣の、握る両手に力を入れ直した。妖精たちに気を奪われている
暇はない。だいいちその影は、見れば忽然と失せている。
 ゼストの手を斬らんと、再び月光と闇を大上段に振りかぶった。
 何が出てくるかは知らないが、振る前に潰せば済む。
 今、ここで斬る!

「…………――――――」

 ゼストの手首にかかる直前で、しかしカイムはまたしても、剣を振るその手を止めてしまう。地より
這い出た剣の、真っ直ぐな片刃の剣を目にして。

「――――――」

 峰全体から手元を覆うように、広く取られた湾曲した手甲には見覚えがあった。
 長い剣身の白銀の鋼、その刃とは剣を交えた記憶があった。
 思い起こされるのは、赤色の瞳をした男。
 妹と共に要塞に消えた親友。その剣はまさしく、彼の――。

 もし彼が言葉を持っていたならきっと、馬鹿な、とでも呟いていただろう。カイムはその一瞬、
完全に我を見失っていた。有り得ない光景の連続、脳の処理を超える事象に。
 それはゼストが待ち望んでいた、致命的かつ決定的な隙だった。
 停止した竜騎士の目の前で、立ち上がったゼストがその剣を抜き、地を蹴ってひとつ距離を取る。
 この剣を呼ぶことを選んだルーテシアの決断を、ゼストは迷うことなく信じた。

「……っは!」

 デバイスの要領で魔力を流し、刺し違えんとして溜め込んでいた魔力を次々と注ぎ込んでいく。
すると剣身が唐突に、鮮やかな蒼い光を放ち始めた。
 魔法の予兆、確かな悪寒。
 突き刺すような冷風が唐突に、嵐の如くカイムへと吹きつけはじめた。
 カイムを呑み込み木々を巻き込んで、凍てつく波動が森にほとばしる!

「…………!」

 咄嗟に斜めに剣を構えはしたものの、我を失っていたカイムは対抗して魔法を撃つことはおろか、
まともに回避することさえ出来はしなかった。全身を氷雪が包む。極低温の冷気が抵抗する間さえ
与えず、カイムの身体の自由を完全に奪っていく。
 全身が文字通り凍てつく中でカイムは、心の内側で叫んでいた。
 懐かしくも哀しい剣の主、友であった男の名前。それは。



 イウヴァルト!
 


『いたぞ……魔法だ!』

 カイムのものでない魔力の増大を感じたドラゴンが『声』を伝え、翼でひとつ空を切った。
 術者はカイムが追いかけた「元凶」の方であろう。この森にいる魔導師で、機動六課以外の者と
なると、もはやそれ以外に可能性はない。
 キャロたち三人を背に乗せたフリードリヒが両翼を上げて加速の力を溜めはじめ、並走している
フェイトが体をひねって方向を修正する。その様子を流し目でちらと確かめて、ドラゴンはさらに
速度を上げた。
 「敵」はガジェットの操作をずいぶん遠くから行っていたのだろう、その場所までかなり距離が
あった。だがそれも間もなく詰めきることができよう。竜の羽翼のはばたきは人間の魔法の比では
ないのだし、人間のフェイトも劣らず、よくくらいついている。若いフリードリヒが見失わぬよう、
ドラゴンが加速を抑えているにしてもだ。
 しかしそのフェイトを筆頭に、ライトニング分隊の四人に流れる空気はやはりというか、暗雲が
立ちこめる空のように重苦しいものだった。
 当然といえば当然、カイムを見つけて追い付けたとしてもどんな顔をして、どう言葉をかければ
いいかわからない。それどころか更なる狂気を見る可能性もある。「元凶」はまだ無事らしいが、
それだっていつ殺されてもおかしくはないのだ。カイムなら殺りかねないというのは、ドラゴンの
言葉から既に察せられていた。

