エリオはストラーダの穂先をすっとなぞり、そしてはて、と首を傾げてみせた。指に残った粘着
質の感触が、意図が外れたことを告げている。
 教練の中休み、昼食をとった後のちょっとした時間。オフィスを出て少し離れた、一本の木の前
にエリオはいた。その隣にはキャロとフリードリヒもいて、同じく槍の先端を横から覗いている。
 木には一筋の蜘蛛の糸が垂れさがり、ゆるゆると風に吹かれていた。
 槍と一緒にしゃがみ込んだ彼らの足元では一匹の小さな蜘蛛が、尻に糸の残りをくっつけたまま
慌てて茂みの中へ逃げ込むところだった。見つけたエリオが悪い事をしちゃったな、と呟く。ごめ
んねとキャロが後から続ける。

「キュっ」

 キャロの肩に乗っていたフリードリヒが、近づく影に気付いて嬉しそうな声を上げる。
 振り返ると、スバルの鮮やかな青髪とティアナのツインテールが並んで目に飛び込んできた。
 午前の教練で相当に動きまわっていた――というよりもヴィータにこってりしごかれていた分、
いつも以上にお腹が減っていたのだろう。頬に昼食の名残のケチャップソースが付いているのと、
ティアナに言われて指で拭うのとはご愛嬌である。

「どう? 切れた?」
「……駄目です、絡まっちゃって」

 しゃがみ込んだ肩越しに覗き込むスバルに、エリオがストラーダの穂をすっと差し向ける。その
先端からひゅるりと、軌跡をなぞるように何かがこぼれた。
 スバルとティアナの目の前で垂れ下がったのは、一本の細い糸。
 ティアナがつまむと、風に揺れるその糸はぺたりと指に張り付いた。そのまま引くと槍の刃に片
端を残っているのがわかる。さらによく見ると、つまみあげた向こう側にはこちらと同じ長さのそ
れが、纏わりつくように槍に付着していた。
 粘着したその糸は、蜘蛛が吐くそれだった。

「見た目以上に難しいみたいね」
「……最初は、普通の糸の方がいいかもしれません」
「でもそれ、やっぱり変わってるね。ホントに訓練になってるのかな?」

 昼食のため森からオフィスに戻る直前。二度と見せぬという竜の通訳の後、エリオの槍ストラー
ダを手にしたカイムが斬って見せたのがこの、蜘蛛の巣の銀糸であった。
 そうした後に背を向けるカイムの言葉を代弁し、やってみせろと告げるドラゴン。言われるまま
に手頃なものを見つけて槍で薙いでみたエリオだが、何度やっても刃に糸が引っ付いてしまい、こ
れがなかなか上手くいかない。
 四苦八苦するエリオに対し、まず他の太い糸を試せと代弁して残すと、ドラゴンはそのままカイ
ムと共に森の奥へと引っ込んでしまった。どうやらこれ以上に、今のところカイムからエリオに言
うことはなかったらしい。
 この行為にどんな意味があるのか。同じく見ていたシグナムに聞いたところ、恐らくは刃を振る
う速さを上げる訓練であるとのことだった。
 確かにある程度の迅さを持つ一閃でなければ、糸のように軽く風に揺れるものは斬れないだろう
とシグナムは言った。同時にここまで鋭利な剣閃は見たことが無いと、感心したように呟いてもい
た。
 スバルが疑問だと言ってはいるけれども、おそらく相当な鍛錬が必要なのだろうとエリオは思う。

「それにしても……すごかったですね。あの時のカイムさん」

 キャロが思い返しながら呟く。その点については、見ていた新人たちの見解は相違なかった。
 ストラーダを振るう直前に彼らに見せた、背に悪寒を呼び起こす、射抜くような眼光。
 目にも止らぬ槍の閃きも然ることながら、刃を構えたカイムが垣間見せた怖気を伴う異様な雰囲
気はあの暴走列車内での任務ですら見せなかった種のものだ。あのような空気の緊張を目の当たり
にしたことは、彼らは今まで経験になかった。

「てことは、キャロも見たことなかったんだ。あの人のああいう顔」
「……はい。ドラゴンさんに訓練してもらってる時は、カイムさん基本的に見てるだけでしたし」
「きゅる」

