腰が抜けるかと思った。
 辛うじて踏みとどまったのは、普段からフリードリヒの、竜の顔を見慣れているからに過ぎない。今度美味しいお肉を
ご馳走しようと、そもそもこの状況を招いた張本人だとも忘れて感謝する。
 白い翼の小さな相棒。話に花が咲いていた事もあり、居なくなったと気付いたのは昼食が済んでからだった。その目撃
情報を追ってやってきたのは、寮のある都市部から外れた森の中。
 午後は教官のなのはがくれた自主訓練の時間だったため運がよかった。今までこんなことはなかったのにと疑問に思い
ながら、ここのところ訓練ばかりで遊んであげられなかったからかなと後悔しつつ、これも索敵能力の訓練のうちだと言
い聞かせて駆け足で森を突き進んでいたのだが。

「この竜はおぬしの連れか」

 少し開けた草原に出てまず見たのは、火に獣の脚をくべる男とその肩で物欲しそうに見ているフリードリヒの影。
 そして三日前に何処からともなく現れて去った、昼の話にも出たあの真紅のドラゴンの姿であった。尻もちをついてし
まいそうになったのは、森の陰から抜けた時にぬっと現れたその顔を真正面から直視してしまったからである。

「は、はい……えと、そのっ」
「連れ行け。探しておったのだろう」

 探知の魔法もまだ使っておらず存在に気付くこともなかったため、キャロの驚きは並大抵ではなかった。
 普段ならすぐ答えられそうな問いにも一瞬言葉が詰まってしまう。しかしドラゴンも男もそんなことを気にした様子は
なく、ぐるぐると回り始めた頭ではあったが、悪い人じゃないのかなとそれだけは思った。
 カイムは単に興味が無かっただけだが。
 そして竜が促すと、男の肩にとまっていたフリードリヒははたはたと飛んでキャロのもとへ戻ってくる。視線はどこか
名残惜しそうだが、キャロの肩にとまったため彼女からはうまく見てとれなかった。
 まだ焼けていない肉を見ているのだろうか。いや、それとも……

「あ、あの、もしかして三日前……」
「……あの時下にいたのはおぬしらか。やれやれ奇妙な巡り合わせだ」

 やっぱり、と思った。ドラゴン自身体内に抑えているのだが、近くに行けば感じるこの途方もなく巨大な魔力の気配は
あの竜に違いない。
 これほどの竜と一緒にいるなんてと思い、ここでキャロは初めて、その傍らにいる男を注視した。
 同族かと一瞬思ったが、彼の出で立ちはそれを否定する。
 背に追う巨剣と腰の大剣、傷だらけの胸当ては戦いを嫌うあの部族にそぐわない。少なくとも自ら剣を握る者は、自分
を追放した時には故郷の人々の中にいなかった。

「あの、竜召喚、ですか?」

 それでも、可能性は否定できない。
 竜を使役できる民族など多くない、はずだ。彼もまた自分より前に、自分のように「力」を忌まれ故郷を追われたかも
しれなかった。
 自分と同じかもしれない、そう思ったのだ。他人に不幸を望むあってはならない感情だが、同時に仲間を求める少女の、
どうしようもない思いでもあった。

「……」

 しかし男は聞き慣れない単語に顔を上げはしたが、口を少し開くとそのまま止まってしまう。
 再び伏せられたカイムの顔には暗い色が浮かんでいた。この事についてドラゴンが負い目を感じているのは知っていた。
……己の望んだことだ。そんなもの、感じる必要など欠片も無いというのに。

「そやつは、口が利けぬ。『契約』の証だ」

 見かねたドラゴンが口を挟む。両者から沈んだような雰囲気を感じてキャロが首を傾げるも、事情を知るわけもない。
疑問はまだ解決していないようで、小さく声に出して呟いた。