『大丈夫、ですか』

 ふと出し抜けに、フェイトがドラゴンへ念を飛ばした。風の音に消され、肉声では届かない。
 問いの向かう先はドラゴン自身ではない――その気配を感じながらも、ドラゴンは首を曲げずに、
無言の言葉を返した。

『何がだ』
『あの人が――』

 カイム以外にいるまい。
 そして単に肉体的な事を案じているのでなく、その精神を気にしていることに直ぐ気がついた。
 気がついたのだが、ドラゴンは珍しく、問いに答えなかった。
 普通の人間からすれば大丈夫でないのは当たり前で、あれがカイムの日常だと言えばその通り。
そう言えばいいものを、ドラゴンが伝えたのは別の言葉だった。

『あやつの口から聞け。おぬしの目で確かめよ』

 つまりは、そういうことなのだ。いずれにしてもカイムがいないこの場では、彼について言葉を
紡ぐことはさしたる意味を持たない。
 それにどうせ話せば話すほど、狂気が明るみに出てくるだけである。

『……「壊れている」というのは、この事だったんですね』

 しかしその答えを聞いてなお、フェイトは静かに思念を投げ続けた。いつだったか、そんな事を
こぼしたこともあったかとドラゴンは思う。
 そして言葉の中にどこか、何かを省みるような気配を感じ取って、今度は逆に問い返した。

『身に覚えでもあるのか?』

『……昔、少し』

 しばし空白の時を置いて、静かな答えが返ってきた。

『そうか――』

 だがそれを深く問うような、野暮な真似を竜はしなかった。
 言葉にして、も意味はない。
 それを境に、しばらく念話が途絶えた。虚空を切り裂く風の音を聞き、ただ魔力の根源へと空を
ひた走っていく。

(……)

 確かに聞こえたカイムの、かつての友の名を叫ぶ『声』に、ドラゴンの思考はフェイトから離れ
つつあった。
 あの男、イウヴァルトが生きているとは思えない。
 かといって何もなく、カイムがその名を呼ぶことはあり得ぬ。
 敵が他人の空似だったとは考えにくい。それでは名を叫ぶには至らないし、そんな間違いをする
はずもない。おそらくその形見でも見たか。シャドウやガーゴイルがいる以上、不思議ではない。
 そして、これでもはや、間違いはない。
 竜は確信に至った。己が生きた、滅びを迎えたあの世界が、ミッドチルダの世界に何らかの影を
落としつつある。
 残してきた敵や、カイムに関わる者の名残、それらから導いた結論であった。自分たちの来訪が
一度、「敵」で二度。三度目の偶然とは奇跡ではない。それを人は、必然と呼ぶのだ。
 それが大いなる意志によるものなのか、愚かな人の手によるものなのかは分からない。はたまた
自分たちが、ミッドチルダに来た事に由来するのかも。

(……何れにせよ)

 何も終わってなどいない、それだけは確かなこと。
 そう思いながら、竜はひとつ嘶いた。陽の昇った空が、天高くあおあおと広がっている。
 


「怪我は、ない、か」
「…………うん」

 ゼストは白銀の長剣を片手に握りしめたまま愛用の槍を拾い上げると、少女の方へと駆け寄って
口を開いた。その呼吸が荒いのは、刹那のうちに膨大な魔力を使用したからだ。
 少女の返答はとても弱々しいものだった。俯いた顔はいつもより白く、どちらかといえば「蒼白」
という表現が適しているくらいだ。ゼストは自分の外套をかけてやり、視線が同じ高さになるよう
膝をついて、言った。

「もう、大丈夫だ」

 聞いた途端、ルーテシアの膝がかくんと折れた。
 尻もちをついて地面にしゃがみこんでしまい、明らかに疲労の様子が見て取れた。
 あの鬼気迫る男の襲撃は、普段動じることのないルーテシアの精神力をも削り取っていたらしい。
その中でよく動いてくれたと、ゼストは心からそう思った。

(釈然としないが、今回ばかりはあの男の手を借りた……)
 
