正気を失ったエルフの女の、幼子の血と死の匂いに濁った意識は、何とも居心地の良いものだった。
 上位精霊として世界をさすらい出会った、死に瀕する女は文字通りの狂人であった。負の感情と
すら定義されぬ混沌とした衝動。混濁した子供への狂愛に惹かれ、二つの棘は歪んだ女と契約し、
そして女の心赴くままに戦った。
 殺戮の欲望を封印された女は、それでも禁忌を感じることもなく、死臭に焦がれるかのごとく殺
戮を繰り返した。共に旅をした剣士と違い、完璧に精神が崩壊した女はそこに偽りの大義など見出
しはしない。彼らにとってそれは心地よさですらあった。もとより精霊たる彼等も、人間の死に感
じるものはそう多くない。
 だがしかし、快い時間は唐突に終わった。
 千切れ散り散りになる身体、字のままに八つ裂きに裂ける意識。狂乱の精神は子を喰らい、そし
て自らも喰らわれる喜びに打ち震えながら、おぞましい赤子の歯にすり潰された。
 女は敵に、文字通り「喰われた」。
 神の御使いの糧となり、世界の時間を止める母体へと吸収される。天使たちを束ねる司令塔とし
ての役割を兼ね、世界崩壊の役を与えられた最悪の大天使へ女は成り果てた。
 赤子に喰われるという壮絶な最期であったが、その瞬間には恐怖の慟哭も、憤怒の断末魔もなか
った。愛する我が子の幻影を重ね合わせたのだろうか、死ぬ直前のあの言い知れぬ歓喜の叫びは、
今でも記憶に強く刻まれている。

 そしてその時点で、女と命を共有する彼らもまた、その生命を終えるはずだった。

 水の上位精霊ウンディーネ、同じく火炎のサラマンダー。狂惑の未亡人アリオーシュと契約した
彼らの命は、その死とともに失われ、消えゆく運命を避け得なかった。
 女と生死を共にする事を決めた彼らにとって、そのこと自体については別にどう思う事もなく受
け入れられた。己の命への執着よりも女の意識の心地よさを選んだ精霊たちだ。契約の瞬間に、そ
のことはもう承知している。
 ……だが。どういうわけか、彼らの生命はまだ、失われてはいなかった。

 ――『声』を女に向けて飛ばすも、いつもの様な甲高い答えは聞こえない。契約により精神が繋
がっている以上、ここから導かれる事実はただ一つ。精霊たちの契約者、アリオーシュは確かに死
んだのだ。
 精霊たちは混乱の最中にあった。一体何故、自分たちはまだ存在しているのだ?
 命を共有し強大な力を得る、契約とはその代わりに絶対の制約を有するのだ。契約相手の辿る運
命は一蓮托生、それがたとえ死であろうと、例外などありはしない。
 (何が起こったのだ?)精霊たちは自問する。彼らが最期に過ごしたのは調和が失われ秩序が崩
壊した世界であったが、それでも契約は確実に効力を発していた。自分たちが生きているなど有り
得ぬこと。なのに――
 ……ふと思うところあって、彼らの意識は周囲へと向けられる。

――空を見た。

 青。滅亡の赤ではない。

――――地を見た。

 ……茶。鮮血の朱ではない。

――――――背後を見た。

 緑。業火の紅ではない。

 意味不明であった。
 帝都の虚空から舞い降りる殺戮の天使は、もはや契約者たちの力でも斃し尽くすことは不可能。
よしんば討てたとしても、「崩壊の鍵」マナの死とともに失われた調和は、もう二度と回復するこ
とはない。世界は間違いなく、神の意志により滅びを迎える宿命だった。
 それ故に、青い空など有り得ぬはずだ。
 いつの間にかそこに居た、としか彼らに表現する術はない。周囲に鮮やかなのは炎ではなく、緑
が地平の果てまで続いている。そこはどうやら森の一角のようであった。
 彼らは茂みを出た。
 母体となったアリオーシュの影響なのか、それともこの奇妙な状況が生んだ結果か。彼らの「力」
は未だに失われることはなく、むしろいくぶん増大しているように感じられた。魔力で飛ばす体は
軽く、旅の連れに居たフェアリーを彷彿とさせる。
 落雷にでもあったのか、抜けた先には倒木があり、そこに陽光が降り注いでいた。
 世界から暖かな陽の光など、永遠に失われたはず。もはやそこが、彼らのもといた場所でないの
は明白だった。しかし彼らの困惑はさらに深まる。事実がなぜか、受け入れがたい。
 幻術の類か?
 精霊をこうまでも嵌める幻想魔法など在りはしないのだが、彼らの叡智を以てしても、この状況
の前には混乱せざるを得なかった。「あり得ない」生存、「あり得ない」光景。彼らは死を確信し
ていたがゆえに、裏切られたことの反動はそれだけ大きい。
 ふらふらと、彼らは緑の中を飛んだ。行動をともにするアリオーシュの気配は、少なくとも近く
にはない。
 やはり、死んだのか。ようやく彼らは現実を認めつつあった。そうして後にようやく、その疑問
が浮かぶ。