「契約……?」
「……心臓を交換する儀式のことだ。力を求めた人間が、己の大切な何かを……カイムの場合は、声を代償にな」

 ようやく全てを悟り、キャロはドラゴンが止めるまでひたすらに謝り倒すのだった。

 久しぶりの人間とはいえ、カイムは然程興味をそそられなかったらしい。どういうわけか去ろうとしない少女を交えた
静かな食事がすむと、剣士はさっさと何処かに行ってしまった。
 ドラゴンに残した『声』――思念の通信によると、水浴びをしてくるらしい。大きなもも肉を放って投げ、巨大な牙が
それを捕らえるのを見ると一人で森の向こうへ去って行った。

「全く、要らぬというに」

 その声は鬱陶しそうに、しかし心底そうではないのだろうと読むことが出来た。
 竜とは、少なくともカイムたちのいた世界では、神の与えるあらゆる試練に耐える魂を持つ者。食事などなくとも行動
に支障をきたすことはほとんどないのだ。
 しかし、そうは言っても悪い気はしない。
 ドラゴンにとって、カイムという人間は不思議な居心地のよさを持っていた。今の行動も本来は不要のはずだが、それ
でも決して不快ではない。言葉面はぶっきらぼうなものであったが、声にはそんな情が滲み出ていた。少なくとも、キャ
ロはそう見てとった。

「さて、聞こうか」

 そして、だからこそ、ドラゴンは人間という生き物に一定の価値を認めている。
 カイムの鮮烈なまでの負の感情に興味を持って契約を許し、そして今ではそれを背に乗せることに誇らしささえ覚えて
いる。勇気を貰ったこともあった。人を見下していたかつての己からは到底考えられない事態である。
 一体あの男の何がそれをもたらしたのか、それがずっと疑問だった。己を変えたのはあの男の力なのか、それとも人間
という種が持つ何かなのか。そんなあてのない問に答えを見い出すのに、他の人間との接触はまさに絶好の機会と言えた。

「え」
「おぬしは去らなかった。話があるのだろう?」

 人間の抱く些細な感情など、悠久の時を生きた竜にとってはお見通しだ。自分の横顔を見つめる視線の中に、僅かな羨
望の念を感じたのだ。
 竜である己をわざわざ待ったということは、おそらく連れている飛竜の封印に関してだろうとドラゴンは予測していた。
そして実際、

「…どうすれば、竜と心を通わせられますか?」
「話せ」

思った通りの問いに竜は答えた。暇つぶしが目的の半分くらいでもあったのだが。


 話すことが好きという訳ではなく、ましてや初めて見る巨大な竜の姿を前にしばらく話しにくそうにするキャロであっ
たが、促されてとつとつと語りだす。
 「力は争い、災いしか生まない」と告げられ、故郷を追われたのだとキャロはまず言った。
 管理局に保護され、落ち込み途方に暮れているところを今の育て親、魔導師フェイトに引き取られた。その後彼女の反
対を押し切って同じ機動六課に入隊、竜召喚を行う魔導師として訓練を重ねてきたのだが……

「制せぬ、か」
「……はい……」

 仔竜とはいえ、召喚……封印の解放がもたらす力は膨大だ。それが暴れ狂わぬよう被召喚者、白竜フリードリヒの精神を
鎮め心を通わせるのが彼女の能力であり腕の見せ所である。
 ところが、それがどうにも上手くいかないのだと彼女は言った。
 故郷で言われたように、力を振るうのが争いを生み人を傷つけるのではと思い、それがどうしても怖いのだと。

「……我らは血と炎の中で『生』を誓った。いわば血塗られた契約だ……だが短い時ではあったが、我はあやつを深く知った。
 今では良き半身よ」

 竜であれ人間であれ、概して幼い生物は力の大きさを理解するのに未熟すぎる傾向がある。永遠の生命を宿命づけられ
た、かつて出会った契約者セエレにもそんな節があった。
 しかし、この少女は違う。話している子供の顔は力を理解せぬ未熟なそれではなく、力の意味を考え、解しているから
こそ、恐れ迷っている魔導師の姿であった。