 だがそもそもこの事態に陥った原因もあの男、スカリエッティの所為だと加えてから、ゼストは
手の中の剣に目を落とした。そしてその剣が作り上げた光景に、襲い来る男のいた場所に、改めて
目を向ける。
 木々が、木の葉が、完全に凍りついていた。
 ゼストが魔力を込めすぎたのか、それとも剣が秘めていた魔法がそもそも強力だったのか。剣の
片刃の輝きから出でて、吹き荒れた氷雪の嵐が、森林の一角を氷の世界へと変えてしまっていた。
ため込んでいた魔力を全身からごっそりと奪っただけののことはある。凍てつく烈風が吹いたその
一帯だけが、まるで極寒の地にあるかのような、白銀の世界へ様相を一変させていた。
 森を巻き込んで作られた氷の世界。ゼストの背よりも高い巨大な氷の壁が、カイムがいた場所に
大きく聳え立っている。その中に男は巻き込まれた。氷塊の中に閉じ込めた。
 ファングオブシヴァ。イウヴァルトの長剣が秘めた魔法が、ゼストの流した魔力の大きさに暴れ
狂い、カイムを襲った結末であった。魔力を高めて抵抗することもできず、回避もできずに直撃を
受けてしまった結果だった。

「…………」

 ゼストは再び、ルーテシアが呼び己が振るった、手の中の剣に目を向ける。数多く槍を振るい、
節くれだった掌の内側で、その剣は不思議にも、何となく指に吸いつくように感じられた。
 というよりもそもそも、初めて手にしたこの剣に、どうして魔力を流そうとしたのか、また何故
魔力が流れ得たのか、ゼストにとっては不可解であった。
 ルーテシアが呼び出した、だからきっと何かある――そう踏んでの行動であったのだが、それに
してもすんなり手が伸びたし、魔力を注ぐ動作は全く澱みがなかったように思う。しかも生成した
魔法は強力なものであった。いくら大量に魔力を流したとしても、発動までのラグもほとんどなく。
 優れた武器は使い手を選ぶというが……この氷雪の剣はもしかしたら、自分と相性が良いのかも
知れない。ふとそんな考えが、ゼストの頭に浮かんだ。

「立てるか?」

 そのような思考の流れから現実の世界へと回帰し、名も知らぬ剣を槍とともに右手へとまとめ、
ゼストはルーテシアへと向きなおって問うた。

「足、が」

 ぺたんと地面に尻をついたルーテシアは、少し血色が良くなった顔をゼストに向けつつ言った。
もう安全だと悟ったのだろう、言葉の中には失われた力が戻ってきているように感じられた。顔も
いつもの表情に戻りつつある。といってもほとんど無表情に近いが。
 硬直した時に感じられた、恐怖のような気配も失せていた。しかし髪は汗で幾分湿っているし、
それにどうやら腰が抜けてしまっているようだ。
 安心したのはいいけれども、これではこの場を離れることができない。ゼストは小さく苦笑し、
背を向けてしゃがみこんだ。この小さい体にはかなり無理をさせてしまった。

「乗れ。逃げよう」

 とにかく、今が好機だ。
 あの男が動けない今のうちに、この場を離れなければならない。ガジェットが全滅している以上、
第二第三の追手がいつ来るとも知れないのだ。実際あの戦いの空で、「敵」を殲滅したのは二騎の
竜族だった。追ってこられると今度こそ危ない。

「……?」

 しかし、いくら待っても背に重さがやってこない。
 ゼストは首だけで振り返って、ルーテシアの様子を窺った。
 少女の視線はその後方、一点を凝視したまま固まっていた。

「どうした、ルー……」

 目を向けながら言いかけて、少女が見ていた光景が目に入ると、その瞬間に言葉が途切れた。
 ルーテシアが見ていたのは、分厚く広がった氷の壁。
 その周囲の虚空が、青白の表面が、真夏の陽炎の様に揺らめいていた。
 高熱――奥の見えない白銀の牢獄が、圧倒的な高熱に炙られている。
 その内に閉じ込めた竜騎士の姿が、徐々に光のもとへとさらされつつあった。

 氷の下に、カイムの顔がのぞいていた。

 憎悪をたぎらせ灼熱を目に宿しながら、カイムはぎろりとルーテシアたちを睨みつけていた。
 強大に過ぎる魔力を練り上げ、怒りの業火で氷壁を溶かしながら、「魔」を垂れ流す悪魔がそこにいた!

