膨大な魔力を秘めた赤い竜の威容に、クロノは思わず息を呑んだ。高層ビルの立ち並ぶ新宿の、曇りがかった灰色の空である。
 この場で何が起こっていたか、実のところはよくわからない。管轄内の世界でおぞましいまでに強大な魔力と、次元の歪みを感知し、
今ようやく駆けつけたところだった。しかしその主たる神の像は消え、代わりに今度は周囲を旋回し魔術の声紋を放っていた竜、そして
その背の男から発せられる魔力が急激に跳ね上がっている。
 ロストロギア絡みかと推測し友人たちに緊急の要請をしてきたが、眼下にあるのは砂塵と化し、消滅してゆく異形の巨
人の死体だけ。大いなる力の発生源が瞬時に移行したということは、魔力を奪ったということなのか。リンカーコアは
どうなっているのか。そもそもこれまで観測すらされていなかった世界の住人が、これ程の魔力を持つ者たちが、何
故突如として自分たちの保護世界に現れたか。事情が飲み込めないまま、クロノの中で様々な疑問が渦を巻いた。

「さて。我々をどうする気だ?」
「……、この場から離れます。この世界では『竜』の存在は一般に認知されていない」

 それでも竜に話しかけられ、クロノは冷静さを取り戻した。思考に耽るのは後だ。今は考えるよりも他にするべきことが
ある。クロノはデバイスを片手に目を閉じ、念を込めながら詠唱を開始する。
 次の瞬間、三者の足元を覆うようにフィールド上の魔法陣が展開する。クロノの魔法だ。帝国が海上要塞から女神を連
れ去った時のものに近いが、どうやら何かの媒介を使用しているように感じた。カイムの魔剣や己の魔法と魔力の巡らせ
方も違い、どこか根本的に異なる体系の魔法であるようにドラゴンには思えた。
 陣が発光し、辺りの空間を飲み込む。網膜を灼く光の奔流が収まった時その目を開いたドラゴンが見たのは、あの懐かし
い、今にも落ちてきそうな青空だった。
 そう、青空。

「…………」

 羽ばたきながらドラゴンは大きく息を吸った。崩壊した世界の地獄の瘴気も、鮮血のごとく赤い空も無い。当たり前に在
った青い空がこれ程愛しいもののように感じたことはなかった。戦いは終わったのだと、そんな安堵が改めて心に響いた。

「……話を聞かせて欲しい。あなた達の処遇は、それから決まります」

 言葉にできない思いにドラゴンが胸を打たれていると、痺れを切らしたようにクロノが切り出す。
 やれやれ無粋な奴だと思いながら、赤き竜は視線を空から宙に浮く魔導師に向け直す。だが考えてみればこの空を拝めたの
もこの男の御蔭であると気付き、無視するのもあれだろうとドラゴンは思いなおした。

「処遇とは随分な言い草だな。まあいい、……む」

 皮肉を交えて答えようとすると、背中の男が動くのを感じてドラゴンは止めた。
 むくりと起き上がった男は武骨な威容の巨剣を抜き身のまま背に負い、腰の鞘に長剣を携えていた。戦いを終えた血塗
れの竜騎士カイムが目を覚ましたのだ。ドラゴンの言葉に絶大な信を置いているとはいえ、戦場に慣れ親しんだ体はこの
近距離での魔術の行使を見過ごすことはなかった。
 疲労に疲労を重ねていたために直ぐ覚醒するには至らなかったが、それでも無意識に剣の柄に手を乗せているのは狂戦
士の哀しい性を思わせた。

「彼は」
「……我がドラグーンだ。やれやれ、寝て居れと言ったであろうに」

 男に視線を向けながらドラゴンは言った。戦場に親しみ過ぎた半身を痛ましく思いながらも、おくびにも出さないのは
さすが竜族といったところか。
 うっすらとカイムが目を開け、体を起こす。胸当てには大小様々な傷がつき、その深い青は異形どもの返り血で紅に染
まっている。
 服は裂け、よく見るとその中には銀の帷子と短剣が仕込まれているようだ。さらに見ると足下の竜の背には彼の物と思
われる武装がいくつも備えられているらしい。ロストロギアのような強大な気配はないが、そのどれも怨念じみた魔の気
配を帯びている。単身で大軍に挑むような、いや実際そうしてきたのだろうと思わせる出で立ちだった。
 そんな分析をするクロノを、空虚な暗黒を宿す瞳がとらえる。次いで空を見、大地を見て現状を察した。そしてドラゴ
ンに一つ『声』を残すと、カイムはその背に仰向けになって天空を見つめ始める。やはり青空に感ずるところがあったの
だろう、空しさに穏やかさが入り交じったような静かな『声』であった。