「おぬしはその竜と、我々よりかは長く共に在ったのだろう。その力に罪悪を抱くのは、あの仔竜を貶しめる事に他ならぬぞ」
「……」

 同じ竜族の関係者という奇妙な連帯感も手伝ってか、ドラゴンの言葉は真摯なものだった。しかし理由はそれだけでは
ない。この少女の言葉は、やけに頭に残るものがあった。

「力を恥じ、恐れる事こそ愚かよ……恐れを抱くものを御せる道理はあるまい」

 他者を思いやるなどカイムくらいにしか向けたことのない行動のはずなのだが、これは一体どういうことか。理由を考
えて答えはすぐに出る。
 なるほどこの少女、境遇がカイムに通じる所があるのだ。愛する故郷を喪い、信じる人間―カイムにとっては親友に、
キャロの場合は村の長に、裏切られたという意味で。
 そういうこともあって、ドラゴンは語るキャロを注視しており、そして見抜いた。件の養い親とやらから継いだのだろ
う、瞳の中の希望の輝きは確かにある。しかしその光が覆い隠す中にも、暗い過去を持つ者のみが宿す闇の色があった。
 凶悪な例が半身として傍にいたためか、人間の負の感情というものについては目が肥えていた。万の敵兵を殺戮し雲霞
の如き巨大な赤子との戦いに狂ったカイムとは比べ物にならないほど小さいし、そしてその比較の意味もないのだが、と
まれドラゴンは少女に僅かながら「黒」を見た。限りない白に囲まれた、小さな点のようなものではあるのだが。
 正体は恐らく「不安」だ。それはキャロ本人も言っていたのだし間違いない。現状では居場所を見つけたという事実が
忘れさせてくれていたようだが、フリードリヒと同じ竜族を目にしたことでその感情も色濃く出ているのだろう。

(温めてやれれば良いのだが)

 身に覚えがあるだけあって、「不安」はドラゴンにとっては共感できる類の感情であった。
 天使との戦いを前に本能的に戦いたドラゴンを、それでも最後まで神に抗うと決意させたのは、背に乗る男が身体を撫
でてくれたからに他ならないのだ。

「……おぬしの養い親も、それを理解して修練を課しておるのだろう。恐れぬよう、慣れるようにな」

 そんなことを考えつつも、少女が力のもたらす争いを恐れているのを鑑みて、その「力」を以て帝国の兵に禍を与え続
けてきた男の話を口にすることは最後までなかった。
 しかしそんな実例が無くとも、キャロにとってドラゴンの話は説得力がある。
 それもその筈、キャロは今までこうして胸の内を面と向かって誰かに語ったことが無いのだ。更に言えば悠久の時を生
き修羅場の数々をくぐった経験が裏打ちしている。その叡智と安定した精神の漂わせる力強さに惹かれて話を聞いて欲し
いと思ったのだが、実際その考えは正しかったと言えよう。

「キュぅ……?」
「……うん、大丈夫……ごめんね、フリード」
「もう良いのか」
「はい。ありがとうございました……ずいぶん、気持ちが軽くなった気がします」

 無論、たった一度の相談で全て解決するほど小さな悩み事ではない。
 しかし顔を上げたキャロからは、身の上を話していた時の瞳の暗い影はとりあえず晴れていた。心配そうに見上げ、咽
を鳴らしたフリードを撫でてやるくらいには、心に余裕というものができたらしい。

「……それだけは、どの世界でも変わらぬのだな」
「え?」
「空耳だ。忘れろ……む」

 認めた相手に限っての話だが、竜族全は世界共通で首に触れられるのを好むのだろうか。
 そんな下らない考えを思わず口にしたドラゴンにキャロが聞き返し、それを遮った火竜の動きが瞬間、停止する。
 カイムから『声』が届いたのだ。

「迎えが来たようだ。おぬしのな」
「迎え……?」
「金色と栗色、女が二人……カイムに接触しておるな、いや、待て。奴等、一体何をしている?」

 しかし、その『声』の様子がどこかおかしい。困惑しているような、戸惑いを孕む響きがあった。
 出会い頭に戦いを挑まれたという訳ではないらしいが、聞いたことのない『声』色にドラゴンから思わず疑問の呟きが
零れる。