「――――――――――――!!」

 再び迫り来る未曽有の感情に突き動かされて、声にならない悲鳴を上げるルーテシア。
 その手をつかみ、ゼストは弾かれたように森の外へと走り出していた。
 背後に純然たる怒りをひしひしと感じ、肌が焼けつくのを感じながらゼストはただひたすらに、
森を駆け抜け、走り抜ける……。



 幾許かの時を置いて、そして森に炎が満ちた。
 


 二騎の竜が旋回する空の下、眼下に広がる森が唐突に爆ぜ、その一角が紅蓮の炎に巻かれていく
のをフェイトたちは呆然と見詰めていた。
 カイムがいるはずの、魔法の気配がした場所。その上空に辿り着く寸前、目指していた場所から
赤い炎が噴き上った。
 誰の目に見ても明らかに、ミッドチルダのそれとは違う種の魔法。
 明らかに術者はカイムであると彼女たちは確信した。「敵」がカイムの世界の武器を持っている
ことなど、魔導師たちが知る由もない。
 それより彼らの頭を過るのはカイムの無事、そして彼に遭遇した「元凶」の安否だった。だが、

「……取り逃がしたらしい」

 ドラゴンは、小さく言った。

「え……でも、まだ」

 キャロが聞きつけ、逆に問いかける。視線の先ではまだ、炎が立ち上り森を巻き込んだままだ。

「『敵』は最早あそこには居らぬ。焼け死ぬ前に逃げ出したらしい……悪運の強いことだ」

 その言葉が聞こえて、フェイトたちも疑問を含んだ目を向ける。
 しかしドラゴンは中途半端な憶測や、当てずっぽうで話している雰囲気は全くない。ただ静かに、
燃えあがる森を見つめるのみ。
 その緋色の翼が不意に空を切って、ゆっくりと高度を下げ始めた。
 地上へと向かうドラゴンの赤い背に、キャロは戸惑いの表情をフェイトに向ける。
 それに気がついて、フェイトはひとつ頷いた。金髪を風に靡かせてドラゴンを追い、またそれを
追いかけるフリードリヒの白い羽翼が、ゆるゆると地へ舞い降りる。



 地に降りた魔導師たちが目にしたのは、燃えゆく炎を前に佇む男の、剣を負った後ろ姿だった。
 赤と白の光を放つ火の粉が花弁の如く舞い狂い、はじけては消えていく。
 足元から小さな火が燻り、その向こう側には彼の火炎が、あかあかと燃えさかっている。
 煌々と立ち上る焔が揺らめき、浮かび上がる輪郭は緋色の光芒を湛えていた。

「……カイム、さん」

 キャロの呼び声に、カイムは振り返らなかった。身じろぎ一つしなかった。
 シグナムが見つめるその先で、フェイトと子供たちの目の前で、カイムは立つ。ただ静かに。
 その心は煙の中、誰の目にも見えはしなかった。
 ただひとり、ドラゴンを除いては。

「嬉しいのか?」

 そうして、やっと振り返る。
 カイムは目に怒りと憎しみを宿しながら、しかし確かにその表情は、微笑みを象っていた。
 病んだ瞳で、壊れた心で、再び訪れた戦いの予感に、小さな笑みを浮かべていた。
 紅い夜が帰ってくる。運命が、戦えと言っている。
 フリードリヒの赤い瞳が、ただ静かに、カイムと炎とを見つめていた――。



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