全ての終わりを告げるものが今、竜と竜騎士の手によって、滅びを迎えようとしていた。
 眼下、女性をかたどった巨人「母」の身体は既に崩壊が始まっている。開け放たれた口から長い
舌がだらりと垂れ、白濁した瞳は徐々に塵になって消えていく。
 東京、新宿の高層ビルに寄りかかり崩れてゆくそれは、竜と竜騎士が最後の戦いを繰り広げた異
形の敵であった。時間と空間を歪め、世界をも飛び越えた巨大な敵が、再び無へ還っていく。
 ドラゴンの背中に乗る竜騎士カイムの瞳には、最早一片の力も残されてはいなかった。
 疲労困憊であった彼にはもう、まともに思考をするだけの余裕がないのである。振り返って背を
見るドラゴンも同じで、彼が落ちぬよう気遣ってやることだけで精いっぱいだ。
 そういった疲労もあって、崩れゆく巨人を目にしても、カイムとドラゴンは俄かにはそれを信じ
られずにいた。敵は滅びたと、そう信じても良いものか。信じたものがあっさりと破れていく様は、
彼らが歩んだ道程で幾度も目にしている光景でもあった。それだけにこと戦いにおいては、彼らの
疑心暗鬼の根は深い。
 二人がようやく現実を認めたのは、ビルにもたれた死体の首がぐずぐずと崩れ、巨大な頭蓋が胴
から離れるのを見てからだった。
 「敵」が肉体を維持することができなくなったのだと、そこでやっと確証が得られた。この巨人
の同類らしき敵を何体も殺してきたが、それらも首を落とされれば絶命はしたのを思い出したのだ。
 それが他の生命と同じ、死という概念に該当していたのか。そう問われれば確かに、答えに窮す
るところではあったけれども。

「ずいぶん遠くまで来た……」

 背に乗る男に注意を払って羽ばたきながら、いつしかドラゴンは口を開いていた。己の口から走
った声を聞くと、乾いた感情がその心に沈んだ。
 奇妙な戦いであった、と思い起こす。
 背に乗る男の両親の仇――怨敵たる「帝国」と、彼の与する「連合国」の戦い。当初はそのよう
な国同士の、人間同士の諍いと思われた戦争が、よもやこのような結末になろうとは。
 帝国とやらの頭目がたった一人の少女であったという事実も然ることながら、その死が赤子の姿
をした、異界の敵を呼び寄せる引き金になるなどとは想像したことも無かった。
 崩れゆく調和。散ってゆく仲間。その仲間の一人を喰らって成長した「赤子」との、人智を超え
た最後の戦い。
 そうして今手元に残っているのは、ただ事実としての勝利だけだ。実感も充足も無いそれは、儚
く空虚な勝利であった。

「カイムよ……どうする……?」

 途方に暮れた声でドラゴンが呟いたが、背に乗るカイムは身じろぎひとつせず、何も答えない。
 ドラゴンの力を己の肉体に借り受ける「契約」を人の身にて果たした代償に、背に乗るカイムは
肉声で言葉を話すことができなかった。
 答えない、というのはその代わりにドラゴンと通わせる、思念による通信のことだった。全くの
無音に近いところから、カイムの体力と精神力との消耗をドラゴンは察した。
 無理もない話である。巨人「母」との戦いは、明らかに常軌を逸していたのだから。
 敵を追いかけてやってきた見知らぬ世界で繰り広げられるそれは、果たして戦いと言っていいの
かどうかも疑わしい謎の行動であった。「母」が放つ時空を歪める呪法を秘めた歌声と、それを打
ち消すカイムとドラゴンの魔力の波動。直前まで続けていた戦いで限界まで体力を使い、そして混
乱の渦中で続けられた行為であった。意味不明の過酷な状況ほど精神と肉体を損耗するものはない。
 我らは、何と戦っていたのだろう? あれは一体、何であったのか。
 ドラゴンは誰に問うでもなしに、心の中に疑問を吐きだしていた。戦いは終わり、謎が解き明か
されることは最早あり得ない。「神」とは、「敵」とは。不可解な現象に立ち向かった勇者たちが
心の中でずっと抱いていた問いかけには、ついに答えが与えられぬままになってしまった。
 力を使い果たしたらしい「母」は、今こうして死に絶えた。しかしこの行為には、一体どれほど
の意味があったのだろう?
 強いて言うなら、力を得たことか。「敵」を倒し続けた結果だろうか、ドラゴンは再び真紅の翼
を取り戻していたし、カイムも大量の魔力を吸っているのを感じていた。手にした剣に赤い紋様が
走っているところを振り返って見ると、竜騎士としての力はさらに増大したのだとも知れていた。
 だがドラゴンはその事実に、さしたる価値を見出すことができずにいた。果たして戦う意味を失
い、倒すべき敵を倒した今、我々は一体どうすればいいのだろうか。

「……」
「ああ。先程から思念を飛ばしてきておる」

 思念による通信は、契約者の専売特許ではない。妖精や精霊の中には、離れた地に意志を送るこ
とができるものも存在する。
 身動きできず茫然としているカイムたちに届いたのは、それらとよく似た通信であった。
 まともに言語を理解できることから魔物の類いではないだろう、慌てた様子でこちらに接触を試
みるそれは、おそらくこの世界の魔術師か何かか、と推測する。

「『クロノ』? 人間のようだ。敵意はないが、どうする」
「……」
「……そうさな。無闇に争う理由も無い。話は我がつけよう」

 遠慮しようとする男に対し、どうせ口が利けぬだろうとドラゴンは付け加えた。人の身にこれ以
上は酷だ。もう無理はさせられない。
 カイムは諦めたようにドラゴンの背に横たわった。この竜が己の言葉を翻すとは思えなかった。
警戒をすべきであるのはカイム自身にも分かっていたが、ドラゴンの言うとおり、外部から発せら
れる思念には敵愾心と言うべきものは感じられない。
 
「休め。今ばかりは」

 極限の疲労の中からまどろみへと落ちていくカイムの体を、真紅の背の上で揺らしながらドラゴ
ンが言葉を投げる。膨大な魔力を我が物と同化した竜の瞳にはかつてのような、人間を嘲る色が無
かった。尊大な誇りの代わりに、柔らかな光がそこにあった。



 何処とも知れぬ世界の天空に、竜と竜騎士は確かに生きていた。
 何もかもを失った今、残されたのはお互いの半身だけだ。命を共有する相手が、今もこうして生
き延びている。己の胸の鼓動だけが、竜と竜騎士にそれを伝えていた。



2009.7.14 改

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