 キャロに続きフリードリヒが頷いたところで、次の教練の時間が近いことにティアナが気づく。
そろそろ移動よと告げると、先に踵を返したスターズ二人の後に続くように、年少組の二人も腰を
上げた。
 森に足を運ぶキャロが見続けた、感情の見当たらない無表情な顔。ティアナとスバルが雪辱戦の
時に目の当たりにし、そしてエリオに披露した、極限まで練られた数々の戦闘の技巧。
 今まで見せてきた物は少なくないけれども、それでも新人たちの疑問は寸分たがわず一致してい
た。
 あのシグナムでさえ眼を見開くほどの技を、彼はどんな経緯で身につけたのだろう。
 ミッドチルダの外から、ドラゴンと共にやってきたというカイム。彼は一体今まで、どんな人生
を送ってきたのだろうか。
 この中で最も近くにいたキャロにすら語らない、彼の過去とは――

「アンタ、何か妙なコト考えてるでしょ」
「……や、やだなぁティア、そ、そ、そんなことないよっ」
「下手な詮索は止した方がいいわよ。知られたくない話かもしれないでしょ」
「それは……そうだけど」

 何か閃いたという顔をするスバルに対し、じと目で見つつそれをたしなめるティアナ。自分にも
身に覚えがあったため、スバルはそれ以上口を開けなくなってしまった。

「……何沈んでんのよ。ほら、シャキっとしなさいシャキっと」
「うん……」
「ああもう! そんなんだと、いつまで経ってもアイツに勝てないでしょ!」
「え?」

 何を、といった顔でティアナを見る。

「悔しいけど、わたし一人じゃどう足掻いても無理。次のリベンジにはアンタの助力が不可欠なの!
そんなにあいつの身の上が知りたかったら、その時勝って聞き出せばいいでしょ」
「…………」
「負けっぱなしなんて、絶対許せな……何よ、ハトが豆鉄砲食らったような顔して」
「……へへ。ティアって、やっぱり優しいね」

 うろたえる。

「な……ばっ、別に」
「ありがと、ティア」
「わ、たしはそんな……そ、そんなキラキラした目でわたしを見るな!」
「えー」
「えーじゃなくて! だから抱きつくな! こっちくんなっ!」
「ティア、恥ずかしがってかーわいい」
「どやかましいっ!」

 この時ティアナが言った、詮索を止せというあの言葉。
 それは正しかった。今ティアナにじゃれかかっているスバルが知るのは、もう少し後の話である。



 フェイト・T・ハラオウンは戸惑っていた。自分で望み招いた状況ではあるが、いざとなってみ
ると話しかける切っ掛けがどうにもつかめないでいた。
 機動六課のオフィスは広い。急ぎ足で駆け回るのならともかくとして、説明しながらゆっくり見
てまわるとなると午前中だけではまだまだ説明しきれない部署もたくさんあるのだ。そういうわけ
で午後も引き継いでシグナムがカイムを案内する予定であった……のだが。
 そこに午後は私が、と昼食の場で手を挙げたのがフェイトであった。
 勿論、毎日仕事に追われ多忙な時間を過ごしているフェイトには、あまり時間的な余裕というも
のが無い。必然的に夜中や翌日に仕事がずれ込むことになるのだが、それを代償にしても、カイム
にもう少し話を聞いておきたいと思ったのだ。
 未だ謎に包まれた彼が、生きてきた道を少しでも聞いておきたかった。
 ドラゴンが語った、母に愛されなかった故に精神を病み、人形となった少女マナの伝説。そして
それを聞いた時の、カイムのあの妙な反応。
 ドラゴンが呟いた「壊れた」とはカイムに対しての言葉であったようだが、いったいあれはどう
いう意味だったのだろう。自分も一度絶望の淵に立たされたことはあったが、彼の場合は一体、ど
んな――
 ……とまあ聞きたいことは色々とあったのだが、何せ相手は声を奪われた契約者。
 まともな会話など成り立つはずもないし、たとえ仮に声が出せたとしても、何もないところに話
題を提供することをフェイトはさほど得意としてはいない。
 そんなわけだから施設の説明を口にする以外、フェイトはカイムに対して何一つ話しかけること
が出来ないでいた。そもそも話しかけにくい風貌をしている事もあるし、なにより時間は経って慣
れてきてはいるものの、初めて出会った時この男にしてしまった恥ずかしい勘違いを忘れているわ
けではないのである。

「それと、ここが開発室……あれっ?」

 マントに身を包んだ男を後ろに連れ、デバイスの調整・作成を行うメカニック・ルームを訪れた
フェイト。しかし中に居るはずのシャリオは、デスクにはいなかった。
 既に大量に武器を保持しているらしいこの男には不要と言われるかもしれないが、通信用のもの
は必要だし、もしかしたら本格的に何かデバイスを組むこともあるかもしれない。ならばシャリオ
と顔を合わせておいた方がいいかなと思ったのだが、これは当てが外れてしまった。