――これから、どうすればいい?
 自問する精霊たち。戦いで己を保っているとある剣士ほどではないものの、彼らはアリオーシュ
との契約の時点で、戦いと殺戮以外の未来をすでに棄てていたのだ。
 どこへ行けばいいのだろう。また世界を旅するのか?
 旅をして、その果てに何を求めるのだ? 何の宛てがあるのだ。
 あの女の狂気以上に惹かれる存在に、出会うことはあるのか――?

「…………?」

 唐突に感じ取った、規則正しい息の気配。
 鋭敏繊細な彼らの感覚が、空気の震えを感知した。混乱のためだろうか、いつからか接近を許し
ていたらしい。生物のそれと思しき、息の気配が背後から感じられる。

「……あっ」

 漏れる声。
 人語。人間だ。人間の――
 人間? 滅びの運命を辿った筈の?
 いや、ここがあの世界だとも限らない。そう思い、彼らは振り返る。契約相手が神の御使いと成
り果てたのであれば、神の国に飛ばされたとしても何の不思議もないであろう。
 しかし果たして、そこにいたのは、神などではなかった。
 そこにいたのは、一人の少女であった。

「青い子と……赤い子…………?」

 上位精霊を何だと思っているのか。目の前の少女は彼らの姿を見ると、確かめるように呟いた。
彼女は不思議な視線で精霊たちを見、精霊たちはその目に感情の乏しさを感じ取る。
 狂気が「動」ならば、それは「静」であろうか。何もかもが希薄な精神の生むものだ。

「……おいで」

 唐突に言った少女。
 このまま無意味な旅をするのならと、彼らは少女の許へと向かった。去ったところでどうせ、行
くあてなどありはしない。

 彼らが出会ったのは魔導師のローブを被った、紫色の髪の少女だった。


「新たな玩具か。熱心なことだ」
「本当だよ。これまで色々なものを弄ってきたけど、これほどまでに美しい術の組成は初めて見るね」

 皮肉交じりでゼストが言うが、相手には通じているのか通じていないのか。ウインドウの中、ス
クリーンの向こう側では、ジェイル・スカリエッティがやや高揚した面持ちで視線を返してくる。
 レリックが関わらぬ限り不可侵を決めている彼らにとっては、普段このような通信は有り得ぬこ
とである。
 それでも現実にそんな機会が設けられているのは、単にスカリエッティの、こんな言葉が切っ掛
けであった。

「いい武器があるんだ。君に使ってくれればと思ってね」
「一言一句違えず、その台詞は昨夜聞いた。そんなものは要らないと言ったはずだ」

 突然の提案に、珍しいこともあったものだと思ったのは先日の事だ。
 しかしゼストはそれを直ぐに飲まななかった。この男、スカリエッティは他人を利用し自らの欲
望を満たす、彼の嫌う種の人間だ。協力するのは特定の条件下に限られ、基本的に彼と関わる気は
ゼストにはなかった。
 それに彼が、他人のために無償で動くことなどありえない。何らかの見返りを求められることく
らいは容易に想像が付くのだ。

「データが採りたいだけなんだ。心配しなくていい。一応確かめたけれど、危険はないはずだよ」
「必要がない」

 見返りはデータであったようだ。どうせそんな事だろうと思っていた。
 こちらの都合などお構いなしに言うスカリエッティ。しかしその最中にも、彼はちらちらと視線
を外して別のモニターを確認していた。
 その中には彼の「新たな玩具」、大きな白い球体が映っていた。意識がそちらに散るところを見
ると、よほど気になるのだろうか。

