頭痛が酷くなってきた。
 鈍く後を引く悪質さ。煩わしいこと限りなし。針でも突き刺しておきたいものだ。こめかみを指
圧すると、鋭利な痛覚が心地よかった。反射で閉じた瞼はそれを未練がましく、それを逃すまいとでも
したのか。
 見上げると空はあおあおとして高かった。鮮やかな色彩に網膜の深奥を灼かれ、右腕で陽光を遮
った。際限のない高さは何もかも吸い込む深い水底にも思われた。「今にも落ちん」とは巧く言っ
たものだと思う。見ている自分が落ちて行きそうだった。周囲に聳える数々の摩天の楼閣が無ければ、
地から足が浮く錯覚にでも見舞われたやも知れぬ。
 と思えば、額に滴。
 掲げた腕の袖を捲ると、肘の裏がかすかに、汗で濡れていた。踵を返して腕をおろすと肩の内側
が痛い。
 忌々しくなって掠れた息を、ちっ、とひとつ吐き出してやっと、水を摂っていなかった事を思い出す。
そういえば今日は昼飯も喰らっていない。軽く済ませるか。そう思いぐると腕を回すと、ごり、と骨が鳴った。
 すると反対も、つられたかのように痛みを増した。ついでに背中が張っていた。実に忌々しい。
忌々しい限りだ。
 鬱憤というのが相応しいか。
 どうにもならぬ現状への消極的な、煩悶染みた種類のやるせない、暗い怒りだ。何もかも煩わしく、
厭わしくなる。心からそのように思うわけではないのだが、どうにもならない現実を前にして、苛立ちは募り
蟠る。
 若い頃は酒で紛らわせていたが、今となってはもうそういう訳にはいかない。酒の力を借りて一時の
安寧を得、気を紛らわせたところで、問題の根本がどうにかなるわけではないのだから。「安らぎ」らしき物
を酒で買うような年でもない。それだけのことが可能な若さがあれば。頭痛や肩凝りや胸痛や腰痛や胃腸
の弱体化に悩んだりはしない。
 そういえば黒かった一本が最近、また白くなったと思いが至った。
 というのは髪の話である。





「此方に回せ。五分で片づける」
『はっ』

 舎へ戻り椅子に腰を下ろしたところで白髪が減るわけではなく、仕事は増える一方だ。
 増えると言うよりは処理しきれぬ分を全て一身に引き受けているからなのだが、変わりはない。
 モニターの向こうの部下はすぐにウィンドウを閉じて消えた。
 そして現れるは大量の追加ウィンドウ。
 全てが数字と署名欄で埋め尽くされているそれだった。いつもの仕事相手だ。
 その内一つに目が止まる。
 またか、と声がこぼれた。
 パネルを操作しつつ引き寄せると、「出向依頼」とでかでかと銘打たれたそれは、毎度見慣れた
細かな字の羅列だった。下を見れば、知る名前があった。有能な魔導師、才気の片鱗を見せ開化を
始めたばかりの有望な男だ。
 どうせなら「引き抜き要請」とでも明け透けに題すればよいものを。データの削減くらいしたら
どうなのだ。
 これだから本局は。と、レジアスはそう思う。
 憤りと同時に虚しさがこみ上げてきて、机に肘を乗せ掌を組み額を押し付け、暫しのあいだ目を閉じて
静かに呼吸をする。
 火を噴くような激しい怒りは無い。時空管理局本局による、地上本部からの魔導師・人材の引き
抜きはこれが初めてのことではない。日常茶飯事と言っていいくらいの出来事だった。
 漫然としてたゆたっている、溶岩のようなどろどろとした激情があった。同じいびり方が余りに
長い間繰り返されていて、堪忍袋の緒は切れるどころかゆるゆるに伸びきってしまっていたらしい。
署名をして浮かび上がる感情は、どこかやるせなさを含んでいて、植物然としているようだった。
 その先を見てみると、同じ件名のパネルが三枚見えた。すべて引き抜き。どれも有用な人間。
 腹立たしいことこの上ない。「陸」を蔑ろにしているのは明々白々だ。
 盗人め。
 丹精込めて育て、常に気を配り目をかけてようやく実った「果実」。それを横から泥棒にでも掻っ攫われ
ている様な気分だった。どうしても腹が減ったからと一つ失敬する程度なら可愛いものだが、夜中にトラックで
荷台一杯に持って行かれているようなものだ。
 されどサインはする。
 拒絶したところでどうせ、本人に金と権力をちらつかせるのだから、抵抗に実質的な意味はないのだ。
 その代わり、レジアスは思う。

(愚か者どもめ……)

 目の前の脅威より大局の安全を、と本局は言う。
 そのためには魔導師が必要。人材が必要。だから寄越せ。地上に戦力など要らぬ。
 馬鹿げている。と、その度に思うのだ。
 目の前の火の粉を振り払えぬ者に、どうして大火を鎮められよう。いや。