「多分、フェイトさんとなのはさん……何かあったのかな……」
「解らぬ。厄介事ではなさそうだが……まあ良い。行け」

 促すと、主人よりも先に小さな従者が飛び上がる。
 どうやら同じ竜族同士、意思の理解はキャロよりもこちらの方が早かったらしい。召喚魔導師の膝にいた子竜はひょい
と宙に浮き、そのまま肩の高さまで羽ばたいて昇った。

「あ、あのっ!」

 しかしいざ行かんとするフリードリヒに反して、キャロはまだ話すことがあった。
 重大なことであり、そしてこの竜の助言に最大限忠実な行動でもある。今ここで頼んでおかないと、次いつ会えるかも
どこに行けばいいのかも分からないのだ。
 力を恐れるのは愚か。なら、力を恐れず、御する術を身につければいい。となるとどうやって体得するかが問題だが…
形は違えどそれを現実に行い、実際に魔力を完璧に制している例が、目の前にいるのだ。

「今度、修行を手伝ってもらえませんかっ!?」

 勇気を振り絞って聞いたキャロ。ドラゴンはややあって、こう答えた。

「この場所を、覚えておけ」


 森を駆け抜ける少女、キャロの心の空は今月最高の晴れ模様を記録していた。
 自分の悩みを打ち明けることで、これほど心が軽くなるとは思っていなかったのだ。養い親のフェイトは、忙しくてな
かなか面倒を見られないのが負い目なのか確かに気を配ってくれるのだが、正直に言えばそのせいで逆に話しづらい部分
があった。心配をかけまいとしてしまうあまり自分で心に鍵をかけてしまっていたのが、今この時になってようやく錠が
解けたのであった。
 同じ竜族、そして竜騎士を見たというのも大きかった。もう二度と会うことはあるまいと思っていた、共に生きる竜と
人。世界でたった一人だ、もう会うことはないんだと思っていただけあって、いわば同族に巡り会えた事実は心の芯を満
たしてくれるような、そんな言葉に出来ない暖かさを伴うものだった。

「……今度、ちゃんとお礼しなきゃ」

 そこまで気が回るのは、やはりフェイトに心配させないよう努めているからである。良しとすべきか、悪しとすべきか。
 何がいいだろう。そういえばあの人、カイムさんはお肉をあげていたなと思い出す。さらに遡ると出会った直後、喋れ
ないのに気付かず嫌な気分にさせてしまったことも蘇った。もう一回、最後に謝らないと。

「きゅる……」
「あ、フリード、ごめんね。お昼ご飯、食べてないもんね」

 すぐ横を飛ぶフリードが咽を鳴らす。あの時カイムから肉を貰えたかどうかは不明だが、貰っていたにしてもとりあえ
ず満腹ではないらしい。話が長引かせてしまったのを申し訳なく思い、キャロは竜をひょいと肩に乗せてやった。

「……ごめんね」

 愛らしい子竜の顔を見て、火竜の言葉が脳裏をよぎる。
 自分は間違いなく、この相方に不自由な思いをさせている。
 解消するには力を御さなければならない。不安が消えたわけではないのだが、恐がって力を使うことから逃げているの
では先に進めない。それだけは頭に深く刻み込むことができた。
 強くならなければならない。
 幸いにも、環境は最高ではないか。経験も実力も折り紙付きの隊長たちに加え、本物の竜までもが協力を約束してくれ
たのだ。

「……私、頑張る……ううん、違うね」
「クゥ?」
「一緒に、頑張ろうっ」
「キュッ」

 いつかこの相棒が、大いなる翼で飛べるように。
 まだ不安の残る今は無理でも、いつか必ず、制してみせる。そう決意するキャロの前で、やがて、森が開けた。



 果たして、湖に辿り着いたキャロがまず見たものは。

「……」
「自殺なんて、……駄目だよ……!」
「生きていれば、きっと……きっと、いいことがあります。だから……」
「……なのはさん、フェイトさん?」

 鎧を着けたまま水に浸かっていた男を不意打ちで引き上げて、真剣な(本人たち)且つ意味不明(カイムだけ)の説得
にあたっている、スターズ分隊長とライトニング分隊長の姿であった。



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