「おかしいな……どこに」
「あ、それはそうじゃなくて、腕に……と、こうです」

 ん? と振り返る。
 背後には無表情な男の手を取り、その手首に何かを巻きつけているシャーリーの姿があった。

「シャーリー?」
「あ、フェイトさん。カイムさん用に、映像付きの通信機作ってみたんですけど」
「…仕事早いね。そっか、外にいたんだ」
「はい。お二人が中を回ってるって、シグナムさんから聞いて……あ、遅れました。通信主任兼メカ
ニックのシャリオ・フィニーノです」

 届けに来たのだろう、腕時計の形をしたそれは、小さく簡素ながらウインドウも表示できるスグ
レモノだ。
 共闘が決定してから今まで一週間も経っていない。新人たちのそれや自分達隊長陣の複雑なデバ
イス調整作業もあるだろうに、まったく良い仕事っぷりである。

「それでですね、ちょっとデバイスの参考にしたくて、一本剣をお借りしたいんですけど……」
「………………」
「いいんですか? ありがとうございますっ」

 その後。今現在仕事に余裕があるということで、なし崩し的に二人に同行することになったシャ
リオ。カイムに対しても臆することなく、むしろ積極的に色々と会話を試みた。
 やはり話の種は、気になる異世界の魔法技術。ただし口の利けないカイムでも首を振って意思表
示ができるよう、イエスノーで答えられる形で話を進めるのは流石といったところであろう。
 今まで手を隠し続けているカイムであるが、少々馴れ馴れしくはあれ心の内にずかずかと踏み入
ることをしようとしない辺りは認めたのだろう。剣を借りたいというシャリオの願いに意外にも応
じ、マントの中、腰に備えていた曲剣「地竜の鉤爪」を手渡した。
 シャリオ・フィニーノの辞書にやはり人見知りという文字はない。フェイトはそう改めて思い、
そして感謝した。自分一人では息詰まるだけの場であったが、こうして話してくれる人がいれば何
と明るい事か。相変わらず無表情のカイムの雰囲気も、張り詰めたものが幾分消えているようにも
感じられた。

「これ……」
「? どうしたの、シャーリー?」

 湾曲した剣を手にしたシャリオが目の色を変えて呟き、疑問に思ったフェイトが立ち止って聞く。

「……あ、いえ。一見簡素な造りなのに、組成がすごく複雑で……ちょっとびっくりしちゃって」

 黒光りする刀身はドラゴンが言ったのによれば確か、自分も見たあの鉄球を喚ぶ魔法が込められ
ていたはず。
 バリアジャケットが無いというデメリットはあるものの、話によれば発動するのに必要なのは魔
力の体内での増幅のみで、口頭による詠唱は全く必要としないという事であった。
 制御機能までは付いていないのだろう。しかし自分で発動の位置を調節できるのなら、高速で発
動する強力な魔法は対魔導師戦において大きな戦力となろう。詠唱に時間のかかる、砲撃魔法を使
う前の魔導師を護衛するにはとても向いているかもしれない。
 と考えたところで、やはり一つの疑念が頭を過る。
 ミッドチルダ以外で、これほど強大な魔法を込めた物品を扱う世界は、ゼロとは言わないがそう
多くもない。だのに、彼らは義兄クロノから聞き出した話によると、管理も発見もされていない全
く未知の世界の出身であるという。考えられない事態であった。これは一体どういうことか――。
 ……カイムとドラゴンがなかなか話をしてくれない以上、ひょっとするとクロノをもうちょっと強
く問い詰めねばならないかもしれない。物理的な意味で。

「……シャーリー。それ、ちょっとアブナイ人に見えるよ」

 というようなことを心の中で思いながら、再びシャリオを見たところでフェイトは言った。
 斜めに握った黒い刀身を、熱いまなざしを向けつつ指でなぞる、シャリオの姿は結構怪しかった。

「えっ、で、でもこれ、ホントにすごいですよっ」
『我らにとっては、お主らの杖の方こそ異常なのだがな』

 唐突に響く『声』。
 何所に、ときょろきょろ見回すと、精神に直接、「上だ」と響く。
 ちょうど一通りの案内は終わっていたので、切り上げるのもいいかなと、カイムに先導して階段
を上る二人。
 やはりというべきか、待っていたのはあの赤い竜であった。

「あれ? フェイトさん、もう終わったんっすか?」

 が、その傍らにはもう一人、男があぐらをかいて座っている。
 ヴァイス・グランセニック。
 確かに輸送・移送の仕事が無い時は基本的に時間にゆとりのある人間だが、彼もまたシャリオと
同じく、話す相手を選ばない気さくな人間であった。