――鎮める気など無いのだ。

 思考を切り上げるときにレジアスはいつも、そのように結論を付けるようにしていた。矛盾など
無いし、漫然と熱いちろちろとした火を残すことができる。
 火は内側に燃え残り、反骨心じみた動力をレジアスに与え続けていた。
 今にきっと、今にきっと。
 そんなふうに思い続けて、苛烈な責務をこなしていくのだ。
 やがて疲れ果て、家路に就く。
 その後強烈に眠くなれば眠り、眠くならなければ飯を食す。飯を食えばどうせ眠気が襲い来る。
 それがレジアスの毎日だった。牢獄のように理不尽な。



 子を生し年を取り財を残し、それでなお死ねぬのは生物としてどうなのかと、そのように考える
ようになった。
 人間五十年とは言うものの、医学が進歩した今現在は、其れよりも長く生きる者は多い。次なる
世代を生み育み、それでもう生命体としての役目は終わりのはずなのに、それ以上に人を生かし続
けるものは何なのだろう。
 普遍的な答えなどあろうはずもない。人の生きる理由や目的は、それぞれ違っていて然るべきだ。
勿論何の根拠も持たず、ただだらだらと生きている者も居ようが。
 では、自分は何に生かされているのか――そう考えることがあった。
 しかしそれも少し前の話だ。最近ではこの問が頭に浮かぶことはない。答えはいつも、レジアスの
内心では、毎回が同じ場所に完結するようになっていた。
 ミッドチルダを愛している。
 それがただ一つ、レジアスの根底を支えているものであった。
 できることなら自らが魔導を操り、守っていきたいと子供の頃は願いもした。
 だが魔力を持たない者は、才能の壁以前に、その壁の前に立つことすら許されなかった。
 凡人以前の能無し。
 だから必死に、無能は無能なりに戦い続けるしかなかった。自分なりに抗い、足掻き続けた。
 そうして結果が、このザマである。

(老いたな)

 そんな事を考えるということは。
 それはつまり、がむしゃらに進むことができなくなっているということで。
 若さを失って久しい、いい証明になっているようだった。
 繰り返す。

(儂は老いた)

 レジアスは疲れていた。死もそう遠い未来の話ではあるまいと、そんな事をもふと思うくらいには。
 胸を張って死ねるかと言われると、必ずしもそのようには言えない。目的は完遂できるかわからない。
それに少なくとも、己がかつての潔癖さを失ってきていることも分かる。誇って人に話せないことだって
手を出したことはあるのだ。
 しかし信念を歪めたことは一度たりともなかった。
 死して記憶の全てを失い、いつか完全なる無に還る日が来るのだとしても、その寸前まで自分は、
ミッドチルダの為に生きてきた、道を曲げずに歩んできたと言うことができる。それだけが唯一、
レジアスにとっては救いのように感じられていた。
 日々続いていく怒りと理不尽の中で、それでも頑張り続けていられるのは、己のそのような部分に
起するのかもしれないと思っていた。
 それにもしかし、限界はあるのだ。
 足取りは軽くない。





 ――気付くと、帰りの夜道を随分と歩いてしまっていた。
 昼間のやや強い陽気のお陰でそれほど寒くないが、風が吹いていた。手の甲に吹き付けた空気は
意外なほどに涼しかった。

「?」

 ふとすれば、足もとにこつんと当たるものがあった。
 下を見て、形を見て、思う。

(剣?)

 鞘にかっちり収められた、ひと振りの剣がそこにあった。
 連想し、騎士に憧れたこともあったかと懐古した。思わず手に取って、眺めてみることにした。
 いや、待て。
 待て。

 何故このような場所に?

 が、そう思ったのは一瞬だった。
 剣は、鞘に入ったままの姿をしても、とても美しいものであるとレジアスにはなぜか分かった。鞘に
施された装飾はけばけばしくない程度の質素なものだったが、反対にその簡素さがとても清楚で、
中の剣の美しさを絶妙に引き立てているように思われるのだ。
 いや、馬鹿な。中身を見ていないのに何故。
 そのように思うのだが、レジアスはすでに「剣」に魅了されていた。どうしようもない、魔性の
ようなものに唆されて、ゆっくりとレジアスは、転がっていた剣を手に取った。焦がれる女の肌に触れ
るが如くの、恭しく緩慢で、どこか正常性を欠いた動作だった。
 どうしてか鳥肌が立つ。

「……」

 気が付くと、疑念や不信、警戒の心は鳴りをひそめてしまっていて。
 レジアスはどうしても、その剣を鞘から抜いてみたくなってしまった。
 憧憬の残り香に惹かれるように、背中を押されるような感覚を覚えながら、レジアスはそっと、
鞘から剣を抜き放った――。





「…………承太郎……ポルナレフッ……貴様らの力ッ! 全て『覚えた』ッ!」



「この『アヌビス神』ッ!! 今度こそはッ!! ぜっ……――〜〜〜〜対に負けな……うおォォ!? こ、腰がッ!」



「ニャニィ〜〜!? この『体』! この『疲労』! 頭痛肩凝り胸痛腰痛その上胃腸の弱体化ッ!」



「ぐ……起きろドグサレッ! この白髪全部引っこ抜くぞッ!! このクソカスめがァ――――ッ!!!」





 老当益壮不撓不屈。
 その手に握るは呪いの魔剣。
 地上本部の明日はどっちだ。
 リリカルレジアス、はじまります。



目次へ