「そうか……ではこうしよう。捨ててくれても構わない」
「何?」
「先に言ったが、私には別に調べたいものがあるのさ。この武器のデータ以上にね」
「ならば、それも必要ないだろう」
「有るに越したことはないというやつだよ。そういうことだから、欲しくなったらルーテシアに言ってくれ。
転送の仕方は彼女に伝えてある」


 ゼストが待て、というのも聞かず、スカリエッティは通信のウインドウを閉じる。
 言ってしまえば、どうでもよかった。彼の頭は話に出した武器の事よりも、それらの傍に出現し
ていた白い球体のことでいっぱいだったのだ。

「それにしても……驚いたね、あの時は」

 それがラボの付近に突如として出現した、あの瞬間は今でも忘れられない。
 レーダーの索敵範囲に検知された、謎の魔力の気配。魔導師とも魔法生物ともつかぬ異様な反応
に、スカリエッティは直ぐに動いた。
 魔導による一時的な封印、そして移動。同時にそこらに転がっていた、見たこともない何振りか
の剣の回収。労力はそれなりに使ったが、しかしそれだけの価値はあった。

「外殻の解析はまだ半分も至らないが、生物の組成らしきものが多かった…ガジェットへ応用して
もよし、再生してもよし、だね」

 スカリエッティは思わず笑みをこぼした。未知との出会いは科学者との喜び。そういう意味で、
球体は彼にとってまさに神の恵みであった。
 封印を維持しつつ調査を進めてみたところ、「卵」の外殻だけでもとてつもない魔力を秘めてい
る。さらにそれを取り囲むように、複雑難解に入り組んだ呪術の式。解読を進めれば進めるほど新
たな情報と謎が浮かび上がる、彼が得たそれはまさに魔導の迷宮であった。
 とはいえ、天才ジェイル・スカリエッティに解けぬ魔導など無い、というのが彼の身上である。
事実異様な好奇心に駆られた彼は、恐るべき速度で「卵」の解読を進めつつあった。
 彼は「卵」を、生命のソースの貯蔵庫の様なものだと推測している。
 得られたデータを分析、適切に翻訳し再構成して得られたものは、ミッドチルダはおろか、どの
世界にも存在しない生物のものがほとんどであった。そしてその全てが、その中央部に向かって、
魔力の志向性を帯びている。
 あたかも、全ての生物を超えた新たな生命体を、作ろうとしているかのようだった。

「外殻が終われば、あとは内部か……容易ではなさそうだが、是非とも解読しなくてはね」

 まだ、彼には聞こえていない。「卵」の中から響く、生命の脈動が。
 世界崩壊の鍵とは別に、かつて世界の調和を保ち続けていた、一人の女の魂の声が。

――兄 さん


      にいさ ん



           ニ イサ ン





                     ワタ シヲ ミ ツケ テ


「!」

 背筋を走る「何か」。
 雪辱を申し込んできたティアナの山吹色の光球を抜剣もせず打ち飛ばし、火炎の弾丸で返礼した
カイムは弾かれたように、ミッドチルダの空を見やった。
 背骨の芯を通り、爪先から抜けてゆくような違和感であった。生理的な不快感を伴ったそれが身
体を這い下り、肩を上って、得体の知れぬ何かを脳に伝えている。
 これは。
 これは?

「…………」 

 殺那的な、言い知れぬ不安であった。
 しかし未だに脳裏に残るそれは、カイムが知っている種のものだ。マナを殺し、崩れゆく空中要
塞を駆け抜けた時の、忘れもしないあの悪寒――
 魔剣の呪法に通じていても、占術の類いを学んだことはない。未来を労せず知ろうなどとはおこ
がましいし、予感や虫の報せなどというものが基本的に当てにならないのはあの世界で学んだ。
 だが、これは何だ?
 言葉にできない、纏わりつきわだかまるような、この漠然とした、胸騒ぎは。

「……………………」

 苛立ちを振り切るようにスバルの足を払い、カイムは守る腕ごと、乱暴に蹴り飛ばした。



前へ 目次へ 次へ