「……、地上に何人かおるようだな。おぬしの仲間か」
「……ええ」
「鬱陶しいから来させるな。話をする気も起きぬ」

 いざという時のために視認すら出来ないほどの距離に親友が部隊を待たせてくれていたのだが、それもあっさりと看
破されて一瞬言葉に詰まった。
 ちらりとも見ていないのにどうやってと思いながら、しかしその正体が低空戦で培ったカイムの索敵能力であり、察知
した気配を思念で送ったのだと知るすべもない。分からない事だらけだがとりあえずこの竜に隠し事など無駄だろうなと
確信する。

「この男は……ある事情で、口が利けぬ。話は我がしよう」

 そのドラゴンの言葉には、ほんの少しの悔恨が混じっているように感じられた。

 ドラゴンの話は、余りにも荒唐無稽なものだと言えた。凄惨を極める戦いの物語に、聞いているクロノが思わず唾を飲
んだ程に。
 世界崩壊を止める封印を巡って帝国軍が彼らの属する連合軍へ侵略を開始し、「天使の教会」の旗印の下次々と破壊。
狂戦士と化したおびただしい数の帝国兵、異形の巨人サイクロプス。数々の敵と殺戮に殺戮を重ねて攫われた最終封印
「女神」を追い、そして追い詰めた敵の教祖は幼き少女だった。母の愛情を求め、そこに付け入られた傀儡という名の神
の御使いとなった少女をその実の兄と契約したゴーレムの怒りの拳が圧殺するも、それを皮切りに世界は崩壊した。

「今思えば、あの幼子は人類滅亡のために神が用意した『鍵』だったのやもしれぬ」

 竜は語る。人を滅ぼすべく赤き天空から舞い降りる、殺戮の「天使」たち。おぞましい赤子は仲間を文字通り喰らい、
殺し、契約者アリオーシュを吸収したそれは『母体』と化す。しかし決死の戦いで追い詰めた『母』はもといた世界から
逃亡を図り、二人はそれを追って世界から旅立った。そしてあの街、新宿に辿りつき、時間を止め世界を封印しようとす
る「歌」を、契約者の魔力を込めた声紋で相殺し防いだのだという。

「…………」

 信じるに足る証拠は…無い。だが妄言と片付けてしまうにはその言葉はあまりにも重かった。
 相手の誇り高さを感じ、嘘を吐くような真似はしない確信したのも事実。だがそれ以上に地獄を見てきた者のみが持つ、
瞳の奥の壮絶な闇を垣間見たのである。提督という立場になるまで犯罪者や違法魔導師など多くの人間と戦ってきたクロノ
だが、これ程圧倒的な絶望の名残を、負の気配を帯びた者と相対したことはなかった。

「さて、処遇とやらを聞こう。どうだ?」

 黙した魔導師にドラゴンが尋ね、クロノははっと我に返る。思索で己を見失うとは自分らしくもないと、直ぐに思考の渦
を消し去ったのはさすがといったところだろうか。

「調査してみないと何とも言えません。だがあなた達や、あの……天使、の魔力は明らかに異質だ。あなた達が居たのは、
我々時空管理局すら知らない世界と推測される……信じられないことだが」

 世界の時を止めようとしたらしい異形の化け物を「天使」と呼ぶにはいささか抵抗があったが、わざわざ変えることもな
いかと躊躇いがちに言う。

「だろうな。魔法というものの体系そのものが違っておる」
「本来偶然の来訪者は、ロスト……所有物検査を経れば、記憶操作の上で帰還することができます。だが、これでは……もう一
 つの選択肢、永住しか」
「構わぬ」

 固より、もはや帰る気など無い。
 世界に残された少年セエレも理解していただろう、せめて自分を忘れないでと叫んでいた。事実二人はそのつもりで「門」
を潜ったのだ。生死不明の女神と親友、そしてたった一人残った仲間を置いて来てしまったことになるが、この澄んだ空を
見てしまった後ではもう何と言われようと戻ることはできない。

「……では、我らはあの森を使うぞ」

 何かあれば『声』を飛ばせ。そう言い残してドラゴンは翼を翻す。

 魔導師に背を向け、竜は一つ大きな嘶きを上げた。
 大空をわたる穏やかな優しい風、どれほど焦がれたことだろうか。溢れる何かに突き動かされての咆哮だった。火竜の叫
びを子守唄に、カイムもまた深い眠りに落ちてゆく――