「ヴァイスさん、こんなところに」
「ちょっと暇してたら、話し相手が飛んできたもんで」
「暇人なだけはある、良い時間潰しにはなったぞ」
「ひまっ……お、俺はそんなんじゃなくてですねぇ!」

 ふふ、とシャリオから笑い声がこぼれ、フェイトも安心したように笑って見せた。
 どうやら心配しなくとも、…まぁカイムはともかく、少なくともドラゴンの方は、六課の面々と
少しずつ交流を持ち始めていたらしい。

「……さて。案内は済んだのだな」
「あ、はい」
「そうか。……両手に花とはいい身分だな、カイムよ」
「…………」

 その言葉には若干の嫉妬が混ざっているように感じられた。
 が、フェイトもシャリオもヴァイスも、あまりに小さな声の印象だったため、言葉に出して指摘
することは結局なかった。

「あの……カイムさん」
「……?」

 割と和やかになった雰囲気の中、真剣な表情になって呼び止めるフェイト。
 『何だ』とドラゴンが訳す。それを聞き、続ける。

「……聞かせて欲しいんです。あなたたちと、あなたたちが過ごした世界のことを、もう少し」

 今なら、話が聞けるかも知れない、そう思っての問いかけであった。
 シャリオが一緒について来てくれていたおかげで、今まで彼を連れて歩いた時の、纏う雰囲気は
決して悪いものではなかったから。
 それを聞くとカイムは小さく俯き、無表情のままで逡巡するような態度を見せる。
 しばらくするとドラゴンに向かって顔を上げ、ドラゴンもまたカイムを見つめ返した。『声』の
会話だ。

「そうさな。少しだけ語っても良いそうだ」
「あ……!」

 ぱぁっと、フェイトの顔が明るくなった。
 少しずつではあるが、やっとカイムも心を開いてくれている――そんな気がして。
 が。

「この男の両親は我が同族に食い殺され、故郷は焼き亡ぼされた」

 飛び込んできた言葉に、フェイトに限らず場に居た三人とも、思わず耳を疑った。

「……え?」
「もともとこの男は、とある小国の王子であった。お主に話した少女マナの率いる、帝国軍に侵略
されたがな。……その後は数多の戦場を渡り歩き、その身一つで戦い続けてきた」

 内容が理解できない。言葉が頭に入ってこない。
 殺された? 亡ぼされた? ――あまりにもあっさり告げられた内容に、フェイトたちは混乱し
た。ミッドチルダでも犯罪は起きるし、殺人事件だって無いとは言わない。でも国と国が戦争を繰
り広げることは、少なくともフェイト達の生きる時代には無かった。
 ということは、ドラゴンが言っていた『壊れた』という言葉は――
 思考にはまってしまった三人を残して、カイムを乗せたドラゴンが大きな翼を屋上に広げる。
 それに気づいたフェイトが引き留めようとするも、それを聞かずにドラゴンは、こう言い残して
飛び立って行った。

「続きはいずれ話そう。それが必要に迫られぬことを、我は願うがな」



「あれ……? これ」

 いくらか経った後、ふとシャリオが呟いた。
 思考の渦から己を取り戻し、何、とフェイトが顔を向ける。
 その手には先ほどカイムから借りた湾曲した刃、地竜の鉤爪が握られていた。

「どうしたの?」
「あの……この剣。外の光で、今はじめて気づいたんですけど……」

 そう言いながら、シャリオはゆっくりと、刃の腹を指で示す。
 何だろう、と、鈍く黒光りのする刀身に目を向ける。

「…………血?」

 重厚な鋼の上に、黒ずんだその模様は刃紋と見まがうくらいに紛れてしまっている。
 だがそこには確かに鉄ではない、その上から付着したとみられる赤黒い何かが残されていた。
 血痕だ。

「……どうも、ワケ有りみたいっすね」
「……あのドラゴンさん、何か言ってた……?」
「いえ。自己紹介とミッドの説明してたら、時間経つのが早くて」

 問われたヴァイスは首を横に振った。
 竜にとってもヴァイスにとっても、会話は本当に暇つぶし以外の何物でもなかった。逆に言えば
ヴァイスがしつこく身の上を聞こうとしなかったからこそ、ドラゴンも話し相手として会話を拒ま
なかったのであろう。

「……明日、何事もなけりゃいいんですがね……」

 ヴァイスがぽつりと言った。
 翌日には、ホテル・アグスタでの警備任務が迫ってきている。乱入さえなければ、何ということ
ない任務のはずなのだが。

「……大丈夫だよ、きっと」

 フェイトのそれは、誰に言った言葉であったか。



前へ 目次へ 次へ