『……現地に発生したロストロギアの疑いがある存在は消滅。消滅させた本人たちはその所有者ではなかった』

 残された魔導師は、そう通達を締めくくった。念話の相手の機動六課部隊長は丁度クロノから離れていた隊長たちに代
わって新人フォワードを大急ぎで派遣させられただけあって、まだ納得が行っていないようだ。仕方のない話と言えるかも
しれないが、それを言うなら自分も本局から緊急で配備された身なので、文句を言われるのは筋違いとも言える。
 それに少なくとも彼らが手にしていたのは、ロストロギアではないと推測された。どちらかというと自分たちの使用する
デバイスに近いように感じたのだ。魔法の体系が違うとは本当のようで、それは自分が知るものとは随分異質なものだった
けれども。
 推測の域を出ないのは確かだろう。本来ならば本部に出頭させ即刻武器を剥ぎ取り調査すべきである。だがそれはできな
かった。身も心も疲れ果て、心を空っぽにした彼らに鞭を打つほど残酷な真似は出来なかったのだ。

『フェイト、なのは。もう大丈夫だから、急ぐ必要はないよ』

 市街地飛行の許可を得て、猛烈な勢いで接近する二人の魔導師に念を投げかける。すると加速は止み、驚きの気配と共に
二人の移動は停止した。位置はちょうど、地上で待機している四人のフォワードを挿んで向かい側に十と数キロほどか。ラ
ンクの制限を受けながらよくもここまで来れたなと、二人の魔導師の能力に改めて舌を巻く思いだった。

『クロノ君、どういうこと? 大丈夫って?』
『お兄ちゃん……』

 そしてそう簡単に物事を捨ておける程、追及の甘い人間でもないのだ。
 この場合どう答えるべきか、クロノは思案に暮れた。優しい二人の事だから、話せばきっと事情を酌んでくれるとは思う。
話した途端彼らを捜索して、事情を話させるようなことはしないだろう。しかしあの暗い瞳を見ていないことを考えると、
話を聞いたところで職務を優先させることも万が一位には考えられた。二人の正義感の強さが、逆に不安だったのである。
 そうして暫く考えていると、念話の向こうの気配がだんだんと怪しげなものになっていく。これ以上の引き延ばしは危険
と判断したクロノは、ようやく一つだけ漏らした。

『……いいよな、少しくらいなら』
『え?』
『何でもない。一応調査は必要だけど、所在ははっきりしてるし基本協力的だからもう平気だ。後で追って連絡するから』
『……お兄ちゃん?』
『下で待ってる新人たちに、無駄足運ばせて申し訳ないと言っておいてくれ』
『クロノ君!』

 クロノが選んだのは逃げの一手だった。思わず漏らした、ように聞こえる一言で意識が反れた二人に一気に畳みかけ、尋
ねる暇も与えず言いたいことだけ言って空の彼方に飛び去っていったのである。
 きっとあの二人なら見つかるまい、見つかってもいきなり戦いになるようなことはあるまいと考えての行動だった。そう
いえばまだ名前を聞いていなかったなと、今更になって思い出したのが妙に笑えた。



 さてその新人たちであるが、揃いも揃って皆ぽかんと空を見つめていた。
 転移の陣から出現した、神々しいまでの赤き竜。少年少女はまだ経験も浅くその手の生物に接する機会は多くない。その
中でキャロと呼ばれる少女は例外とも言えたが、彼女でさえあれほど見事な火竜を目にしたことはなかったのである。

「……すごい……」

 言葉を忘れていたかのように、随分と時間が経ってから少年が呟いた。名をエリオ。背丈の小さい未熟な身ながら、闘志
に溢れる少年である。
 竜といえば子供の憧れでもある。同僚のキャロの連れているフリードリヒも確かに白銀の飛竜であったが、自分の顔ほど
の大きさしかないのではやはり迫力が違う。遠目に見ていても皆分かっていたようで、残る二人の年上の魔導師、スバルと
ティアナもそれを否定することは終ぞなかった。
 やがて竜が飛び去り、上司二人と残された魔導師の念話が始まる。そうなってようやく、キャロは思い出したように言った。

「他の世界にも……いるんだ、竜を喚ぶ人」
「……え? 何?」
「う、ううん、何でもないよっ」

 正確には喚ぶのではなく、心臓を共有するのだが微妙な勘違いをし、同族意識を感じていた。



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